8・夢か幻か
「じゃあ、お邪魔しました」
玄関先で三人に見送られ家を出た時、先輩も一緒になって家を出てきた。そして、いつも通りの低い声でボソッと私に「送るよ」と言う。私は首を振ってお断りした。なぜなら先輩と二人きりになったら今日はちょっと気まずすぎる。先程のお風呂での事を思い出すと、恥ずかしくて何も言葉を出せなくなってしまうから。樹くんも「俺が送るよー」と、のんびりした口調で言ってきたけれど、それを先輩が制した。私は皆に頭を下げて「それじゃあ!」と口早に言い、その場から駆け出したのだった。
先輩の家から私の家までは、さほど距離はないとは言え、少々人気の少ない通りであることには違いない。けれど、先輩と二人きりはどう考えても気まずすぎる。私は無我夢中で駆け出し、一気にマンションまでの道のりを走ったのだ。とはいえ、ヒールを履いていたのでそんなに速くは走れはしない。マンションの前に差し掛かった時、私は足を止め、荒くなった呼吸を整えていた。そんな時、後ろから肩をぽんっと叩かれて、大きく体を震わせた。
「あ……ごめんね。驚かせて……」
先輩の「送る」という言葉を振り切って駆け出したのに、その先輩はすぐ後ろに立っていた。驚きすぎて声が出ない。先輩の肩も大きく揺れているところを見ると、どうやら私の後を一緒になって走ってきてくれたようだ。結局、二人で全速力で駆けてきたということか。そんなところを想像すると可笑しくて、つい、笑いが込み上げてしまう。
「ぷっ……」
先輩はきょとんと私を見つめながら首を傾げるけれど、何かに気付いたように私に話しかけてきた。
「そ、そうだ! これ、渡そうと思ったのに走って行っちゃったから。どうぞ」
「なんですか?」
「約束の炊飯器と、あと……晩御飯、まだでしょう? よかったら食べて」
無邪気にお弁当を差し出す先輩が、やけに可愛い。全速力で私を追いかけてきて手渡す物が炊飯器と晩御飯が詰められたお重だなんて。綺麗な淡い紫色の蝶柄の風呂敷に包まれたお重を目の前に出されて、私は笑顔でそれを受け取った。先程の恥ずかしさは走った時に吹っ切れてしまったのか、まっすぐに先輩に顔を見る事ができる。
「……ありがとうございます」
両手でそれを受け取ると、先輩は「じゃあ、おやすみなさい」そう言って、走ってきた道を再び戻って行ったのだ。その後姿を見つめて、姿が見えなくなったとき、ようやく私もマンションに入って行ったのだった。
玄関を開け、部屋の電気を点ける。ワンルームの私の部屋は一箇所明かりを灯せば、部屋全体に光が行き渡る。靴を脱いで部屋に入り、頂いたお重をテーブルに置いて私はそのままベッドに体を投げだした。その時、今日の出来事が頭の中をぐるぐると駆け巡る。凄く色々なことがあった一日だったので、疲れもあったのに楽しさの方が上回っていた。気持ち良いくらいの疲れが、今日、私に幸せな眠りを与えてくれそうだ。その日は、せっかくいただいたお重を開けることなく、そのまま眠りについてしまった……。
翌朝、先輩から貰ったお重を開くと、そこには豪華絢爛な世界が広がっていた。二段重ねのお重には色とりどりのおかずやご飯で埋めつくされている。思わず溜息が漏れるほど素晴らしい作りに、私は朝っぱらから感動していた。思わずお重の前で正座して拝んでしまうほどだ。なんと家庭的な先輩なのだろうか。女の私だって、これほど豪華絢爛で素晴らしいお重は作れない。お重に頭を下げて頂くことにした。どれをとっても美味しくて、ついつい食べ過ぎてしまうほど。
「うう……美味しすぎて憎い……」
これでは太ってしまうとわかっていたのに、二段のお重を全て平らげてしまった。夢中で食べていたら、なくなっていたのだ。可愛らしい桜の柄が散りばめられた漆塗りのお重を提げて、綺麗にそれを洗った。ピカピカになったお重をいつ返そうかなと考えている時、携帯の軽快なメロディが鳴りだす。濡れていた手を慌ててタオルで拭い、ベッドの側で充電中の携帯を手に取ると、それは友人からの着信だった。
「もしもし?」
『もしもし? じゃないでしょ。今日の合コン忘れてない!?』
「あ……!」
『もう! あと三十分だからね! まったく、いつもあんたは時間を間違えたり忘れたりするから心配で電話してみれば、これだもんね。いい? 時間厳守よ! じゃあね』
すっかり忘れていたのだ。合コンの予定は確かに詰まっている。手帳にもちゃんと書いてあるのに、私はそれをいつも忘れてしまうのだ。友達にはいつも怒られている。
いつもならちゃんと気合を入れてお洒落もするのに、なんだか今日は気合が入らない。というより、合コンという気分ではないのだ。せっかく幸せな気持ちでいたのに、なんだか少しその気分に影が差す。おかしいな……どうしたんだろう? 疑問に思いながらも、綺麗めな格好で合コンへと向かった。
合コンの時はいつでも髪を巻いていく。ミルクティーブラウンに染めた髪をくるくる巻いて気合を入れるのに、今日はまっすぐなストレート。服装だってワンピースを着ていくのに、今日は軽めのカットソーに膝丈のフレアスカート。それにヒールサンダルを履いていた。アクセサリーもネックレスのみだし、何より大事な気合は全く入らない。そんな状態のまま待ち合わせ場所に向かい、皆と合流した。
合コンはなんとなく洒落た場所で行われた。照明をちょっと落とし、大人の雰囲気漂うその店では、ダーツやビリヤードも楽しめる。そういう場所での合コンはあまり好きじゃない。密着する機会が増えるのでなんとなく下心を感じてしまうのだ。下心は男だけではなく女だってある。いいな、と思った男性には触れて欲しいと思うし、自分だって触れたいなぁって思うのだから。でも、今日はそんな気分じゃない。男四人女四人でダーツやビリヤードを楽しむ中、私はその場から少し離れたところに座って、カクテルをちびちびと飲んでいた。
「……つまんないなぁ」
ぼそっと言葉にしてしまった。それほどつまらないのだ。飲みかけのカルーアミルクをテーブルに置いて、頬杖をつきながらぼや~っと店内を見渡す。店内には楽しそうな声が響き、様々な会話で盛り上がっている。ただ一人、私だけがこの店の雰囲気に馴染んでいないような気がして、その場にいるのがだんだん苦痛になってきてしまった。そんな時、「どうも」と後ろから声をかけられ、肩には大きい手が乗っかってきた。振り向くと言葉を失ってしまう。だってそこには、にこやかに微笑む私服の内海先輩が立っていたから。
憧れの内海先輩、これは夢なのだろうか? それとも現実?