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9・月は知っている

 にこやかに笑顔を浮かべながら私に話しかける内海先輩。社内でも一番人気の社員であると同時に、出世も間近と囁かれている注目度も一番の内海先輩の手が、私の肩にっ……!


「どうしたの? 楽しくなさそうだね」

「うううう内海先輩!?」

「奇遇だね、香澄ちゃん」


 香澄ちゃん!? そんな風に呼ばれたことなんてなかったのに。しかも私の名前を覚えていてくれたなんて、ちょっと感動……。ほとんど話した事が無い内海先輩は、社内では大人気過ぎて近寄ることは不可能と思っていた。でも、容姿の良い彼は見ているだけでも目の保養になると、特に近づくことをしようとはしていなかったのだ。ただ、遠目から眺めていられればそれでいい、本当にそう思っていたのに、そんな内海先輩が私の肩に触れ、私の名前を呼んだ。これは夢だろうか? それともお酒による幻か。そんな私の気持ちなど知らない内海先輩は、気さくに私に話しかける。


「香澄ちゃんは一人?」

「いえ、合コン中なんですがつまらなくて休憩中です」

「ダメな男達だなぁ。女の子につまらない思いをさせるなんて」

「はぁ……そんなもんでしょうか」

「じゃあ、香澄ちゃんは俺と一緒に飲もうか」


 そう言って私の隣に座り、内海先輩は手にしていたグラスワインを私のカルーアミルクに傾けた。チンと軽快にグラスを鳴らして乾杯をすると、内海先輩のグラスワインを飲む横顔を眺めた。

 鼻筋が通った横顔、惚れ惚れするほど綺麗で澄んだ瞳、誰が見ても俳優さんのような端正な顔立ちで、ワインがよく似合う大人の男の人って感じだ。しばらくその横顔に見惚れていると、内海先輩は私の視線に気付き、微笑みながらこちらを向いた。そしてこの笑顔が曲者だ。全ての女性が騙されてしまうほどの素敵スマイルで、胸を矢で射抜かれてしまいそう。ぷすっとね。


「どうかした?」

「いえ、あの、ワインが似合うなぁと思いまして」

「ワインが似合う? そんなこと言われたのは初めてだなぁ」

「すみません、変なこと言ってしまって」

「香澄ちゃんって面白い子だね。ずっと話してみたいなぁって思ってたんだよ」


 これは夢でしょうか? そうだわ、夢なんだわ。内海先輩が私と話してみたいなんて奇跡のような話、あるわけないじゃない。これは私の願望が見せた夢なのかもしれない。でも、お酒が見せてくれた幻は、もうお腹一杯だ。なぜなら、せっかく内海先輩と隣に並んでいるのに、変に緊張ばかりしてしまってゆっくりと寛ぐ事ができない。この前の飲み会の時の、女の先輩達のようにグイグイと押して行くなんて、私にはできる芸当ではないのだ。緊張でいっぱいいっぱい。これは夢なのに。こんな緊張する夢なら早く目覚めて欲しくて、私は自分のほっぺたをぎゅっと摘んだ。


「……イタイ」

「何してるの? 香澄ちゃん」

「これは……夢ですから、覚めないかなぁと思って」

「夢? どうしたの? 酔っちゃった?」

「いえ、全然。夢が覚めないのはなんで……?」

「香澄ちゃんは本当に面白いな。ほら、現実」


 くすっと大人の笑みを零して、内海先輩が私の頬にちゅっと小さく音を立てる。その音は紛れも無く、そしてこの柔らかな感触は間違いなく……唇!! 私は目を見開いて、内海先輩の方を見た。すると猫のように無邪気な笑顔の内海先輩が、くすくすと笑っている。頬杖をついて私を見つめる先輩が、私の頬にキスをした。それは現実だ。そう理解した時には、私の顔はカーッと音を立てるように真っ赤に染まり、その頬を見られないように両手で頬を押さえた。そんなことしても無駄なのはわかっているのに、なぜか押さえてしまう。そんな私を見て笑っていた内海先輩の頬も少々赤くなっていて、その場を濁すようにグラスワインを一気に飲み干した。


「……俺、酔ってるのかも」

「で、ですよね……!」


 なんとなくそう言わないといけないような気がした。二人でなんとなく笑うと、会話がそこでぷっつり途切れてしまった。なんだか居心地が悪くて、内海先輩の気を悪くしないうちに席を立とうと思っていた。そのまま席を立ち「帰りますね」と、ひと言残して店を出たのはいいものの、後ろからは内海先輩が追いかけてきて、手首をぐっと捕まれる。その力が思いの外強くて、思わず顔を顰めてしまった。


「痛っ……」

「あ、ごめん! 大丈夫? 強く握りすぎちゃったかな」

「あの、大丈夫です。大袈裟にしてしまってごめんなさい」

「いや、俺の方こそ。それより、もう暗いし遅い時間だから送っていくよ」

「大丈夫ですよ。一人で帰れますから、内海先輩はゆっくり飲んで行ってください」

「……俺はそんなに嫌われてるのかな」

「えぇっ!? そ、そんなわけないですよ!!」


 なんだかどんどん内海先輩のペースに巻き込まれていく。気がついたら彼の掌が私の手を包み、優しく引かれていた。大人の男の余裕だろうか、それとも女性に慣れているだけだろうか。あくまでも自然の流れで手を繋ぎ、帰りの電車内でさりげなく肩を抱き寄せるその行為に、普通の女性なら喜んでいたのかもしれない。だけど、私はその彼のスキンシップがなんだか苦手だった。でも、あくまでも彼は私の先輩だ。嫌な顔をしないように、精一杯笑顔を彼に向けていた。

 最寄り駅に着き、先輩も一緒に電車から降りて改札まで一緒に出てきた。さすがにこれ以上は一緒に来られると困ってしまう。あんなに憧れていた内海先輩だったのに、どうしてこんなに急速にその想いは冷めていくのだろう。彼は、見ているだけで充分なのかもしれない。妙に一人で納得して、先輩に話しかけた。


「あの、ここでいいです。もう、近いので」

「いいよ、遠慮しなくても。ちゃんと家まで送るから」

「でも、本当に大丈夫ですから」

「心配だよ。女の子一人で歩かせるのは」


 ああ言えばこう言う。一体どうすれば彼は引いてくれるのだろうか。そんな時、「ほら行くよ」と内海先輩が私に声を掛け、肩に手を回してくる。私は胸の前でバッグを握り締め、ホトホト困っていた。

 どうしてわかってくれないの? もう……内海先輩って強引な人だったんだなぁ。

 内心そう思いながら、彼に気付かれないようにそっと溜息を吐いた。内海先輩と話していると、疲れが溜まって仕方がない。緊張して何を話したらいいのかもわからないし、とにかっくギクシャクしてしまう。もしかしたら凄く良い人なのかもしれないのに、相手は王子様のような人気者の先輩だ。どうしても緊張してしまって、とてもじゃないけどまともに話なんかできない。私には、もっとリラックスできる相手じゃないと無理らしい。こんな時、急に渋沢先輩に会いたくなるから不思議だ。渋沢先輩との二人の空気、私はとてもリラックスしていた。あんなに自然体でいることができて、それでいて楽しく会話が続くことが、たまらなく嬉しかった。

 ――渋沢先輩に会いたいな。

 そればかりが、私の脳内を占めている。隣には内海先輩がいるというのに。

 渋沢先輩のことを考えているうちに、内海先輩が私の体をぐっと引き寄せていることに気がついた。しかも逃げられないように膝の間に足を割り込んでいる。そしてそのまま、私の顎を指で掴んで上に向かせると、目の前に内海先輩の端正な顔が近づいてくる。いつの間にこんなところは来てしまったのだろうか、気付くと路地へ連れ込まれていて、私の胸に不安の影が差す。そして急速に上がる鼓動が、耳元でどくんどくんと響く。どうしてこんな状況になったのかわからなかった。

 どうして? なんで急に?

 何度も繰り返す疑問の言葉が、頭の中を駆け巡る。すると、内海先輩がフッと微笑んで私の耳元でそっと囁く……。


「実は……入社した時から、ずっと気になっていたよ」


 思いがけない彼の告白に、私の体は強張ったまま。一体なんの冗談なのだろうか。

 体の力が抜けそうになるほどの甘い囁きが、私の体から自由を奪っていく。

 やがて、彼の形の良い唇が私の唇に近づいてきて……。顔を横に向けて彼の唇を避けたかったけれど、顎を捕まれているので避ける事ができない。やがてやってきた柔らかな感触。柔らかな感触と彼の体温が伝わって、頭の中が痺れてしまいそう。

 月明かりが降り注ぐ一角の路地裏でのキスは、私にとって大事件だった。

 そう、月だけが知っている……。

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