6話:傷つく価値もなく
枕元で鳴り響くアラームを指先で探り当て、朧は重い瞼を開いた。
止めた画面に表示された時刻は午前4時。眠りについたのは24時を過ぎた頃だったか。わずか4時間の浅い眠りでは、昨日の疲労が鉛のように体に居座っている。
朧はひんやりと冷えた床に足を下ろし、その冷気で無理やり思考を動かした。壁に掛かったスーツに袖を通し、鏡の前で身だしなみを整えると台所へ向かう。
買い置きの食パンをトースターに放り込み、タイマーを回した。静まり返った部屋に、熱を帯びるヒーターの匂いが広がる。やがて「チン」という軽快な音が鳴ると、彼はそれを素早く皿に移した。
─今日は上手く焼けたな。
心の中で誰に言うでもなく呟き、味気ないはずの朝食を数分で胃に収める。
身支度を完全に終えた朧は、まだ夜の気配が残る廊下を通り、小夜の部屋へと足を向けた。
「小夜様」
名前を呼ぶと彼女は身動ぎした。
「小夜様、おはようございます」
「ん……おはよう」
「もう俺行きますね」
「うん……行ってらっしゃい」
すぐに寝息が聞こえてきた。朧は思わず微笑むと、部屋を後にした。
巫殿を出てドアに鍵をかけると、向こう側から人影が歩いてくるのが見えた。
「おはようございます、朧さん」
タイトなスーツに身を包んだ男性が、朧に向けて頭を下げた。
「あぁ、剱持さん。おはようございます。」
剱持は、ニコッと微笑んだ。
「小夜様はまだ寝てらっしゃいますか」
「ええ。先程声は掛けたんですけど、寝てしまいました」
「そうですか。小夜様は私にお任せ下さい」
「すみません、よろしくお願いします」
朧は頭を下げると、剣持の横を通った。朧の後ろ姿を無言で見送った剱持は、巫殿のドアを開けると中へ入っていった。
─剱持さんがいるなら大丈夫だな。
鳥居をくぐった朧は、最寄りの駅へと向かった。
特急列車に乗り込むと、窓の景色を眺める。田んぼと民家が所狭しと並んでおり、遠くの山は霧で霞んでいる。朝5時ということもあり、外は薄暗く人影はほとんど見えない。
そろそろ産土の巫が霊山に登っている頃だろうか。と、どこかにいるもう1人の巫のことを考えた。
数分後、列車が動き出した。みるみる外の景色が流れていく。
─小夜様は、この景色を見たことがないんだろうな。
役目から解き放たれる安堵と、小夜への申し訳なさで胸が痛んだ。
小夜は、巫殿の扉を開ける音で目が覚めた。枕元に置かれているデジタル時計を見て、木曜日が来てしまったことに憂鬱な気分になる。
─朧が帰ってくるまであと24時間。
重い体を起こすと、掛けてあるカジュアルな普段着に着替える。
─剱持さんに挨拶をしなければ。
気が付かずに寝たままで一回嫌味を言われたことがある。早く支度をしなければならない。
足音が小夜の部屋に近付いてきた。小夜は慌てて部屋を出る。ちょうど剱持が姿を見せた。
「お、おはようございます……」
挨拶を口にしたものの、反応は一瞥もなく、無言のまま素通りされる。
小夜は唇を噛み締め、胸の奥がちくりと痛んだ。
その冷たい距離感に、彼女はどうしても居場所のない孤独を感じずにはいられなかった。
「あ、あのっ、朝ごはん、用意しますね……!」
「必要ないです」
勇気を出して声をかけたものの、即答されてしまった。
「その様子じゃ朝食もとってないんでしょう。はやくとって境内の掃除でもしてきたらどうですか。」
「ごめん……なさい」
小夜は拳を握りしめると、ダイニングテーブルへと向かった。テーブルの上には、ラップがかけられた食パンが用意されている。
─朧が用意してくれてる。
小夜は胸をじーんとさせ、トースターで食パンを温めると食べ始めた。
食べ終わると、シャツ姿になった剱持がやって来た。まだいたのか、というふうに小夜を見て舌打ちをつくと、ソファに座って書類仕事をし始めた。
「わ、私、境内の掃除して、きます」
一言声を掛けるも、また無視されてしまった。小夜は厚手の上着を羽織って巫殿を出る。
「うっ、さむ……」
外は冷気が漂っていた。本殿を抜け、境内に出る。歩いてきた小夜を見て、お喋りをしていた巫女たちが逃げるように去って行った。小夜は気にせず、掛けてある竹ぼうきを手に持った。落ち葉を集めながら、ふと遠くにそびえ立つ朱色の鳥居を見つめる。
─あの鳥居を抜けたら自由になれるんだろうか。
巫は、一生鳥居の中で生きていくことが絶対とされている。鳥居の外に出れば、災いが起こると伝説が残っているからだ。
小夜が石畳の階段に座って黄昏ていると、次第に空が明るくなり始めた。
─産土の巫様だ。
産土の巫は、命を作り出す役目があり、同時に朝をもたらす者でもある。しかし、産土の巫はここ、天御影から遠く離れた瑞鳳という国に住んでいる。会うことは許されておらず、名前すら知らない。
─産土の巫様は、忌み嫌われることなく生きていけているんだろうな。
嫉妬の気持ちが浮かんでしまい、不敬だと小夜は消し去った。
そんな中、鳥居の向こうで一人の少女が小夜を見ていることに気が付いた。
─何だ?
見間違えかと思ったが、小夜の視力は1.0を超えている。こちらを見ていることは確実だ。
小夜は立ち上がって階段を駆け下りた。ビクッと少女が体を震わせる。しかし、彼女は逃げなかった。小夜はその少女に声をかけることに決めた。
「どうした?」
小夜は鳥居の中に手招きする。外では話すことができない。
「えと……」
少女はもじもじすると、鳥居の中に足を踏み入れた。
「とこよのかんなぎさまっていますか?」
たどたどしい言葉で少女は、小夜を見上げた。
「いるけど、どうしてだ?」
「あの……お願いがあって」
少女は指をこねくり回した。
「……お父さんを死なせてほしいんです」
その願いに、小夜は息を呑んだ。
「……何か、あったのか?」
「お母さんが死んでからお父さん寂しそう。一緒に天国行ったら幸せになれるんじゃないかなって」
純粋な瞳で少女は言う。何も理解していない幼さが、小夜を惑わせた。
「……あのな、常世の巫は願いを叶えることはできない」
「なんで?毎晩人の命を奪ってるんでしょう?」
命を奪う。その言葉が小夜の胸に突き刺さった。
「確かに……確かにそうだよな。人の命を奪ってるんだよな」
「お姉ちゃん……?」
─なんで無意識に正当化しようとしてたんだろう。奪っているも当然なのに。
「けど、ごめんな。人はいつ死ぬか決まっている。例え巫であっても人の人生を操ることなんてできないんだよ」
そう言うと、少女の瞳に涙が浮かんだ。一滴涙が赤い頬を流れ落ちた。
「え、えと……」
「なんで……なんでお父さん助けてくれないの?いつも泣いててかわいそうなのに」
小夜は戸惑って少女を見つめる。こんな小さな子供と接するのは初めてで、どうすればよいのか分からなかった。
「どうしたんですか」
背後から声がかかって小夜は振り向く。不機嫌そうな剱持が立っていた。
「あ、この子が……」
剱持は小夜に向けて舌打ちをつくと、少女の目線に合わせて話しかける。
「君どこの子?早く帰った方がいいですよ」
「そんな言い方……」
小夜は剱持を止めたが、彼は無視して少女の手を引っ張る。
「ここにいると穢れますよ。早く帰って風呂にでも入りなさい」
それでも泣きじゃくる少女に、剱持は苛立つ。そこへ、鳥居の前を老婦人が通りかかった。この状況を見てギョッとしている。
「すみません、この子家に帰してもらえませんかね」
嫌悪感が漂う剱持と、穢れていると噂されている常世神社に怯えつつ、老婦人は少女の手を取った。少女は早足の老婦人に連れられ、去って行った。姿が見えなくなると、剱持はため息をつく。
「……そんな綺麗事言って過去を清算するつもりですか」
小夜は思わず息を止めて剱持を見た。
「どうやら朧さん知らないみたいじゃないですか。言ってないんですか?嫌われるのが怖いから」
「ど……して」
─どうして剱持が過去のことを知っているのか。
そんな小夜を見て剱持は、笑った。
「恐れなくて大丈夫ですよ。あなたを人として好く人なんてこの世にいませんから」
そんなことは理解している。朧が仕事で小夜に接しているのも。優しくしてくれていることも。
「常世の巫なんて一人で死ぬべきなんです」
剱持はそう言い切ると、去って行った。小夜はしばらく動くことができなかった。
─常世の巫は一人で死ぬべき。
冷たい言葉が胸に突き刺さった。
「……っ」
一瞬息が吸えなくなり、小夜は荒い呼吸を繰り返した。階段を登る剱持の後ろ姿を見る。一方的に心を切り裂いておきながら、去りゆく男の足音には微塵の躊躇いも混じっていない。
─傷つく側の悲鳴など、傷つける側にとっては気にする価値もない、ただの雑音に過ぎないのだから。




