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46・キス


 沈黙は続く、でもいつまでもこうして先輩と向き合ってもいられなかった。私は部長に資料を探すように頼まれていたことを思い出し、スーツのポケットからリストが書かれた紙を取り出した。


「私、部長に資料を探すように言われているので、失礼します」

「僕も手伝うよ」

「先輩は戻ってください。まだ業務が残っているでしょう?」

「……いいから、見せてリスト」


 少しだけムッとしたような声を出す渋沢先輩だったが、手からリストを奪っていく手は優しくいつもの優しい先輩のままだった。少しだけ触れた指先が、熱い。ほんの少しだけなのに、ちょっと触れただけで私の気持ちが大きく揺らいでしまうのはどうしてだろう。忘れようと努力しているつもりなのに、片時も先輩の顔が脳裏から離れないのは、私自身が忘れたくないからなのかもしれない。

 黙々と資料を探している私達。私はそっと、先輩の背中を見つめていた。大して広くない背中は私にとっては逞しくて優しく映る。相変わらず後ろの髪が跳ねているのは、毎日漫画のお仕事に必死な証拠。義理の兄妹の面倒を見ながら仕事も家事もこなす先輩、私に先輩の手助けはできないのだろうか。渋沢先輩は私をフッた時に「支えられない」って言っていたけど、支えていけたらいいなぁと思ったのは私のほうだ。先輩はもう、十分すぎるほど頑張っているのだから、少しでも気が休まる場所に私がなりたい、そう思っていた。そんなこと、今更思っても仕方ないのに……小さな溜息を吐いて、私も先輩に背を向けて資料を探し始めた。資料は簡単に見つかり、次々と手に積み重ねられる。最後の資料を手に積むと同時に降り注ぐぬくもり。何が起きたのか、わからなかった。わかったのは、このぬくもりは私の大好きなぬくもり。そして大好きな匂いだということだけ。

 背後から先輩に抱きすくめられ、手に積み重ねられていた資料ファイルがバサバサと音を立てて床に落ちていく。時が止まったように動けない私の首筋に先輩の黒髪が揺れていた。ぎゅっと力を篭めた腕が私を強く抱きしめて、鼓動が高まっていく。


「……嘘吐いて、ごめん」


 消え入りそうなくらいの声で私に謝る先輩は、とても小さく見えた。少しだけ先輩の方に顔を向けると、眼鏡が少しだけずれて長い睫毛が見えている。瞑ったままの瞳には後悔の色が見えた。そのまま抱きすくめられた姿勢で、先輩はなおも言葉を続けた。


「本当は傍にいて欲しいよ。でも、言えなかったんだ」

「なんで……?」

「僕は怖がりなんだ。誰かを好きになっても、いつか別れは来ると思うと真っ直ぐに誰かを好きになれないんだ。でも、君だけは違った」

「私だけ、ですか?」

「うん。ずっと一緒にいたいなぁって、素直に思えた。だから結婚の話を聞いた時は壊れそうなくらい嫉妬してた」


 先輩が嫉妬……。

 どうしよう、涙が出るほど嬉しい。私は何度も先輩の言葉を思い返しては、これが現実ではないのではないかと疑っていた。でも、この先輩の腕の温かさは夢じゃない。現実だ。まさかの逆転ホームランに、私は目頭が熱くなってきたけど、ぐっとそれを堪えて先輩の方を向こうとした。


「あ、待って! こっちは今見ちゃダメ!」


 先輩は必死に止めるけど、私は先輩の言うことを聞かない。無理矢理振り向くと先輩が慌てて腕で自分の顔を隠した。でもね、先輩。そんなことしても見えてますよ? 耳まで真っ赤になっているんだから。先輩はとても真っ赤になっていて、それを私に見られたくなかったみたい。でも、そんな風にりんごみたいに赤くなった先輩は、とても可愛くてとても嬉しい。私にだけ見せてくれる、先輩の本当の顔。するりと眼鏡を外すと、先輩の綺麗な瞳と出会った。その瞳は真っ直ぐに私を見つめていて、逸らすことも許さないほど強い眼力だ。でも、真っ赤な顔は今もまだ赤い。私は先輩の頬に手を伸ばし、頬にそっと触れた。柔らかい頬の感触は、寂しかった私の心を溶かしてくれる。触れたかった先輩に、触れられて……良かった。


「真っ赤です……ほっぺ」

「人生で一番照れたかもしれない……僕らしくない歯の浮く台詞を言った気がする」

「でも、私は嬉しかったです。先輩は、私を傍に置いてくれますか?」

「いて欲しいと願っているのは、僕の方だよ」


 穏やかに微笑む先輩の瞳が細くなる。柔らかな笑みと共にやってきたのは、ふっくらと包み込む唇の感触。

 降り注ぐキスは、誰もいない資料室で何度も繰り返された。

 ほんの少しの時間だったけど、私にとっては永遠にすら感じられる時間だった。

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