3話:十六夜 朧
「小夜様」
二時間近くかけて下山し、巫が生活する巫殿にたどり着いた。
「小夜様、着きましたよ」
名前を呼ぶものの、小夜は身動き一つしない。しかし、こうなることは分かっているので、朧は彼女の靴を脱がし、中へ上がった。
荷物を下ろすと小夜の部屋に行き、器用に扉を開ける。小夜を背中から下ろすと、ベッドに優しく横たえた。顔色の悪さに不安になり、息をしていることを確かめる。
─ああ、よかった。
朧はホッと安堵の息をつくと、晩御飯の支度を始めることにした。
台所に立った朧は、小夜の大好物であるカレーの支度に取り掛かる。
本来巫殿には侍女や、護衛が住み込みで働く決まりだが、名乗り出るものがいないらしく、小夜と朧の2人しか住んでいない。巫殿は静まり返っており、トントンと朧が野菜を切る音だけが響く。
そんな中、胸元に入れていた携帯が鳴った。朧は手を洗うと携帯を取り出す。画面に表示されている名前を見て、指が止まった。十六夜貴美子、朧の母からだった。少し逡巡した後、朧は通話ボタンを押す。
「……はい」
『朧、今よろしい?』
携帯の向こうから落ち着いた女性の声が聞こえる。
「ええ、まあ」
『今、月華さんがいらっしゃってるの』
「……」
"月華"という名前を聞いて、朧は息を呑んだ。
『縁談は破談になった訳ではないわ。今春までには決めてほしい』
「……今は任の途中です」
『一年経ったし、辞退すれば代わりの人が来るんでしょう。最初はあんなに渋ってたじゃないの』
「それは……」
事実だったため、朧は何も答えられなかった。
『当主のこともまだ決まっていないし……1週間くらいこっちに滞在できないのかしら?』
「……任がありますので」
電話の向こうで大きなため息か聞こえた。
『とりあえず明後日、奉納の時に話すから考えておいて。頼りにしてるわよ』
「……」
プツッと切られた。朧はしばらく、暗い画面を見つめたまま動かなかった。母の言葉はいつも命令ではなく、期待。だからこそ逆らえない。
名門、十六夜家。結界師の一族であり、古くより神事を司り、天御影の祭祀を裏から支えてきた由緒正しい家。朧はその嫡男だった。如月月華は分家のお嬢様。十六夜家にとっても申し分ない女性。そして10年前。朧とある約束をした女性だ。
─ごめん、月華さん。
約束のことを思うと、申し訳なさと苦しさで息が詰まりそうだった。
鍋の中でカレーが煮立っている。それを険しい表情で見つめていると、
「朧……?」
いつの間にか小夜が目を覚まし、台所を覗き込んでいた。
「小夜様、起きられたんですね」
「うん、大丈夫か朧」
「……何がです?」
「難しそうな顔してたから。いいか朧。私のことで悩んでいるようだったらやめてい……」
「やめません」
朧はきっぱりと言い放った。
「あなたという方は、何ですぐそんなこと言うんですか」
「朧に苦しんでほしくないんだよ。霊山なんか一人で登れるし」
「登れる登れないの問題じゃないんですよ。神祇の後倒れるでしょ。俺がいなかったらどうするんですか」
そう朧が尋ねると、小夜はパチパチと目を瞬いた。
「山頂で一夜過ごせばいいだろ」
やったことがあるような言いぶりに、朧は手を止めた。
「小夜様。まさかやったことが……?」
冗談だろうと思ったが、小夜は当たり前だろうと言うふうに頷いた。霊山は神がかっていることもあり、この世ではないものも潜んでいる。そんな中一人で過ごすなど、考えられない。恐ろしさに背筋に冷たいものが走った。
「何だよ……今日はカレーか。ありがとう」
「小夜様。どのくらいの期間、鎮守人がいなかったんですか」
「いや鎮守人はいたぞ。てかこの話はもういいだろ。ほらすごい煮立ってる」
小夜は朧の手元を指さす。
「朧。もう食べてもいいか?」
皿を手に持った小夜は朧を見つめる。
─ああ。
小夜の瞳を見ると、朧は6年前の鎮守人選任の顔合わせを思い出す。ビー玉が入ったような虚ろの瞳は当時の朧を震撼させた。この少女は一体どんな人生を─。
想像すると嫌な気持ちになり、朧は小夜から目を逸らした。
「朧?もうつぐからな。」
何も答えない朧に呆れて小夜は鍋の中を覗き込んだ。シャンプーの匂いが鼻を掠め、朧は反射的に身を引いた。それに気付いた小夜は一瞬寂しそうな顔をする。
「小夜様、あの、違うんです。これは……」
慌てて理由を話そうとしたが、小夜はいつもの無表情に戻り、気にしない振りをしてカレーをつぎ始めた。
「小夜様、俺がつぎます」
「いいよ」
小夜は自分でつぐと、立ち尽くしている朧を一瞥せずにテーブルの方へ行ってしまった。
─やってしまった。
朧は小夜の後ろ姿を見て落ち込む。
四人兄弟の次男として生まれた朧は、女の子と接することなく、男だらけの家で育ってきた。小夜と住み始めて一年経つが、未だに慣れない。
「朧、その……嫌じゃなかったら一緒に食べるか……?」
「嫌じゃないです。食べましょう」
朧はカレーを注ぐと、小夜の向かい側に座った。
「いただきます」
小夜は手を合わせてカレーを口に運ぶ。味はどうだろうか。
「おいしい」
小夜はぎこちなく少しはにかんだ。朧はホッと安堵した。
「よかったです……あのですね、さっきは俺が……」
「明日はまた雨が降るらしい。レインコート持っていかないとな」
ちゃんと話そうとするも、はぐらかされてしまう。朧はうなだれて頷いた。
「……はい」
また話を持ち出す訳にもいかず、沈黙が下りる。しばらく無言で食べ続けていると、奥の部屋からガタガタッと物音が聞こえた。朧はバッと顔を上げる。
「大丈夫だ」
異様な空気の中、カレーを食べている小夜が言った。
「これのどこが大丈夫なんですか」
「ただの……ただの亡霊だから」
「亡霊って……亡霊がここに住んでるんですか」
怪訝な顔をしながら朧は尋ねるが、小夜はコクリと頷いた。
「小さい頃会ったことあるぞ。見て気分がいいもんではなかったがな」
「……そうですか」
亡霊が住みついていることには恐怖を覚えたが、刺客ではなくて良かった。朧はホッと息をつく。それにしても何の亡霊が住んでいるんだろう。気になったが、ふと小夜の顔を見た朧は、彼女の顔が陰っていることに気が付いた。
─やめておこう。
妙な好奇心で首を突っ込んでも彼女を傷つけるだけだ。朧は口をつぐんで最後の一口を飲み込んだ。
「じゃあ、シャワー浴びてくる」
「了解です」
小夜が風呂場に向かい、また静寂が訪れた。朧は立ち上がると、洗い物をすませる。明日の朝食の準備もしたところで不意に手を止めた。建物の奥へと繋がる廊下を見つめる。
─見ておくか。
朧はまだ小夜がシャワーを浴びていることを確認すると物音がした部屋へと向かう。長い廊下を歩き、物置を覗き込む。しかし、人影はなく、ダンボールが積み重なっているだけだった。
─さすがにいないよな。
霊山の中で何度か霊的なものと対峙したことはあるが、家の中で戦うことになるのはさすがに避けたい。
─それにしても。
朧は離れへと繋がる渡り廊下を見た。離れには絶対入るなと上からも十六夜家からも言われている。何かあったのだろうか。
そんな時、離れの方に人影がうっすらと見えた。心臓が跳ね、目を凝らす。
─見間違いか。
何かに誘われるように足を一歩踏み出す。ギシと床が軋む音がした。
─見るだけだ。きっと何ともないだろう。
必死の言い訳とは裏腹に、身体は熱に浮かされたように禁域へと引き寄せられていく。その境界を越えようとした刹那、「朧……?」と声が背後から降ってきた。
「朧、どうした?何かあったか?」
朧はハッとして動きを止めた。振り向くと不安げな顔をした小夜が立っていた。朧がいない事に気付いて探しに来たのだろう。髪の毛は濡れたままだ。
そこで朧は、自分が恐ろしいことを、ほんの一瞬でもしかけようとしていたことに気付き戦慄した。正面から小夜の目を見ることができず、俯く。
「……すみません。何でもないです」
「……そうか」
「……髪濡れたままじゃないですか。風邪引きますよ」
「だって朧がいなかったから不安で……」
小夜ははっとすると言葉を区切り、洗面所へ歩いて行った。ドライヤーの音が聞こえてくる。
─小夜様が来なかったら、きっと俺は今頃……。
そう考えた朧はぶるりと震えた。離れの方を見ないようにしながらダイニングテーブルへと戻る。
─さっきのは人影は何だったんだろう。
気になるが、簡単に聞ける話ではない。朧は気を紛らわせるために、胸元から携帯を取り出してメールを確認する。母から何着も連絡が入っていた。未読無視をしていた訳では無いが、それを見かねた母が電話してきたのだろう。
どれも縁談と次期当主についての話だった。
─考えなければいけないことが多すぎる……。
込み上げてくる微かな頭痛を追い払うように、眉頭のくぼみを指先で強く圧迫した。深く吐き出した溜息とともに、重い思考を一度切り離す。
やがてドライヤーの音が止まった。朧は顔に貼り付いていた疲労を拭い去り、いつもの涼やかな表情を呼び戻す。そこへ、小夜がひょっこりと顔を出した。
「朧。シャワー浴びてきていいよ」
そう言われたが、朧は首を横に振った。
「いえ、先に小夜様を寝かせます」
「寝かせるって私は子供じゃない」
「俺にとっては十分子供ですよ」
「朧21だったっか?5歳しか変わんないんだぞ。」
朧は肩をすくめると、小夜を促して寝室へ向かう。小夜は不満げにしながらも、しぶしぶその後に続いた。
彼女がベッドに潜り込んだのを見届けてから、パチンと部屋の明かりを落とす。
「ゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」
「……おやすみ」
静かにドアを閉め、そのまま数分、朧はその場に佇み続けた。
扉の向こうから規則正しい寝息が聞こえてくると、ようやく肺の底から息を吐き出す。
窮屈だったネクタイを引き抜き、シャツの第一ボタンを外した。喉元を締め付けていた拘束が消え、呼吸が楽になった途端、澱みのような記憶が這い上がってくる。数時間前、母と交わした会話。
逃れられない現実が、再び彼の肩にずしりと重くのしかかった。それに─。
朧はドアから体を離した。
小夜の側にいられないのが不安だ。彼女は自分がいなくなっても他の人とやっていけるのだろうか。
否、と朧はかぶりを振った。情をかけてはいけない。戻れなくなる。
─どうかこの感情が忠義でありますように。
静寂に満ちた夜の底で、偽りの青年は祈った。




