44・翠ちゃん
帰宅途中、とぼとぼと最寄り駅を降りてから歩いていると、見知った人物がこちらを見ていた。その姿は可愛らしいリボンを頭につけていて、オールインワンに身を包んだ女の子。
「翠ちゃん?」
「あ」
翠ちゃんが顔を上げると、待っていたのはまるで私だと言わんばかりに腕を組んできた。ぎゅっと腕を組んで俯いてしまった翠ちゃんは、何かあったのか黙り込んでしまった。ここは駅前、あまりにも人通りが多くて、翠ちゃんの話も真剣に聞いてあげる事ができない。そう思い、私は自分の家に翠ちゃんを誘うと案外あっさり頷いて驚いた。やっぱり私を待っていたのだろうか。何時に帰宅するかもわからない私を、この寒い中たった一人で……。翠ちゃんの真意はまだわからないけれど、寒さの凌げる家へと彼女を連れて行くことにした。
玄関のドアを開けて電気を点ける。人を家に上げるほど綺麗にしていたか少々不安はあったけれど、放ってはおけない。ひとまず中に入ってもらいクッションを渡した。
「ごめんね、あまり綺麗じゃないけど。テキトーに座ってて」
「ありがとう。私も突然ごめんね」
しゅんとしながら私に謝る翠ちゃんに、私は笑顔を向けた。なんだか妹ができた気分で実は少し嬉しい。私が笑顔を向けると翠ちゃんもホッとしたのか、笑顔を返してくれた。お茶の準備をしている間にスーツジャケットだけ脱いで、ハンガーに掛けた。今日は黒のスーツにストライプのドレスシャツをチョイスしていったので、ジャケットを脱ぐと少し明るい色になる。タイトスカートのスーツなので本当は早く着替えたかったけど、翠ちゃんがいる前で着替えるわけにもいかず、そのままお茶の準備を終わらせた。これは前に渋沢先輩に淹れたものと同じ紅茶。飲むたびにあの時のことを思い出しては溜息を吐いてしまうけれど、どうしてもこの紅茶はやめられない。それくらいお気に入りの紅茶なのだ。
「どうぞ。熱いから気をつけてね」
「うん、ありがとう。あ……いい香りがする」
「でしょ? お気に入りなの。まだあるから遠慮しないでね」
翠ちゃんは嬉しそうに紅茶を飲んだ。その姿を見ているとなんだかほんわかしてくる。素直に美味しそうに飲む姿は、淹れた方としては嬉しい。そういえば渋沢先輩も美味しそうに飲んでたっけ。お砂糖いっぱい入れてたんだよなぁ……目を細めながらそのときのことを思い出していると、翠ちゃんがぽつりと話を始めていた。
「……香澄ちゃんはお兄ちゃんと結婚するんじゃないの?」
翠ちゃんがあまりにも突拍子のないことを言い出すので、私は危うく紅茶を吹き出しそうになってしまった。というか、少し吹き出してしまったけど。口元を拭いながら翠ちゃんの顔を見ると、とても悲しそうな顔をしていた。うっすら目に涙を浮かべて……。紅茶のカップを両手で包みながら翠ちゃんが私の答えを待っている。……私は諦めて、全部ありのまま話すことにした。
「あのね、私はお兄ちゃんのことがとても大好きだよ。今でもまだ忘れられないくらい好き。でもね、お兄ちゃんに私はフラれてしまったの。だからもう、その、結婚なんてことは全くなくて」
「でも! 樹兄がドレスショップで香澄ちゃんを見かけたって! しかも他の男の人と……」
「あー……やっぱり樹くん、見てたんだ。あのね、あれは私の幼馴染のお兄ちゃんで、今度彼女と結婚する為にドレスを買いに来たの。その彼女がね、私と同じような背格好だから試着してサイズを確認したりシルエットを確認したりしてただけだよ」
「ホント?」
「うん、本当。だって二人のこと私、昔から知ってるしね。大事な人だから協力してただけなんだけどね」
「そっかぁ……」
誤解は解けただろうか。今更誤解を解く必要はないとは思ったけれど、あんなに悲しそうな翠ちゃんの表情を見てしまったら話さずにはいられなかったのだ。翠ちゃんはちゃんと理解してくれたようで、嬉しそうに笑顔を浮かべた。でも、私は内心複雑だった。本当にここまで話す必要はあったのだろうか、と。余計なことを話してしまった気はするけど、翠ちゃんがこうやって笑ってくれるならそれでいい、素直にそう思えたのだ。
話を終わらせた頃には、空はすっかり闇に変わっていた。でも一人で帰すにはちょっと抵抗があった。以前自分が痴漢に襲われかけた時のことを考えると、とても一人では帰せない。と、そこへ翠ちゃんの携帯が鳴り出した。翠ちゃんは携帯を開き着信画面を見ると、「あ」と小さく声を上げた。
「樹兄だ。もしもーし」
翠ちゃんが電話に出るとなんだか怒鳴っている声が電話の向こうから聞こえてきた。声が漏れるほど大きな声をだしている樹くん、翠ちゃんがここにいるなんて知ったらますます怒るだろうか。そんな私の思いなどはお構い無しに翠ちゃんは、樹くんに居場所を告げてしまった。そしてしばらくしてから携帯を切る翠ちゃんは、私の方を向いて屈託無い笑顔を向ける。
「樹兄が迎えにくるって。だからもう少しここにいていい?」
「え、あぁ、うん。いいよ」
「……迎えなんていいって言ったんだけどさー、痴漢に遭ったらどうするんだ!? とか言って。お父さんみたい」
「いいお兄さんじゃない」
「まぁ……ウザイ時もあるけどね」
少しだけ肩を竦めながら話す翠ちゃんは可愛らしかった。二人のお兄さんに大事にされていることだけは、よくわかる。だからこそ、こうやって素直に気持ちを露にするのだろうとそう思った。環境が性格を作っていく、彼女の周りは愛に溢れている。それはとても素敵なことだ。願わくば、その輪の中に入りたかったけれど……それだけはもう、敵わぬ願いになってしまったのだろう。
心の中の花びらが、散ってしまった。
『恋』という花はもう、全ての花びらを落として……あとは枯れるのを待つのみ、だ。