48・強引なお誘い
あははうふふな気分の私だけど、現実は山のような仕事に追われいっぱいいっぱいの一日だった。それでもフラれてからの憂鬱な日々を思えば、こんなに仕事があっても気にならない。仕事は順調、恋も順調、こんな日々を待っていたのよ~! と思い、両手の拳をぎゅっと握った。それは私の小さな勝利のガッツポーズだ。今日くらい、ちょっと浮かれても見逃してもらいたいものだ。
山のような仕事を終えると大きく伸びをして、固まった体をほぐすように腕を回す。そして渋沢先輩のデスクを見ると、あれ!? いない……。就業時間は確かに過ぎている、でも何も言わずに帰ってしまったことになんだか肩すかしを喰らった気分だ。せめて挨拶くらいはしていこうよ、先輩……。がっくりと肩を落として帰宅準備を整えてから部署を後にした。
会社から出て駅方面へ真っ直ぐ歩いていくと、路地から突然人影がぴょこんと飛び出した。思わず「わ!」と驚きの声を上げてしまった私を見て、にこにこと笑顔を向けるのは愛しの愛しの先輩だった。
「先輩、帰ったと思ってました!」
「さすがに社内ではねぇ……ここで待ってれば会えるかなぁと思って、待ってたんだ」
「そうだったんですか」
「じゃ、一緒に帰ろうか、ね?」
少しだけ小首を傾げながら私を誘う先輩の仕草は、可愛すぎて鼻血が出ます。危険ですからあまり可愛いことしないでください~先輩! もう、私の頭の中はすっかり先輩でいっぱいだ。どんなに小さな仕草でも、きゅんポイントを見逃さない私は、ある意味先輩に脳内ジャックされているような気がする。先輩の仕草一つだって見逃したくないくらい、ずっとずっと傍にいたい。今まで自分の気持ちを押し殺していた分、私は少し貪欲になってしまったようだ。ちょっとは抑えなくちゃね。
先輩の隣に並んでこうして帰れる日がくるなんて、夢のようだ。そして前よりずっと距離が近くなって、とても居心地が良い。これからも、こうして先輩の隣で歩いていけるといいなぁと願いながら、私達は帰宅したのだった。
先輩と一緒に電車に乗り、最寄り駅で降りてそのまま私のマンションまで送ってもらった。マンションが遠くに見えてくると、もう少しだけ一緒にいたいなぁという我が儘な願いが生まれてしまう。厚かましいことは重々承知だったけれど、もう少し。もう少しだけ……と、願っていると、マンションの前にたろちゃんの姿があった。
「たろちゃん!?」
「お、香澄。お帰り、待ってたよ」
「どうしたの、こんなところで……携帯に電話くれればいいのに」
「お前……電源切ってないか? 繋がらないからさぁ」
「あ、そか。ごめん」
私とたろちゃんの会話の様子を窺っている先輩は、どこか不機嫌そうな雰囲気を纏っている。それもそうだろう、たろちゃんのことは何も知らないのだから。私がたろちゃんを紹介しようとすると、たろちゃんがそれよりも先に一歩前に踏み出して渋沢先輩に自己紹介を始めていた。相変わらず行動が早い……。
「初めまして、桐島太郎です。香澄とは幼馴染なんです」
「僕は渋沢守と申します。香澄さんとは、その……お、お付き合いさせていただいております」
せんぱーい!!
叫びそうになった。そしてそのまま抱きしめそうになった。昂る気持ちを抑えつつも、私は渋沢先輩の挨拶に感動して嬉しくて……思わず「好き」と大きな声で叫びたい気持ちになってしまった。挨拶はちょっと硬いけれど「お付き合いさせていただいております」ってちゃんと私を彼女扱いしてくれたことが、堪らなく嬉しくて仕方ない。正直たろちゃんも面食らっていた。この前会った時は、そんな相手はいないといったばかりだから。でも、たろちゃんはすぐにニコリと微笑んで渋沢先輩の手をとった。
「いやぁ~これで俺も一安心だ! まさか香澄の彼氏に会えるなんて!」
「ど、どうも……」
「香澄は昔から喜怒哀楽が激しいところがあるから大変かもしれないけど、いい子だからよろしくね」
「はい。香澄さんといると、とても楽しくて癒されます」
先輩はたろちゃんにそう言うと、たろちゃんも安心したようにふっと柔らかい笑みを浮かべた。そして渋沢先輩は、私のことをそんな風に思っていてくれたんだとわかると幸せな気持ちが溢れ出す。
私、先輩を癒せているの? 楽しませる事ができているの? 特別なことは何もしていなくても、先輩はそう感じてくれているのだとわかったら、私はこれからも先輩の前で自然体でいられる。肩肘張らずに先輩の隣で、ゆっくりと歩いていける。不思議とそう思えた。
「そういえば、たろちゃん。どうしてここにいるの?」
「あー、俺今日帰るからさ、挨拶しようと思って。それからもし良かったら渋沢くんも式に誘おうかなって思ったんだけど」
「それいいかも! 先輩、一緒に行きましょう!」
「ちょ、ちょっと待って。式ってなんのこと? 僕は部外者だけど……」
「何言ってるの! 香澄の彼氏なら皆にも彼女にも紹介しなくちゃ! 実は今度、僕と彼女の手作りのアットホームな結婚披露パーティーをするんだけど、集まる人は殆ど香澄を可愛がってくれていた友達ばかりだから、是非来て欲しいなぁ。大事な妹のような香澄の大事な彼氏だし、皆にも紹介したいしねぇ。ねぇ、いいでしょ? 渋沢君。勿論、来てくれるよね?」
「う……そこまで言うなら行きます」
たろちゃんの押しの強さに戸惑い気味の先輩だったけれど、押しに負けてOKの返事を出してしまった先輩。少々気の毒な気はしたけれど、一緒に行けるのは嬉しいし、何より先輩との将来のためにも、しっかりたろちゃんたちの幸せな姿を焼き付けておかなくては! なんて、早くも渋沢先輩との結婚を夢見ている私は、どこか一人で燃えていた。そしてそのまま、たろちゃんは笑顔を残して帰っていったのだった。
渋沢先輩はちょっと疲れ気味のようで、大きく溜息を吐いていた。そして無理矢理招待されてしまったけれど、先輩の仕事の方は大丈夫なのだろうか。私は恐る恐る先輩に聞いてみた。
「先輩、お仕事の方は大丈夫そうですか?」
「仕事? あぁ、忙しい時期は抜けたから大丈夫。締め切りにはいつも余裕をもって仕上げていたし、この前まではなんか付録ポスターのカラーとかあったから……もう、大丈夫だよ」
「じゃあ、当日は楽しみましょうね!」
「……はは、頑張る」
引きつった笑顔を見せながら先輩とはそこで別れた。忙しそうな先輩を少しでも休ませてあげたい気持ちの方が先立って、私は無理に笑顔を作って先輩を見送ったのだった。私はそのままマンションのエレベーターのボタンを押し、エレベーターが来るまで待っていた。だから気付かなかったのだ。背後に先輩が立っているなんて。やがてエレベーターがやって来て扉が開いたその瞬間、エレベーターの壁に設置されている鏡に渋沢先輩の姿が映っていた時は、心臓が飛び出そうなほど驚いてしまった。
「せ、先輩!? 吃驚した……」
「ごめんね、驚かせて。あのね、もう少しだけ……一緒にいたいな」
そう言いながら私の手を取りエレベーターに乗り込む私達。
部屋へと向かう密室の中は、もう桃色の世界になってしまっただなんて……住人は誰一人気付きはしないだろう。
重なり合う唇から伝わる先輩の愛が、今日、私を蕩けさせる。温かな掌のぬくもりが何度も頬を滑るのが、気持ちよくて堪らない。
その日は結局、先輩は家に帰らなかった……。