7話:守りたいもの
特急列車が減速し、ブレーキ音を響かせて駅に止まった。扉が開くと、冷えた空気が頬を撫でる。
長時間座っていたせいで、足がわずかに痺れていた。
朧は無言のままホームへ降り立つと、改札を抜ける。街の喧騒が聞こえ、すぐに大通りが見えてきた。たくさんの人が行きかい、茶色の路面電車が走っている。そして道の両脇には、重厚な門を構えた邸宅が並ぶ。
─行くか。
朧は息をつくと、十六夜家へと続く坂道を登り始めた。
しばらく歩くと、立派な豪邸が見えてくる。黒塗りの大きな門。どっしりと構えている瓦屋根。近づくと、その立派さがよく分かる。
門の前に立って十六夜と書かれた表札を見ると、朧は何度目か分からないため息をついた。
奉納のために仕方なく一週間に一回は帰ってきているが、この家には苦い記憶があった。
「……っ」
ズキと痛んだ頭を押さえ、朧は門の取っ手に手をかける。その時だった。
「朧さん……?」
懐かしい声が聞こえ、朧は顔を上げた。後ろに風呂敷を抱えた女性が立っていた。淡い藤色の着物に、細い帯。
長い睫毛に縁取られた瞳は、柔らかな琥珀色をしていた。儚げで、穏やか。風が吹けば、そのまま消えてしまいそうなほどに。
「月華……さん」
「帰ってきたんですね……お帰りなさい」
柔らかく微笑むその人を見て、朧の喉がわずかに詰まった。
「中、入りましょう。大奥様がお待ちですよ」
「……はい」
月華が門を開ける。黒髪がさらりと揺れ、白梅の香りが鼻をくすぐった。懐かしい香りに、朧は胸を焦がれる心地がした。
「……俺、荷物持ちますよ」
「ありがとうございます」
荷物を受け取って二人で歩き出す。
月華とは鎮守人になることが決まってから、一度も会っていない。二年振りの再会だった。
「お仕事、頑張っていらっしゃるんですね」
「……ええ」
なんとか声を絞り出す。
「朧さんのことだから、きっと上手くやれているのでしょう」
微笑みながら、月華は語りかける。朧は月華の顔を見ることができない。
「月華さん……」
朧は掠れ声で囁いた。
─どうして俺を責めないんですか。
「風が冷たいですね。早く家に入りましょう。」
─俺はあなたとの約束を……。
月華は足を止めずに、朧の一歩先を歩く。その背中が、やけに小さく見えた。帯の上から覗く肩は薄く、歩くたびに着物がわずかに余る。
──こんなに、痩せていただろうか。
二年前の記憶と、目の前の姿が噛み合わない。
─知った口を叩く資格は無い。
朧は月華の後ろ姿から目を逸らす。
結局、朧は何も言えないまま月華の後に続いた。
家の中に入ると静まり返っており、物音ひとつ聞こえない。
「朧さん、お座敷に大奥様がお待ちです」
「分かりました」
朧は靴を脱いで上がると、座敷に向かった。
長い廊下を進み、座敷の襖を開ける。10畳ほどの部屋の中に女性が座っていた。向かい側に二つ座布団が用意されている。
「帰ってきてたのね、朧」
「……ただいま帰りました」
朧は母、貴美子の向かい側に腰を下ろした。同時に、襖が開いて月華が入ってくる。
「お待たせしました」
月華は頭を下げると、朧の横に腰を下ろした。重い空気の中、貴美子が口を開いた。
「朧、十六夜家の当主の座が長年空位なのは自覚しているわよね?」
「……ええ」
「十六夜家は、国から"門"を閉める大切な役目を任されている。それなのにこの状態は芳しくないと思う人がたくさんいるでしょう。」
「……はい」
「鎮守人も立派な任だけれども、当主に勝るものでしょうか。まだ、鎮守人を続ける気なの?」
「……最後までやり切りたいと思っております」
朧のそのセリフに貴美子は目を細めた。
「分かってる?十六夜の血を絶やすことは、この国の"門"を解き放つも同義。これ以上、我儘は許されない。私は月華さんとの縁談を進めるつもりです。 彼女を迎え、あなたが正式に当主となる。それが、今の十六夜家に残された唯一の正解なのよ」
自分でも分かっている。仮の当主では、"門"が安定しないこと。空位のことを周りから追求されること。それに当主になり、継承の儀を行うと毎週の奉納は必要なくなる。
─それでも。
脳裏に孤独な少女の姿が思い浮かんだ。
「まだ……まだ俺には決められません」
貴美子は息をつくと、顔を月華の方へと向けた。
「月華さんはどう思います?」
「私は……」
月華は、視線を下に向けた。
「私は十六夜家の決定に、全て従うつもりでいます。ですが……」
わずかに視線を朧へ向ける。
「朧さんのお気持ちを置き去りにした形で進むことは、望みません」
─月華さん。
朧は目を合わせられず、拳を握りしめた。
「……そうですか。じゃあ、また決定は先延ばしね」
貴美子は話は終わり、と立ち上がった。責められたように感じ、朧と月華は俯く。自分のせいで月華を巻き込み、申し訳なかった。
貴美子が襖を開けて去って行った。足音が聞こえなくなると、朧はようやく息をついた。
「本当にすみません、月華さん……。俺が優柔不断なせいで」
頭をつけて謝ると、月華は慌てた声で「顔を上げて下さい」と言った。朧は恐る恐る顔を上げる。そんな朧を見て、月華は優しく微笑んだ。
「そんなにすぐ決めれる話でもありませんし、私は大丈夫ですよ。それに……」
今度は月華が頭を下げた。
「こちらこそすみません。約束で朧さんを縛ることになってしまって」
「や、やめてください。俺が提案したことなんですから」
そんな中、すっと襖が開いた。
「なら、俺がなりますよ」
いつからいたのだろうか。驚いて、朧は振り返る。襖を開けたのは、三男の十六夜朔だった。袴を着こなし、朧を見下ろしている。
会うのはおよそ一ヶ月ぶり。朧が兄弟たちを避けていたせいだ。
「なるって……?」
理解してはいるものの、朧は尋ねる。
「当主ですよ。俺が当主になって月華さんを嫁ぐ。兄さんは鎮守人を続けられる。兄さんにとっても悪い話じゃないでしょ。」
正論だった。朧は何も答えられない。
「それに」
朔は、月華に近付いてそっとその手を取った。月華はびくりと身体を震わせた。
「兄さんは守りたいものが多すぎます。こんなに可愛らしい女性がいるのに、巫様選ぶとか俺には理解できません」
月華の指先が、わずかに強張る。朔の手は温かいのに、どこか力が強い。
「……朔様」
困ったように名を呼ぶが、振り払えない。
朧の喉がひりついた。目の前の光景が、やけに遠く感じる。
─何か言え。この腰抜けが。
頭では分かっているのに、言葉が出ない。朔は兄を見据えたまま、続ける。
「兄さんの決断が遅くなればなるほど"門"が揺らいで国が崩れるかもしれない。そういう可能性があること、ちゃんと理解していますか。」
残酷なほどに理屈が通っている。
「兄さんは優しすぎるんです。この世では過剰な優しさなど足枷になるんですよ。」
その言葉に、朧の拳が震えた。
─優しい?
違う。怖いだけだ。失うのが。小夜を、月華を、家を、自分の選択で壊すのが。
朔はさらに踏み込む。
「俺なら迷いませんよ。蔑まれている孤独な巫様に仕えるよりも当主になる方が価値あるじゃないですか。」
朧ははっと息を呑んだ。朔は、朧を嘲笑うような笑みを浮かべている。
─それは言ってはいけない。それだけは─
「朔……」
朧が言い返そうとしたその瞬間、月華がそっと朔の手を外した。
「……朔様」
静かだが、芯のある声。
「私は、物ではありません。取引目的で扱うのはやめていただきたいです」
射抜くような目つきにも朔は動じず、逆ににっこりと微笑んだ。
「お気を召されたならすみません」
「それに、ここは巫様とも所以のある家門でしょう。悪く言うのはいかがなものかと」
そう言われ、朔は怠げに立ち上がった。月華の言葉に何も返さず、朧を見た。
「オレは母様と違って優しいのでね。来年までは待ってあげますよ。でもそれ以降は"門"が持たない。早く決めることをお勧めします」
「朔」
座敷を出ていこうとする朔を朧は呼び止めた。
「母さんは……母さんは、お前が当主になることを許しているのか」
朔はキョトンとしたが、にっこりと微笑んだ。
「分かってないですね。あの方は、十六夜家が繁栄すれば何でもいいんですよ。例えどんな手を使ってでも、ね」
朔はそう言い切ると、もう振り返らなかった。また座敷に静寂が訪れる。
「朧さん、ごめんなさい。偉そうなことを言ってしまいました……」
「いや、いいんです。助かりました」
朧はゆっくりと息をつくと、立ち上がった。
「……ちょっと外に出てきます」
月華が目を見開き、何も言えずに俯く。「……はい」と、かすかな声が返ってきた。
廊下を抜けると、家の中の重苦しい空気が一気に遠ざかる。静かな庭を眺めながら、朧は拳を握りしめた。
当主になるということは、十六夜の血を引く者として歩むべき、光の射す道だ。そして月華の手を取れば、穢れと呼ばれる役目から解放され、家系という大きな流れの一部になれる。何より、あの日の約束を裏切らずに済む。
─けれど。
「朧」と名を呼んでくれる小夜が思い浮かんだ。あの冷たい常世の境界で、体温を分け合う者もなく、ただ世界のために自らを捧げるだけの少女。
自分までが「まともな幸せ」を求めて彼女の元を去れば、彼女の孤独は完成してしまう。それは、彼女の存在そのものを、暗闇の底へ突き落とし、忘却することと同じではないか。
─どちらの選択をしても、結局は誰かを殺すことになる。
許嫁を愛し、家を守る責任。孤独な巫の隣にいたいと願う、理屈を超えた情。
その逃げ場のない選択に、朧の心は今にも音を立てて張り裂けそうだった。




