45・資料室で二人きり
翠ちゃんと談笑している間に樹くんが翠ちゃんを迎えにやってきた。ドアを開けると目の前には仏頂面の樹くんが立っている。以前とは違う樹くんの態度は、あからさまに私を敵視していることがわかった。まぁ、樹くんは私が渋沢先輩にフラれてすぐに他の人と結婚すると思っているみたいだし、仕方ないといえばそれまでだ。でも、それは誤解なんだけど……誤解を解いたところで渋沢先輩との距離が縮まるわけではない。私は樹くんに少しの笑みを向けて、翠ちゃんの背中を押した。
「ほら、翠ちゃん。お迎えきたよ?」
翠ちゃんは面倒そうに靴を履いて私にぺこりと頭を下げた。その姿を見て、樹くんは翠ちゃんに向かって嫌味を言う。
「なんでこんな女のところに来てるんだよ! ったく……」
「こんな女って、樹兄、なんでそんな失礼なこと言ってるの!?」
「こんな女なんだから、こんな女で十分だろ。ほら、行くぞ! ったく、めんどくせ……」
「ちょっと、樹兄!?」
樹くんはそう言ったまま私に背を向け、すたすたとマンションの廊下を歩いていってしまった。それを追いかけるように急ぎ足になる翠ちゃんは、少しだけ私の方を向いて手を振った。それに返すように私も手を振り返すと、翠ちゃんは笑顔で樹くんを追いかけていった。ドアを閉め、鍵をかけると、静まり返った部屋に寂しさを感じる。一人になるとぐるぐると余計なことを考えてしまうのが、凄く嫌だった。かと言って、外に出てみんなと騒ぐ気にもなれないし……会社でも家でも、私は毎日憂鬱だ。いつもの私のポジティブ精神で乗り切っていければいいけれど、今回の傷はなかなか癒えそうにない。時間はかかるかもしれないけど、早く忘れたいな。そんなことばかり考えていた。
翌日、いつも通り出社するといきなり部長に呼び出された。辞表のことで話があるんだなぁとすぐに思い、私は部長の元へ向かっていった。
「失礼します」
「おー、おはよう前園。悪いけどまた、資料室から資料もってきて欲しいんだけど」
「わかりました。どれを持ってくればいいですか?」
「リストアップしといたから、よろしく。俺はこれから会議があるから行けそうにないんだ。悪いな」
「いえ、わかりました。資料見つけたらデスクに置いておきますね」
「よろしく」
私はその足で、すぐに資料室に向かった。資料室は地下、エレベーターを一階まで下り、そこからは階段だ。階段を下りていると渋沢先輩とのやりとりを思い出してしまう。ここはできれば来たくなかった場所だ。あまりにも先輩との思い出がつまりすぎている。あの時は、ただ渋沢先輩と一緒にいるだけで胸が温まって、楽しくて……資料室に着いた頃には、私の目には涙が浮かんでいた。誰もいない資料室で、少しだけ泣いた。ただ静かに、涙を流して思い出を振り返っていた。声を殺しながら泣くのは結構難しいけど、ハンカチをぎゅっと握り締めて、資料室の一番奥で肩を震わせて泣いていたのだ。ここなら、誰にも邪魔をされないと思っていたから私はちょっと油断していた。資料室の入り口に背を向けて、奥の方でひっそりと泣いていた私、たくさんの資料棚が入り口から私を隠してくれていたのに、気がつくと資料室には人が入ってきていた。人の気配を感じて、私はささっとハンカチで目元を拭い資料を探すフリをしていたけれど、入ってきた人は資料を探しているような素振りもなく、真っ直ぐ私の元へ近づいてきていた。そしてピタッと、少し遠い位置で足音が止まると、柔らかだけど悲しげな声が資料室に静かに響く……。
「……なんで泣いてるの?」
その声は、今一番聞きたくない声。渋沢先輩の声だった。
私は振り返ることもできず、ただ俯くばかり。振り向いたら赤くなった目を晒してしまうから。先輩に背を向けた状態で、私も静かに先輩に返事をした。
「泣いてませんから」
精一杯、強がったつもりだ。でも、先輩にはお見通しだろう。
「ごめんね、僕が悪いんだよね」
「……」
「香澄ちゃん、こっち向いて?」
「……嫌です」
「香澄ちゃん」
「嫌です」
「香澄」
呼び捨てにされただけなのに、胸がぶるっと震えた。だって先輩が私を呼ぶ声が、あまりにも優しくて穏やかで私を振り向かせるくらいの威力がある先輩の声が、拒否する私の頑なな頭を壊すように私の思いを覆す。振り向くと先輩の優しい笑みに出会い、私はそれだけで泣きそうだった。
先輩はズルイ。
フッたくせに、そんな笑顔を私に向けるなんてズルすぎる。
その笑みを見ていると、私の心がまた揺らいでしまうことくらい察知してほしい。忘れたいのに忘れさせてくれないズルイ先輩は、少しずつ私に近づき眩しい笑顔を容赦なく私に向けてきた。
「香澄ちゃん、会社辞めるって本当?」
「え、なんで先輩がそれを……」
「部長から聞いた。……それって僕のせいだよね?」
「違います。自分のためです」
「その辞表、なかったことにして欲しいな」
「え?」
「……君にはここに、いて欲しいから」
先輩はまだ私を苦しめようというのか。あなたがいると辛いのに、あなたの声が聞こえると忘れられないのに。だから辞表を出したのに、どうしてそういうこと言うのだろう。変に期待を持たせるようなこと言わないでほしいよ。お願いだから何も言わないで欲しい。でも、私の思いなどお構い無しに先輩は口を開く。
「結婚……するの?」
「は?」
「樹から聞いたし、この前社食でドレスの写メ見てたよね。その、声が聞こえてきたから」
「……しますよ、結婚」
「そうか……」
「て、言ったらどうします?」
少しだけ先輩に意地悪なことを言ってしまった。先輩が私に結婚の話を持ちかけてきたとき、どうしても訊いてみたかった。先輩は、少しでも私のことをまだ気にかけてくれているのだろうか? と。少しくらい、彼の本心を探ってもいいでしょ、とこの時の私は少々強気だった。一度砕けた想い、だからこそ強気でいられる。これ以上砕けることはもうないから。あとは這い上がるだけの私が、先輩に対して強気になれる最後のチャンスのような気がしていた。
「結婚なんてしませんよ。あれは私のドレスじゃないですから」
「え?」
「樹くんの話も、私が幼馴染のお兄ちゃんとドレスショップから出てきたところを見ただけです。あれは私のドレスじゃなくて、幼馴染の彼女のドレスです」
「……そうなの?」
「そうですよ? なんでそんな風に思ったんですか? 私は先輩が好きだって言ったじゃないですか!?」
「ごめん」
ズキッと心が痛む。「ごめん」って何度聞いても心が痛むだけの言葉を、これ以上私に向けないで。
先輩は私に何度も針を突き刺す、それはとても辛いことだって早く気付いて欲しい。
静かな資料室に二人きり。
先輩は真っ直ぐ私を見つめたまま、何も言わない。私はどうしたらいい? ここから足早に立ち去るべき?
それでも、先輩の真っ直ぐな瞳から逸らす事ができずに、ただ見つめあったまま時間だけが過ぎていった。




