7・きゅんとする理由
『これは事故』
その言葉に偽りは無い。確かに先輩に裸を見られてしまったことは事故なのだから。でも、いくら平静を装っても、恥ずかしいものは恥ずかしい。本当は今すぐこの場から離れて穴にでも潜り込みたいくらいだ。しかし、この場はああ言うしかなかった。そしてこの場の雰囲気は一気に和やかなムードに包まれたのだ。先輩の弟の樹くんにも懐かれたし、その後改めて自己紹介をされた妹の翠ちゃんにも、随分懐かれてしまった。樹くんは年がさほど変わらないせいもあって、かなり慣れなれしい感じだけど、翠ちゃんはまだ十六歳という年齢だからなのだろうか、やけに甘えてくるのだ。正直、私には兄妹がいないし悪い気はしなかった。むしろなんだか嬉しい。この渋沢家に馴染んでいるような気がして、とても居心地が良いのだ。そう、先輩という存在を忘れていれば……。
先輩はあまり嬉しそうな感じがしない。やはり家族以外の人間、私のような他人にズカズカ土足で家に入るような人間はお気に召さないのかもしれない。先輩は会社でもあまり社員と話したりしていない。黙って仕事をして、必要最低限以外は口を開かない。昼休みの食事の時も、いつも社員食堂で一人でご飯を食べている。もしかして、やっぱり私は迷惑なのだろうか?
「あの、私そろそろ帰ります」
乾かしてもらっていた服が、ようやく乾いた。丁寧にハンガーに掛けられていてなんとか乾いたのだ。時間的にも、もう夕飯時だ。そろそろおいとましないと、家族団欒……とはちょっと違うかもしれないけれど、先輩のプライベートを邪魔してしまう。私はソファーから立ち上がって、ハンガーに掛けてある服を手にした。
「あの、お手洗いお借りしますね」
そのまま服を持ってお手洗いに向かうと、私の両肩を後ろからがっしりと掴み、私の歩みを止める。それは樹くん。ジッと私を見つめてからニコッと笑う樹くんの笑みは、また何かを企んでいるような、そんな笑みにも見えた。樹くんの口が開くのを待っていると、樹くんではなく別の人が口を開いた。
「こらっ! そんなに気安く触るんじゃない!」
キッチンから何かを持ってきた先輩が、私たちの姿を見て叫んだ。またしても珍しい先輩の怒った顔。そして続けて先輩がまた口を開く。
「女性にそんなに簡単に触れちゃダメなんだぞ」
「……兄ちゃんは一体、何時代の人なの? こんなのスキンシップの一つでしょー?」
「ダメなものはダメだ! 翠だってこんな風にされるの嫌だろ!?」
「えー、私はいいよー。あんまり気にしないし」
「ぐっ……」
あれ。弟と妹に言い負かされてしまった。ほら、また珍しい一面。
今日一日で、どれくらい色んな先輩の一面を知る事ができたのだろうか。不思議ともっと先輩の事が知りたいなと、素直に思えたのだ。
縁が無いと思っていた人が、今は多分、社内の人間の誰よりも近い位置にいる。その不思議さといったら、どう表現していいのかわからない。でも、私はとても楽しい気持ちになっている。うん、それだけは確かだ。弟と妹に言い包められて、苦しい表情をする先輩も、けらけらと楽しそうに笑う先輩も、全部初めて見た可愛らしい一面だ。その可愛らしい面を見るたびに、私の胸がきゅんと鳴っていることに、気付いていますか? 可愛い仕草や言い回しに、私が弱いと知ってるんでしょうか? まずい、このままでは先輩を好きになってしまう。私は内海先輩に憧れているというのに! 内海先輩と渋沢先輩では、天と地ほどの差があるくらい全く真逆の人なのに、どうしてこんなに渋沢先輩を目で追ってしまうのだろうか。誰か私に教えてください。
「ねぇ、ちょっと! 香澄ちゃーん。大丈夫? ぼーっとして。ぼーっとしてるとチュウしちゃうよ?」
「おいっ!」
先輩が樹くんにツッコミを入れたその声で、私は自分の妄想から抜け出した。我に返ったときには樹くんがしっかり私の背後から手を回し、きゅっと抱きしめられた状態だったのだ。しかし、間もなくして私たちの体は、先輩の手によって剥がされたのだった。樹くんが唇を尖らせて先輩に抗議している間も、先輩は私の方に向き直して優しく声を掛けてくれた。
「ごめんね、馬鹿な弟で。着替えるなら二階の部屋でどうぞ。案内するからついてきて」
「いいですよ、お手洗いで着替えさせていただこうかなぁって思っているので」
「何言ってるの。トイレなんかで着替えさせられないよ。さ、どうぞ?」
先輩の後について行き、二階への階段をとんとんと上がっていく。玄関の脇にある階段を昇りきったところには部屋が四つあった。三つは各々の部屋なのだろう。もう一つは扉が閉められているが、客間とか納戸になっているのかもしれない。私が先輩に通された部屋は、先輩の部屋だった。先輩の部屋は八畳ほどの和室で、シングルベッドに小さな座椅子式のソファーと小さなテーブル。そしてこの部屋には似つかわしくない最新型の薄型テレビが大きなテレビボードの上に鎮座していた。その下に整頓されているとはいえ、たくさんのゲーム機器やソフトが並んでいる。テレビボードの収納には入りきらなかったのだろうか。
私は先輩の方を向いて、テレビを指差して訊いてみた。
「すっごく大きいテレビですね。ゲームもたくさん! ゲーム、好きなんですか?」
「……う、うん。ゲームは気分転換にいいから、ね」
先輩の答え方があまりにも歯切れが悪い。何かを隠しているのだろうか? 別にゲームが好きだなんて珍しいことではないのに。先輩は空気を変える様にわざとらしく明るい声を出して話しかける。
「さ、さぁ! 僕は部屋の外にいるから着替えておいで」
「は、はい」
さわやかキャラじゃないくせに、さわやかさを演じる先輩に不信感を抱きつつも、その場は仕方なく着替えたのだ。
先輩には、何か隠している事があるのかもしれない。そしてもう一つ。眼鏡をとったあの素顔、あまりにもギャップがありすぎて吃驚した。もう一度見たい。茶色くてきらきらした綺麗な瞳だったのに、瓶底眼鏡のせいで先輩の瞳はほぼ見えなくなっているのだ。もったいないじゃない、せっかく綺麗な瞳なのに。帰りにもう一度、先輩に眼鏡を外すように頼んでみようかな。そんな事を考えながら、先輩の匂いでいっぱいの部屋で着替えをすませたのだった。




