冒険者への道
村を出て三日目。
俺は街道を一人、歩き続けていた。
幸い、ダリウスが持たせてくれた荷物には食料や水、簡単な野営道具が入っていた。三年間の村での生活で身につけた狩りの技術も役に立っている。
「……そろそろ、休憩するか」
日が傾き始めた頃、街道脇の小さな泉を見つけて足を止めた。
荷物を下ろし、水筒に水を汲む。冷たくて美味い水だ。喉を潤し、ふと水面に映る自分の顔を見た。
黒い髪。深紅の瞳。整った顔立ち――村人たちは「珍しい色の目だ」とよく言っていた。
「……神代レン」
自分で名乗った名前。でも、これが本当の名前なのか、それすら分からない。
ふと、左肩がじんわりと熱を帯びた。
「また……」
服をずらして刻印を確認する。複雑に絡み合った黒い文様。時折、こうして熱を持つことがある。まるで何かに反応しているように。
「これは一体……」
その時だった。
「きゃああああっ!!」
女性の悲鳴が森の奥から聞こえてきた。
「!?」
反射的に立ち上がり、声のした方向を見る。森の中から、何かが近づいてくる気配。そして――
木々をなぎ倒しながら、一頭の巨大な猪が飛び出してきた。体長は優に三メートルを超える。目は血走り、牙は鋭く尖っている。
「デモンボア……!」
村で聞いたことがある。凶暴化した魔物の猪だ。
そして、その猪に追われて、一人の少女が必死に走ってきた。
「助けて……誰か……!」
茶色の髪を後ろで束ねた、十四、五歳くらいの少女。農民風の服装で、手には薬草の束を握っている。おそらく薬草採りに来て、魔物に遭遇したのだろう。
少女は走りながらこちらに気づき、目を見開いた。
「危ない! 逃げて!!」
だが俺の身体は、既に動いていた。
考えるより早く、腰の短刀を抜く。黒い鞘から現れた刃は、夕日を受けて鈍く光った。
「……っ!」
駆け出す。デモンボアと少女の間に、滑り込むように割って入った。
「え……?」
少女が呆然とする。
デモンボアが咆哮を上げ、そのまま突進してくる。地面が揺れるほどの重量。正面から受ければ、確実に潰される。
でも――
「遅い」
呟いた瞬間、身体が勝手に動いた。
左に身を翻し、突進を紙一重で回避。同時に短刀を一閃。デモンボアの側面に鋭い斬撃が走った。
「グオオオォォ!!」
デモンボアが苦痛の咆哮を上げる。だが、浅い。皮膚が分厚すぎる。
「くそ……もう一撃!」
着地と同時に地面を蹴り、今度は正面から踏み込む。デモンボアが牙を振り上げた瞬間、その懐に潜り込んだ。
「せぇぇぇやっ!!」
短刀を逆手に持ち替え、全力で喉元に突き立てる。
ズブリと、嫌な手応え。
「グ……ガァ……」
デモンボアの動きが止まる。そして、巨体が横倒しに崩れ落ちた。地面に大きな音を立てて。
「……はぁ、はぁ」
息が上がる。心臓が激しく打っている。
でも――不思議と恐怖はなかった。むしろ、身体を動かすことに、妙な心地よささえ感じた。
「す、すごい……」
呆然とした声。振り返ると、少女が尻もちをついたまま、こちらを見ていた。
「大丈夫か?」
手を差し出すと、少女は恐る恐るそれを掴んだ。
「あ、ありがとうございます……あなたが助けてくれなかったら、私……」
「怪我はないか?」
「は、はい……大丈夫です」
少女は薬草の束を握りしめたまま、俺をまじまじと見つめた。
「あの……あなた、冒険者さんですか?」
「いや、俺は……」
何と答えればいいのか。冒険者になろうとはしているが、まだ登録もしていない。
「これから、冒険者になる予定だ」
「そうなんですか……でも、すごく強いんですね。あのデモンボア、村の自警団でも手こずるって聞いてたのに……」
「……運が良かっただけだ」
本当にそう思う。なぜあんな動きができたのか、自分でも分からない。身体が勝手に動いた――まるで、何度も繰り返してきたかのように。
「あの、お名前を教えていただけますか? 私、ソフィアって言います」
「俺はレン。神代レンだ」
「レンさん……本当にありがとうございました! あの、よかったら村に来てください。お礼をさせてください!」
「いや、気にしなくて……」
「ダメです! 命の恩人なんですから!」
ソフィアは頑として譲らなかった。
結局、ソフィアの村に立ち寄ることになった。
小さな村だったが、人々は温かく俺を迎えてくれた。村長はソフィアの祖父で、デモンボア討伐の礼として、銀貨十枚と食料を持たせてくれた。
「本当に助かりました。あのデモンボア、ずっと村の脅威だったんです」
「そうだったんですか」
「ええ。レンさんのおかげで、安心して畑仕事ができます」
ソフィアは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、少しだけ心が温かくなった。
誰かの役に立てた――それが、妙に嬉しかった。
「レンさんは、これからエクリプスに?」
「ああ。冒険者になるつもりだ」
「すごいなぁ……私も、いつか外の世界を見てみたい」
ソフィアは遠い目をした。
「きっと見られるさ」
「……レンさんは、何か目的があるんですか? 冒険者になる理由とか」
「目的……」
俺は少し考えてから、答えた。
「自分が何者なのか、知りたいんだ」
「自分が……?」
「ああ。俺は記憶がない。三年前に、ある村で倒れていたところを保護されたんだ」
「記憶喪失……なんですか」
ソフィアは驚いたように目を見開いた。
「でも、身体は色々なことを覚えている。戦い方も、生き方も。だから、冒険者として旅をすれば、何か思い出せるかもしれない」
「そっか……」
ソフィアは少し悲しそうな顔をして、それから笑顔を作った。
「きっと大丈夫ですよ。レンさんなら、絶対に答えを見つけられます!」
「……ありがとう」
その夜、村で一泊させてもらい、翌朝早くに出発した。
ソフィアが見送りに来てくれた。
「レンさん、気をつけて」
「ああ。ソフィアも、無理して薬草採りに行くなよ」
「はい! ……あの、もし、また近くに来ることがあったら……」
「必ず寄るよ」
俺がそう言うと、ソフィアは嬉しそうに笑った。
「約束ですからね!」
小さく手を振るソフィアに別れを告げ、俺は再び歩き出した。
それからさらに二日。
ついに、境界都市エクリプスが見えてきた。
「……でかい」
思わず声が出た。
高くそびえる城壁。巨大な門。その向こうには、見たこともないほど大きな街が広がっている。
村しか知らなかった俺には、全てが新鮮で、圧倒的だった。
門には警備兵が立っている。俺が近づくと、槍を構えた。
「止まれ。街に入る目的は?」
「冒険者になるためです」
「冒険者? 推薦状か身分証明はあるか?」
「推薦状なら」
ダリウスからもらった推薦状を見せる。兵士は中身を確認し、頷いた。
「よし、通れ。冒険者ギルドは中央広場の近くだ。すぐ分かる」
「ありがとうございます」
門をくぐる。
その瞬間――
視界が一変した。
石畳の道。立ち並ぶ商店。行き交う人々。人間だけじゃない。獣の耳を持つ獣人、長い耳のエルフ、小柄で屈強そうなドワーフ――様々な種族が混在している。
「これが……境界都市」
東西の文化が融合した街。ダリウスから聞いていた通りだ。
右手には西洋風の石造りの建物、左手には東洋風の木造建築。看板には魔法の文字が浮かび、魔導具を売る店もある。
全てが新しく、全てが刺激的だった。
「よし……まずは、冒険者ギルドだ」
人の流れに沿って歩く。中央広場を目指していると――
突然、左肩の刻印が熱を帯びた。
「っ!?」
これまでにない強い反応。まるで、何かが近くにあるとでも言うように。
「何だ……?」
周囲を見回す。特に変わったものは見当たらない。ただの賑やかな街の光景。
でも、この感覚は確かだ。何かが、この街にある。
『――ミコト』
また、あの声。
頭の奥で、誰かが呼んでいる。
「ミコト……それが、俺の本当の名前なのか?」
呟いた言葉は、街の喧騒に掻き消された。
しばらく歩いて、ついに目的地に辿り着いた。
巨大な建物。入口には大きな看板が掲げられている。
【冒険者ギルド エクリプス支部】
「……ここか」
深呼吸をして、扉を押し開けた。
中は思った以上に広かった。
受付カウンターがあり、奥には依頼の張り紙が壁一面に貼られている。テーブルと椅子が並び、多くの冒険者たちが酒を飲んだり、談笑したりしている。
そして――
俺が入った瞬間、何人かの視線がこちらに向いた。
「おい、見ろよ。新人か?」
「ガキじゃねぇか」
「田舎から出てきたって感じだな」
ヒソヒソと囁く声。明らかに見下したような視線。
気にしないようにして、受付カウンターへ向かう。
「あの、冒険者登録をしたいんですが」
カウンターの向こうにいたのは、二十代半ばくらいの美人の女性だった。栗色の長い髪を後ろで一つに束ね、整った顔立ちに優しそうな笑みを浮かべている。
「はい、いらっしゃい。初めての登録ね?」
「はい」
「推薦状か、身元保証人はいる?」
「推薦状があります」
ダリウスの推薦状を渡す。女性はさっと目を通し、頷いた。
「辺境の村からね。分かったわ。じゃあ、まず基本情報を記入してもらうわね」
羊皮紙と羽ペンを渡される。
名前、年齢、出身地――書けることは少ない。特に、出身地は「不明」と書くしかなかった。
「記憶喪失……なのね」
女性は同情的な目を向けた。
「でも大丈夫。冒険者には過去を問わない。あなたがこれから何をするか、それだけが大事よ」
「……ありがとうございます」
「私はミラ。この支部の受付をしてるの。困ったことがあったら、いつでも聞いてね」
「はい。よろしくお願いします」
ミラは優しく微笑んで、カウンターの奥から小さなプレートを取り出した。
「これがあなたの冒険者プレート。ギルドカードとも呼ばれてるわ。常に携帯してね」
銅色のプレート。そこには俺の名前と、ランクが刻まれていた。
【神代レン / ランク:F】
「ランクはFからスタート。実績を積めば、E、D、C……と上がっていくわ。最高はSランクよ」
「分かりました」
「それじゃあ、早速だけど――」
その時だった。
「おいおい、また新人か? 最近多いな」
後ろから、馬鹿にしたような声。
振り返ると、三人の男たちが立っていた。全員、体格が良く、武器を身につけている。明らかに冒険者だ。
中央にいる金髪の男が、俺を見下すように言った。
「どうせすぐ辞めるんだろ? 冒険者なめんなよ、坊主」
「……」
無視して、ミラの方を向こうとした。
「おい、無視すんのか!?」
男が肩を掴んできた。
「……手を離してください」
「はぁ? 生意気な――」
「カイン、やめなさい」
ミラの声が、ピシャリと響いた。
「新人をいじめるのは、ギルドの規則違反よ。次やったら、あなたの依頼受付を停止するわ」
「ちっ……分かったよ」
カインと呼ばれた男は、不満そうに手を離した。
「覚えとけよ、新人。冒険者の世界は甘くねぇからな」
捨て台詞を残して、男たちは奥のテーブルに戻っていった。
「ごめんね。あの子たち、ちょっと荒っぽいの」
「大丈夫です」
実際、大した問題じゃない。それより――
「依頼は、すぐに受けられますか?」
「もちろん。ただし、Fランクは受けられる依頼が限られてるわ。まずは簡単なものから始めてね」
ミラは依頼の張り紙が貼られた壁を指差した。
「自分で選んで、受付に持ってきて。複数人での受注も可能よ」
「分かりました」
壁に近づき、張り紙を眺める。
【薬草採取 / 報酬:銀貨5枚】
【荷物運搬 / 報酬:銀貨3枚】
【ゴブリン討伐 / 報酬:銀貨15枚】
色々ある。
その中で、俺の目に止まったのは――
【森の魔物討伐 / 報酬:銀貨20枚 / 推奨ランク:E】
「……これにします」
張り紙を剥がして、カウンターに持っていった。
ミラは目を丸くした。
「ちょっと待って、これはEランク推奨よ? Fランクには少し危険じゃない?」
「大丈夫です。村にいた頃から、魔物は倒してました」
「……本当に?」
「はい」
俺の目を見て、ミラは少し考えてから頷いた。
「分かったわ。でも、無理はしないでね。もし危険を感じたら、すぐ撤退すること」
「はい」
「それじゃあ、健闘を祈るわ」
依頼書を受け取り、ギルドを後にする。
外に出ると、夕日が街を赤く染めていた。
「さて……始めるか」
冒険者・神代レンとしての、最初の仕事。
そして、自分自身を探す旅の、本当の始まり。
俺は武器を確認し、森へと向かった。




