記憶のない少年
目が覚めると、そこは見知らぬ天井だった。
いや、正確には「見知らぬ」かどうかも分からない。なぜなら俺は、自分が何者なのか、どこから来たのか、何一つ思い出せなかったからだ。
「……ここは?」
掠れた声が喉から漏れる。身体を起こそうとして、全身に走る鈍い痛みに顔をしかめた。
木造の天井。質素な部屋。窓から差し込む柔らかな陽光。どこか懐かしいような、それでいて初めて見るような――そんな不思議な感覚。
「お、気がついたか!」
扉が勢いよく開いて、白髭を蓄えた老人が入ってきた。皺だらけの顔に安堵の表情を浮かべている。
「よかった、よかった。三日も眠り続けておったから、どうなることかと思ったぞ」
「あなたは……」
「わしか? わしはこの村の村長、ダリウスという者じゃ。お前さんを見つけてここまで運んだんじゃよ」
ダリウスと名乗った老人は、俺の傍らにあった椅子に腰を下ろした。
「それで、お前さん。名前は? どこから来たんじゃ?」
「名前……」
頭の中を探る。しかし、何も出てこない。真っ白な霧に覆われたように、何もかもが曖昧で不確かだ。
「……分かりません」
「分からん?」
「はい。自分が誰なのか、どこから来たのか……何も、思い出せないんです」
そう口にした瞬間、胸の奥が締め付けられるような不安に襲われた。自分が何者かも分からない。それがどれほど恐ろしいことか、その時初めて実感した。
ダリウスは困ったように髭を撫でた。
「そうか……記憶喪失、というやつじゃな。わしらがお前さんを見つけたのは、村の外れの森での中じゃった。血まみれで倒れておってな。よくぞ生きておったもんじゃ」
「森で……」
記憶を手繰り寄せようとするが、やはり何も出てこない。ただ、身体の芯に染み付いた違和感だけが残っている。
「とにかく、今は身体を休めることじゃ。記憶はゆっくり戻ってくるかもしれん。それまでは、この村で療養するといい」
「……ありがとうございます」
頭を下げる。この老人の親切に、素直に感謝の気持ちが湧いてきた。
「ところで」ダリウスは興味深そうに俺の左肩を見た。「その刻印……見事なもんじゃな。お前さん、どこかの組織に属しておったんじゃないか?」
「刻印?」
促されて左肩を見ると、そこには複雑な黒い文様が刻まれていた。まるで生き物のように蠢くような、不思議な紋様。
見た瞬間、頭の奥で何かが疼いた。
『――ミコト』
誰かの声が聞こえた気がした。
「! ……今、何か」
「どうした?」
「いえ……何でもありません」
頭を振って、その感覚を追い払う。
「この刻印も、記憶がないので……何なのか分かりません」
「そうか……まあ、いずれ分かる日が来るじゃろう」
ダリウスは立ち上がり、戸口に向かった。
「そうじゃ。名前がないのも不便じゃろう。何か、呼び名を決めておかんか?」
「呼び名……」
何と名乗ればいいのだろう。記憶もない自分に、名前をつける資格があるのだろうか。
しかし、名前がなければ確かに不便だ。
「……レン」
なぜかその名前が、自然と口から出た。
「レン、か。いい名じゃ。では、レンよ。ゆっくり休むがいい」
ダリウスは優しく微笑んで、部屋を出て行った。
それから三ヶ月が経った。
記憶は一向に戻らなかったが、身体は完全に回復した。むしろ、自分でも驚くほど健康だった。
ダリウスや村人たちの世話になりながら、俺――神代レンは、この村での生活に慣れていった。
「レン! 手伝ってくれ!」
「ああ、今行く」
村の若者たちと一緒に、畑仕事や狩りを手伝う日々。最初は何も分からなかったが、不思議なことに身体が勝手に動くのだ。
弓を持てば、的に正確に当てられる。
剣を握れば、自然と構えが決まる。
身体の動かし方、バランスの取り方――全てが、まるで染み付いているかのように。
「レン、お前、本当に記憶がないのか? その動き、まるで熟練の戦士みたいだぞ」
村の自警団の一人が、驚いたように言った。
「……分からない。でも、身体が覚えているみたいなんだ」
訓練と称して剣を振るう。木剣を構えた瞬間、身体が勝手に動き出す。振り下ろし、薙ぎ払い、突き――流れるような動作。
なぜこんなことができるのか。自分でも分からない。
ただ、戦うことに関して、俺の身体は嘘をつかない。
ある夜、また悪夢を見た。
炎に包まれる街。
崩れ落ちる建物。
悲鳴と、慟哭。
『――逃げろ! 早く!』
『――まだだ、まだ終わらせるわけにはいかない!』
『――ミコト! お前だけでも!』
知らない声。知らない光景。それなのに、胸が痛い。
そして――
七つの影。
背中合わせで立つ、七人の姿。
俺はその中にいる。最も若い、一人の少年として。
『――世界を、頼んだぞ』
誰かの声が聞こえて――
「っ!!」
飛び起きる。全身が汗でびっしょりだ。
「……また、あの夢」
ここ最近、同じような夢を繰り返し見る。意味は分からない。ただ、胸の奥が締め付けられるような感覚だけが残る。
窓の外を見ると、空には満月が浮かんでいた。
「俺は……一体、何者なんだ?」
呟いた言葉は、夜の静寂に吸い込まれていった。
それからさらに時は流れ、三年の月日が経った。
神代レンは十六歳になっていた。記憶は戻らないままだったが、村での生活には完全に馴染んでいた。
ダリウスは本当の父親のように優しく、村人たちも家族のように接してくれた。平穏で、温かい日々。
それでも――
心の奥底に、常に疼くものがあった。
自分が何者なのか知りたい。
この力は何のためにあるのか。
あの夢は何を意味するのか。
「レン」
ある日、ダリウスが俺を呼んだ。珍しく、真剣な表情をしている。
「はい」
「お前……そろそろ、この村を出る時期じゃないか?」
「……え?」
「お前の目を見れば分かる。お前はここに留まるべき人間じゃない。もっと広い世界を見るべきじゃ」
ダリウスは優しく微笑んだ。
「お前には才能がある。そして、お前自身が何かを求めている。わしには分かる」
「村長……」
「行け、レン。そして、お前自身の答えを見つけるんじゃ」
その言葉は、背中を押すには十分だった。
出発の日。
村人たちが見送りに来てくれた。
「レン、元気でな!」
「たまには帰ってこいよ!」
「無理すんなよ!」
口々に声をかけてくれる村人たち。三年間、本当に良くしてもらった。
「みんな……本当にありがとうございました」
深く頭を下げる。
ダリウスが前に出てきて、小さな包みを手渡した。
「これは?」
「お前を見つけた時、一緒に落ちていたものじゃ。もしかしたら、お前の手がかりになるかもしれん」
包みを開けると、中には一振りの短刀が入っていた。黒い鞘に収められた、質素だが美しい刀。
手に取った瞬間、また頭の奥が疼いた。
『――これは、お前の証だ』
誰かの声。
「村長……ありがとうございます」
「ああ。そして、これも」
ダリウスは一通の推薦状を渡した。
「境界都市エクリプスへの推薦状じゃ。冒険者ギルドで使える。お前なら、きっと立派な冒険者になれる」
「冒険者……」
「ああ。広い世界を旅しながら、自分を探すんじゃ。きっと、答えは見つかる」
俺は推薦状を胸に仕舞い、もう一度村人たちを見渡した。
「必ず、また戻ってきます」
「待っておるぞ!」
ダリウスの声を背に、俺は歩き出した。
目指すは境界都市エクリプス――東西の文化が交わる、巨大な街。
記憶のない俺が、自分自身を探す旅の、始まりだった。
道すがら、俺は左肩の刻印に触れた。
これは一体何なのか。
俺は何者なのか。
あの夢に出てくる七人は誰なのか。
答えは分からない。
でも――
「必ず、見つけてみせる」
呟いた言葉は、風に乗って遠くへ消えていった。
空は青く澄み渡り、前方には未知の世界が広がっている。
神代レンの、新たな物語が、今ここから始まる。
はじめまして! 「マガツカミ」を執筆しています。
記憶を失った少年が、異世界で自分自身を探していく物語です。
和風と西洋が融合した世界観、失われた記憶の謎、そして仲間との絆――
これからレンがどんな冒険をして、どんな真実に辿り着くのか。
ぜひ最後まで見届けていただければ嬉しいです!
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よろしくお願いします!




