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8話:門を閉じる者

18時となった。降りていく夜の帳を見て、朧は安堵の息をつく。


─今日も小夜様はお務めを果たしたみたいだな。


他人を拒絶し、自分の殻に閉じこもる彼女だったが、剱持とは何とかやれているようだ。

朧は外から視線を外す。自室の文机には、古びた和綴じの帳面が広げられていた。

そこには各地の結界の揺らぎや、怪異の出現件数が細い筆致でびっしりと書き込まれている。先程貴美子から渡されたものだった。


─これを見て当主がいない重大さを理解しろってことか。


朧が帳面に目を通していると、部屋の外から声が掛かった。


「朧様、今よろしいでしょうか」


女性の声だった。


「あぁ」


振り返って答えると、襖がスっと開いた。柔和な顔つきの女性が顔を覗かせる。その顔には見覚えがあった。朧は目を見開く。


「弥生……まだいたのか」


弥生と呼ばれた女性は、眉を下げて微笑んだ。


「姿を見なくなったからてっきり……」


朧が言いかけると、弥生は小さく首を振った。

 

「しばらく体調を崩しておりまして、暇をもらっていたんです」

 

弥生は、朧が小さい頃からお世話になっていた使用人だった。しばらく見ないうちに目元に細かな皺が増えていた。


「そう……もう体は大丈夫なのか?」


すると、弥生は困ったように微笑んだ。


「すっかりご老体になってしまいまして、思うように体が動かないんです。それで伝えたいことがありまして」


朧は弥生を手招きし、部屋に入らせた。座布団を引っ張り出して座らせる。


「伝えたいこと?」


聞き返すと、弥生は頷いた。


「今週いっぱいでここをやめることになりました」


朧はすぐに返事ができなかった。

姿を見なくなってから、どこかで予期していたことではあった。

それに弥生も、もう若い歳ではない。当然か。


「……長い間世話になった」


朧は頭を下げた。

 

「いえいえ、とんでもない。こんなご立派に育って私めも嬉しい限りです」


─寂しくなるな。


出来損ないだった自分を、ずっと励まして支えてくれていた女性。もう会えないのだと思うと、胸に来るものがある。


「それから……」


弥生は口を噤んだ。辺りをちらりと見てから声をひそめる。


「もう一点、お知らせしなければならない事があります。」


急に真剣な口調になり、朧は眉を顰めた。


「この屋敷で頻繁に会合が開かれているのはご存知でしょうか?」

「会合?何のだ」

「あぁ、やはりご存知なかったのですね。」


嫌な予感がする、と朧は思った。


「どうやら分家の方々がいらっしゃっているようなんです。」

「分家……」

「詳しいことは分かりかねますけれども、よくないことを話していらっしゃるのは確実。朧様、どうかお気をつけ下さい。」

「それはどういう……」


朧が聞き返そうとした時だ、遠くから足音が聞こえてきた。ハッとして弥生は姿勢を正した。


「……では、失礼いたします」

「……あぁ」


弥生は下がると、襖をパタンと閉じた。弥生の足音が遠ざかっていく。


─会合か。


分家が参加しているのなら、当主に関することのはずだ。

きな臭くなってきたな、と朧はため息をついた。


夜も更け、21時となった。

自室で夜食を取り終えた朧は白装束に着替え、奉納のために庭にある邸内社に向かう。外に出た途端に冷たい風が吹き付け、朧は身震いした。

社に近付くと、いつもは誰もいない庭に人影が見えた。


「……月華さん」


名前を呼ぶと彼女は振り向いた。朧に気が付き、にこりと微笑む。


「中入らないんですか?体冷えますよ」

「朧さんの神祇をちゃんと見ていたいんです」

「……そうですか」


朧は脇をすり抜けて社に近付く。汲んできた清水をことりとおいた。


「いつも一人で執り行っているんですか」

「まあ、すぐ終わるものですし見ても仕方ないですから」


そう言いながら朧は振り返った。水屋着を来ている月華を見る。


「……それにしても月華さん、ここで下働きみたいなことさせられてるんですか?立場としてはお客様でしょう」

「いえ……」


月華は視線を下に向けた。


「私がやらせてもらっているんです。私にはできることがこれしかないので……」


悲しげな表情に胸が痛んだ。

朧は知っている。彼女が家で血反吐を吐くような努力をしてきたことを。


「そんなこと……」


月華は驚いたように顔を上げた。


「そんなことない。月華さんは……」


─違う。俺にはそんなこという資格ないだろ。


朧は言葉を濁し、自嘲気味に視線を落とした。


─一番彼女を苦しめている俺から何が言えるんだ。

 

本来なら自分が一番に彼女を慈しみ、その居場所を守るべき立場だったはずだ。それなのに、今の自分は彼女と中途半端な距離を保つことしかできない。

向けられた献身が、今の朧には痛いほど眩しく、そして申し訳なかった。


「……月華さんは、もっと自分を大事にしていいんですよ」


それだけを絞り出すように告げると、朧は逃げるように社へと向き直った。

一歩踏み出し、神域と対峙する。

ずっとまとわりついてくる罪悪感を、冷たい夜気で無理やり削ぎ落とし、朧は背筋を凜と伸ばした。

夜の静寂が一段と深まり、張り詰めた空気が庭を支配する。

朧は短く呼気を吐き出すと、深く澄んだ声を夜風に乗せた。


─天つ空十六夜ふ月の照らすまに

─現と幽の境をば

─十六夜の血脈以て分かたむ

─神の御足は雲の端へ

─人の願いは地の底へ

─交わる道は今し閉ざして

─月の雫を鍵と成し

─十六夜の影を鎖と成して

─この門 永久に鎮め奉らむ


祝詞の響きに合わせて、空気の震えが月華の肌にも伝わっていく。空気が一段と重くなり、息苦しい。

月華は手をぎゅっと握りしめ、朧を見つめる。先ほどまで目を伏せていた男とは別人のような、厳かな横顔がそこにはあった。


─此の門、今しばし鎖し籠めん


祝詞の最後の一節が夜の闇に溶けると同時に、邸内社の奥から、重い石扉が閉ざされるような地響きが低く響き渡った。

異様な光景に月華が息を呑んで見守る中、社の周囲の空気が急速に歪み、一点へと収束していく。

朧が虚空に向けてすっと右手を振り下ろすと、パチンと糸が弾けるような音がして、一帯を支配していた重圧がふっと消える。それは、現世と幽世を繋ぐ"門"が、完璧に封じられた合図だった。

辺りは静まり返り、月華はそこでようやく、自分が息を止めていたことに気が付いた。

近寄りがたいほどの神々しさ。瞬きすら許されないような緊張感から解放され、肺に冷たい夜気を流し込む。


「朧さん、お疲れ様でした」

「……ありがとうございます」


振り返った朧の顔には、濃い疲労が表れていた。

"門"を閉めるには大きな力が必要となる。朧は意識を飛ばすとまではいかないが、今すぐ体を横にしたかった。


「わ、私お水持ってきますね」


しんどそうな朧を見て慌てて駆け出した月華を、朧は止めた。


「あぁ、大丈夫です……ちょっと休んだらなおるので」


そう言って一人でふらふらと歩いていく。

彼はいつだって頼って欲しいのに頼ってくれない。


─私は、やっぱりどこでも必要とされないんだなぁ。


痛む胸を押さえて、月華は朧の後を追った。



自室で白装束を脱いだ朧は、使用人に預けると部屋の電気を消した。毛布を引っ張り出して横になると、さっきよりも重い疲労が襲ってきた。


─少し眠ろう。


朧は目をつぶって意識を手放した。


どれくらい眠っていただろうか。

朧はふと目を覚ました。

部屋の中は真っ暗なままで、障子の向こうからかすかに夜風の音だけが聞こえてくる。

体を起こすと、先ほどまでの重い疲労は少しだけ引いていた。枕元に置いていた携帯をつけて時間を確認する。


─四時か。


朧は毛布を畳むと、掛けてあったスーツに着替える。

ここから常世神社までは三時間近く掛かる。小夜が起きる頃には着いておきたい。

荷物を持った朧は部屋の襖をすっと開けた。屋敷内は静まっており、物音一つしない。

朧は物音を立てないようにすり足で玄関に向かう。靴を履いていると、後ろに人の気配を感じた。


「朧さん」


囁き声で名前を呼ばれる。振り返ると、眠たげな月華が立っていた。


「すみません、起こしましたか」

「……いえ、お見送りしたかったので。大奥様にここを出ることをお伝えしましたか?」


「いえ」と朧は首を振った。


「いつも言ってないので」

「そうですか……」


なぜか寂しげな声が聞こえた。靴を履き終えた朧は立ち上がる。


「あの……朧さん」


月華は何か言いたげな様子だった。

 

「はい」

「またしばらく実家で過ごすことになりまして……」

「……そうですか。今もご家族は変わらず?」

「いえ。私が十六夜家の許嫁として見ていただくようになってからは、扱いは少し落ち着いています。心配ありがとうございます」


─なら縁談が破談になったらまた彼女は……。


また強い罪悪感が押し寄せてきた。俯いた朧を見て「それより」と月華は話を区切った。


「あの、また当分会えなくなるんです。朧さんも忙しいでしょうし。けど……また会えますか……?」


月華は珍しくもじもじとしながら言った。本当はいつ会えるかなんて分からない。けど、彼女を失望させたくなかった。


「ええ、きっと……」


すると、月華は嬉しそうに笑った。その笑顔に胸がうずき、朧は慌てて視線を逸らす。靴を履くと、立ち上がった。


「……では、また」

「ええ、お気をつけて」


屋敷の扉を開けて外に出る。冷たい風が吹き付け朧はコートに顔を埋めると、静寂に包まれた街を抜け、駅へと向かった。

まだ暗い街を抜け、夜明け前の駅に着いたのは5時前。ホームは静まり返り、人影はまばらだった。

小さな灯りの下、朧はふと目に留まるものを見つける。

ホームの片隅に、木箱のような小さなくじ筐体が置かれていた。中には鈴や御守り、動物の小物がランダムで出てくるらしい。


─引いてみるか。


手を伸ばし、コインを入れて一回まわす。カラン、と軽い音とともに小さな包みが落ちてきた。

手に取ると、中には猫のキーホルダーが入っていた。


─小夜様に似てるな。


少し笑うと、朧はキーホルダーをポケットに大事にしまい込んだ。


数分後、始発電車がやってきた。朧は乗り込み、窓際に腰を下ろす。

乗客は少なく、静かな車内にアナウンスが響いた。やがて電車が動き始める。


─早く、俺の帰るべき場所へ──。

 

朧は揺れに身を任せ、目を閉じた。

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