4話:触れられない温もり
─ごめんなさい。ごめんなさい。
どこか遠くで声がする。
─上手くできなくてごめんなさい。
あぁ、あの子が泣いているんだ。
パリンと、何かが壊れる音が聞こえた。
よく頑張ったね。今までありがとう。
───あぁ、大丈夫。もう何も怖くないよ。
「……様。小夜様」
名前を呼ばれて小夜はうっすら目を開けた。途端に青年の顔が飛び込んでくる。
「おはようございます」
「おはよ、朧……」
朧は、なぜか安堵したように息をついた。
「……今何時だ」
「9時です」
「もうそんな時間か……」
「すみません。俺が起こすのが遅くなったから……」
従順な彼は、いつも素直に謝ってくれる。
「いや、いいんだ。もともと一人でなんか起きられないから」
小夜はベッドから降りると、朧の脇をすり抜けて部屋を出る。
─1年経っても距離感が掴めない……。
朧は小夜の後ろ姿を悲しげに見つめると、後に続いた。
「雨だなぁ……」
小夜が食パンを食べながら窓の外を見て言った。今日は朝から雨が降り続いている。
「そうですね……」
書類仕事を行っている朧が相槌を打った。里の役場や寺から回ってくる死亡届を確認し、ちゃんと神祇が行われたかを確認するのは鎮守人の役目だ。
「毎日任せっぱなしで悪いな」
その様子を見て小夜は言う。朧は「とんでもないです」と首を振った。
「俺にはこんなことしかできませんから。任せてくれればいいんです。」
「……そうか」
小夜はポツリと呟いた。
「ちょっと裏山の方に出掛けてくる」
食パンを食べ終わった小夜は立ち上がった。
「雨降ってますけど、行くんですか?」
「うん。息抜きしたいから」
「じゃあ、俺も……」
腰を上げる朧を、小夜は止めた。
「朧は忙しいだろ。大丈夫、すぐ戻ってくるから」
「なら、本殿の護衛をつけましょう」
「いつも言ってるだろ。護衛もいらない。山になんか登らないし、本当にただの散歩だから」
それでも不安げな表情の朧に、小夜は頑張って笑って見せた。
「それに私が常世の巫なんて知ってる市民はいないだろ。大丈夫、狙われなんかしないよ」
その言葉に朧は何か言いかけたが、口をつぐんだ。
「……分かりました。1時間以内には帰ってきてくださいよ」
「うん」
小夜は頷き、棚の中にしまってある小魚の袋を手に取る。支度をすると、朧に声を掛けた。
「朧。行ってくる」
大丈夫だと言っているのに、朧はわざわざ仕事を中断して玄関まで見送りに来た。
「気をつけてくださいよ」
「分かってるよ。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
立てかけてある傘を広げ、本殿とは反対方向の裏山に向かう。屋根の下から出ると、雨が傘を打ち付けてきた。
小夜は雨が好きだった。雨の日は、人の足音が遠くなる。視線も、ざわめきも、すべて水の向こう側へ沈んでいく。世界が、少しだけ静かになるから。
小夜は誰もいない小道を通り、歩いて行く。しばらくすると小さな地蔵堂が見えてきた。苔むした石段の先にひっそりと佇んでいる。軒先から落ちる雨粒が、規則正しく地面を叩いていた。
小夜は地蔵堂を覗き込む。
「……今日もいるな」
小夜に気付いた小さな影が、顔を上げた。その影はにゃあと鳴いた。それは、首輪のついた小さな猫だった。体を動かす度に首輪に着いた鈴がしゃんしゃんと鳴る。
この子猫とは1週間前に出会った。毎日が退屈だった小夜に1つの楽しみを与えてくれた存在だ。
傘を閉じ、子猫の前に座り込む。
「今日は小魚持ってきたんだ。食べるか?」
目の前に小魚を出すと、子猫は嬉しそうににゃあと鳴いた。小夜が袋を皿代わりにして差し出すと、すぐに食べ始めた。
愛おしさに頭を撫でたくなるが、伸ばしかけた手を引っ込ませた。穢れている自分が触ってはいけない。触れれば、きっとこの温もりまで壊してしまう。
「……お前は自由でいいなぁ」
そんな言葉がぽつりと出た。
役目を捨てて何も知らずに過ごせたらどんなに幸せだろうか。普通の高校生として友達と学校に通えたらどんなに楽しいだろうか。
考えれば考えるほど夢が膨らんでいく。しかし、小夜はそんな考えを振り払った。こんな夢は自分を苦しめるだけだ。それに……
「あぁ……」
頭の中に朧が思い浮かんだ。
彼は自分のせいで人生がめちゃくちゃになった人だ。鎮守人に選任されたせいで縁談が破談になりかけていること。本来なら、十六夜家の当主にならなければならないこと。朧はそのことを隠しているつもりだが、小夜は知っている。
─自分だけ逃げようとするな。
小夜は手のひらをぎゅっと握りしめた。
「……にゃあ」
鈴の音とともに、現実に戻る。小魚はすっかりなくなっていた。子猫は鈴を鳴らして立ち上がる。
「もう、行くのか」
子猫はしばらく小夜を見上げると、雨の向こうへ消えていった。
─そうか。帰る場所があるもんな。
誰もいなくなった祠の前で小夜はゆっくりと立ち上がった。
─私は誰に必要とされているんだろう。
そう考え始めると止まらなくなる。小夜の悪い癖だった。石段に座り込み、抱え込んだ腕に顔を埋める。
─いっそ誰にも必要とされなければ、あいつを解放してあげられるのに……。
冷たい雨の音が響く中、小夜は目を閉じた。
雨音の中、誰かの足音が聞こえた。小夜はうっすらと目を開ける。寝てしまっていた。今は何時だろうか。
「小夜様……」
名前を呼ばれて、小夜はびくりと体を震わせた。目の前に影がさす。顔を上げると、傘をさした朧が立っていた。
「……朧」
朧は、濡れた前髪を払いながら、深く息を吐いた。
それは叱責ではなく、安堵の息だった。しかし、小夜は気が付かなかった。怒られると思い、身を縮こませる。
「ごめん朧」
無意識に謝罪の言葉が出てきた。
「探したんですよ。1時間経っても帰ってこないから」
「ごめん……ごめん……」
謝り続ける小夜の手を朧はとった。
「ほら、帰りますよ。手冷えてるじゃないですか」
その手の温かさに小夜は泣きたくなった。
─あぁ。
「昼ご飯も作ってますからね。先シャワー浴びますか?体冷たいでしょう」
─これ以上優しくしないで欲しい。
小夜は、朧の手から自分の手をゆっくり抜き取った。自分で立ち上がる。
「悪かった。少し眠たくなって」
「……そうだったんですね。」
「それからシャワーはいいよ。どうせまた濡れる」
「分かりました」
朧が先に歩き出した。傘を広げると、少し距離を取って後に続く。雨音が二人の間に小さく響く。
小夜はそれに混ざる自分の鼓動を感じながら、静かに歩き出した。
巫殿につくと、食卓から漂う昼ご飯の匂いが、そっと鼻をくすぐった。炊きたての米の甘い香り、味噌汁の温かい匂い、野菜のほのかな香り。雨の湿り気と混ざり、少しだけ心が落ち着く。
「温め直すので、先着替えてきてください」
小夜は頷くと自室に向かった。小夜の後ろ姿を見た朧はタオルで体を拭きながらキッチンに向かう。さっきの怯えた小夜の瞳を思い出すと胸が痛んだ。
─どうすればいいんだろうか。
手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、妙に遠い。1年経って少しは信頼してくれるようになったと思ったが、さっきの様子を見るとまだまだのようだ。
朧は浮かない表情を浮かべてご飯をよそう。そこへ着替えた小夜がやってきた。なぜか顔色が暗い。
「……朧」
小夜は、俯いたまま言った。
「……さっきは悪かった。私のせいで朧の時間を無駄にしたし、濡れちゃったし、それに……」
「小夜様」
小夜はバッと顔を上げた。
「俺は、謝罪の言葉より感謝の言葉を聞きたいです」
「感謝……」
「それに別に申し訳ないとか思わなくていいんですよ。俺が探したくて探したんですから」
「えと……あ、ありがとう」
「はい」と朧は微笑んだ。妙に気恥ずかしくなり、小夜は俯く。
「……私、ついどくから朧も着替えてきた方がいいんじゃないか」
「いいんですか」
「うん。風邪引くぞ」
有難く朧は任せることにし、自室に向かった。
シャツを替えて戻ると、食べる準備はできており、ダイニングテーブルで小夜がぼうっと外を見ていた。
雨は相変わらず屋根を打ち、雫の音が静かに室内に響く。
「小夜様、お待たせしました。支度ありがとうございます」
「いや、いいんだ。早く食べよう」
朧が椅子に座ると、「いただきます」と二人で手を合わせた。
「味付け変えたか?こっちもおいしい」
「よく分かりましたね。隠し味入れてみたんです」
先程とはうってかわって和やかな時間が流れる。
「雨も降ってますし、今日は早めに登りますか」
止む気配のない雨を見ながら朧は言う。小夜も外を見て頷いた。
昼ご飯を食べ終わると、夕方の神祇に備えて小夜は休息を取ることにした。
「15時になったら起こしますね」
「うん」
パタンとドアが閉じられると、巫殿には雨の音だけが静かに響いた。
小夜は深呼吸をひとつし、布団に身を沈める。窓の外では、細かい雨粒が屋根を打つ規則正しい音が響いている。
─またあの時間が来てしまう。
神祇の時間が来れば、何者かが自分の内側へ土足で踏み込んでくるような、耐え難い侵食の感覚に耐えなければならない。何年経ってもあの痛みには慣れることができない。
─あの苦しみは、誰とも分かち合えないんだろうな。
恐怖から逃げるように、小夜は泥のような眠りに沈んだ。
「小夜様」
15時になった。布団にうずまる小夜に、朧は声をかける。
「15時になりましたよ」
「……ううん」
布団がもぞりと動いた。
「小夜様、起きてください」
「起きてるよ……」
「体を起こしてください」
また布団が動き、小夜はゆっくりと起き上がった。
「もう15時か……はやいな」
「雨降ってるので1時間後には出ますよ」
「……うん」
そう言うと、朧は部屋を出ていった。小夜はだるい体を起こして畳んである服を手に取る。そして、外を恨めしく見た。先程と変わらず雨が降り続いている。いくら雨が好きでも神祇の時くらいは止んで欲しい。
「はあ……」
─そんなこと願っても仕方ないか。
ため息をつくと、小夜は支度に取り掛かった。
「朧。準備できたよ」
「今行きます」
ちょうど一時間後、支度を終えた小夜は玄関で朧を待つ。そこへ、レインコートを二着持った朧がやってきた。
「小夜様、一人で着れますか」
「うん」
小夜はレインコートを受け取ると、すぐに着替える。フードが引っかかったが、何も言わずに朧が直してくれた。
「行きましょうか」
朧もレインコートを着ると、扉を開けた。屋根からポツポツと規則正しく水滴が落ちてくる。
「やまないな……」
「そうですね」
フードを深くかぶると、小夜は歩き出した。
巫殿の裏にある小道を抜けてしばらく歩くと、霊山の入口が見えてくる。
─二時間だけ耐えればいいんだ。
小夜は、ぎゅっと拳を握りしめると霊山に入った。雨がしとしとと降る中、二人は霊山を登っていく。
始めは緩い坂道だが、しばらく登ると斜面が急になってくる。何年もの間登ってきたが、中盤になるとどうしても息が上がってしまう。
そんな小夜の後ろ姿を見て、朧は声を掛けた。
「小夜様、いつでもおぶりますから言ってくださいね」
「……自分で、行く」
そう言いながら小夜はちらりと朧を見た。涼しげな顔で、息が乱れる様子は見られない。
─何でそんなに体力あるんだよ。
するとバチッと、朧と目が合った。小夜は慌てて視線を逸らす。高鳴る心臓を押さえて、また一歩を踏み出した。
─余計なことを考えるな。
乱れる呼吸と、雨音だけが響く。
余計な思考を振り切るように足元だけを見つめて進んでいくうちに、いつしか周囲の木々がまばらになり、風の音が変わった。
「……着いた」
視界が開け、岩肌の露出した頂上に辿り着く。
「お疲れ様でした。時間通りです。」
振り返れば、朧がすぐ後ろに涼しげな表情で立




