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43・退職願

 この一週間、本当に苦痛な日々を送っていた私。一番会いたくない相手が会社にいるという現実は、思った以上に辛いことだった。だからといって仕事を投げ出すわけにもいかないし、退職願を出したところですぐに辞められるわけではない。なるべく渋沢先輩の方を見ずに仕事を続けていた。もう随分声を聞いていない気がする。それがなんだか嬉しいんだか悲しいんだか……もはや自分の感情すらよくわからなくなっている。

 一週間前のあのメールから、樹くんとも全くメールしていない。それどころか携帯の電源は落としている時間の方が多かった。別に誰から掛かってくるわけでもないし、もうずっと家に放置しておいても良いくらいだ。でもやっぱり持ってきてしまうのは、携帯を持つことが当たり前になっているからだろう。携帯はいらないと言っておきながら、未だに先輩の写メは消せていなかった。一週間前の自分となんら変わらず、そのことにガッカリだ。

 この一週間で変わったことと言えば、内海先輩のことくらいだろうか。結局、前の彼女に会いに行ったけれど、自分達の現状やすれ違ってしまった時のことなどを話して、そのまま帰ってきたらしい。時間と環境が二人を変えてしまった。お互いの現状や現実から目を逸らしていた時間が長すぎて、元に戻るほどの気持ちはお互いなかったとそう内海先輩は静かに告げた。会社の休憩室で淡々と静かに語る内海先輩は、少しだけ悲しそうに、でもどこかホッとした柔らかな表情で心情を語ってくれた。ようやく自分の中でピリオドを打てたことで、やっと前に進めると微笑みながら。そして巻き込んでしまって申し訳ないと、何度頭を下げられたかわからない。渋沢先輩との間にできた溝はなかなか埋められないけれど、自分に与えられた仕事をとにかく頑張るつもりだと、さわやかな笑顔で私に言う内海先輩は、初めて見るくらいスッキリした表情をしていた。

 内海先輩が前に進んだように、私も見習わなくてはならない。渋沢先輩を忘れようとしているのに忘れられないのは、未だに彼に拘っている証拠だと思う。でも内海先輩の話を聞いて、私も変わろうと思えた。だからこそ、私のバッグの中にこんなものが入っているのだ。

 初めて書いた『退職願』。

 ネットで参考文章を見ながら書いたものだけど、ちゃんと書けていると思う。字があまりうまくないのは目を瞑ってもらうとして……。これを提出すれば、あとは引継ぎの人に自分の仕事を任せるだけだ。それだけはちゃんとしよう。そして自分が使った場所は綺麗にしてしていかなくては。立つ鳥跡を濁さず、だ。


「いつ出そうかな……」


 ポツリと呟いた言葉が空気に消えていく。本当はもっとこの会社で働きたかった。田舎に帰ればきっと、両親からのお小言が待っているだろう。だから上京なんかしないで地元で就職すればよかったのに、と言われるに違いない。それが目下私の悩みだった。せっかく五月蝿い両親のお小言から離れたというのに、再び田舎に戻ればきっと同じ日々が待ち受けているのだ。それが憂鬱だ。でも、渋沢先輩がいる東京にいるだけで、私はきっと前に進めないことだけはよーくわかっている。未練がましいことだけはしたくない。だから私は退職願を書いたのだ。

 昼の休憩時間が終わる頃、私は部長がいる小さな部屋へと足を向けた。今日はブラインドが下げられており、外からは中が見えないようになっている。これなら好都合だ。ドアの前に立ち控えめにノックをすると中から部長の声が聞こえる。「どうぞ」と小さく返事をした部長の元へと向かっていった。


「退職?」

「はい」

「……なんでまた急に」

「諸事情です」

「……訳ありか」


 ふうっと大きな溜息を吐くと、部長は退職願に目を落としながら頭をぽりぽりと掻きだした。困り果てた部長の姿を見ると、ちくりと胸が痛んだけれど決めたことだ。私は部長に頭を下げて謝った。


「部長、突然で申し訳ありません」

「せっかくお前、だいぶ仕事覚えてきたってとこなのになぁ……」

「本当に申し訳なく思っております」

「……悪いけど、俺はまだ了承しないからな。少しだけ保留させてくれ」

「……わかりました」


 私はそのまま部長に頭を再び下げてデスクへ戻っていった。戻ったと同時に昼の休憩時間が終わり、そのまま与えられた仕事に手をつけ、今日は残業無しで帰宅できそうなくらい順調に仕事を終えることができた。渋沢先輩に手順を教わってからというものの、私の残業時間は大幅に減っていた。あの時、私を心配して会社に戻ってきてくれた渋沢先輩の優しさを思い出すと、胸がきゅっと痛くなる。あの時は本当に嬉しかったし、少なくとも渋沢先輩が心配してくれるくらい私を気にかけてくれていることに、内心嬉しくて堪らなかったのに。……もう終わったことだ。私は少しだけ目を閉じて、零れそうな涙を誰にも気付かれずに堪えていた。

 帰り仕度をしてデスクから離れたら、一度も渋沢先輩の顔を見ずに部署を出て行った。もう、話しかけてもダメ。姿を目で追うこともダメ。辛くて辛くて、どうにかなってしまいそうだ。

 私は、その思考を振り払うように走って会社を後にした。

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