37・仕切りなおし
静かに襖を閉める渋沢先輩。
僅かに体を強張らせた内海先輩。
そして、ごくりと固唾を飲む私。
三人が一様に口を閉ざし、静かに時間だけが流れていく。気付いたら内海先輩に掴まれた手首が、じんと鈍い痛みを放っている。店内はざわざわと賑わいでいて、この個室でこんなに緊迫した状況になっているだなんて、誰一人として気付いてはいないだろう。
固まってしまった空気の流れを断つように、渋沢先輩が一歩ずつ近づいてくると、徐に拳を振り上げた。そして言葉をかける間も無く、拳は内海先輩へと向けられ頭に拳骨が打ち込まれた。少し力が緩んだ隙に私は内海先輩の腕を振り払い、渋沢先輩は容赦なく内海先輩の襟に掴みかかった。しかしこの二人には体格差がある。渋沢先輩よりも遥かに大きい内海先輩は、すぐに掴まれた襟元を正した。
「ここで何してたの?」
静かに言葉を乱すことなく口を開いた渋沢先輩だけど、その口調は穏やかながらも低く、どこか厳しい。内海先輩はそれに怯むことなく渋沢先輩を見下ろすと、口元をふっと歪ませて急に笑い出した。
「何してたって? そんなこと……言ってもいいの?」
わざとらしく意味深な返しをする内海先輩に、渋沢先輩の目つきが厳しくなる。まさに一触即発といったところだろうか。それでも渋沢先輩はなおも内海先輩に問い詰めるように口を開いた。
「彼女に……何もしてないだろうな」
「何かしてたら?」
「内海!」
「……偽善者面するな」
ほんの一瞬のことだった。
内海先輩が渋沢先輩を殴り、個室の壁に叩きつけられた。
ガン! と強打した先輩の体と、周りの客や店員にも気付かれてしまうほどの音がビリビリと耳に響いている。叩きつけられてずるずると床にへたり込む渋沢先輩に駆け寄ると、表情は痛みで歪んでいる。頭や背中を打ちつけて、何処か傷めたのかもしれない。
「もう、やめてください!」
気付けば大声で叫んでいた。
渋沢先輩も内海先輩も凄く傷ついた顔をしているのが、どうしても見ていられなくなってしまったのだ。
喧嘩は嫌い、傷つけあうのも嫌い。でも、時には争わなくてはならないことも知っている。私はもう子供ではないのだから、安易に二人の争いに口を挟むべきではないとわかっているのに、これ以上渋沢先輩が傷つく姿を見たくなかった。
渋沢先輩に駆け寄り、ぎゅっと頭を抱きしめた。そして内海先輩に強く言う。
「暴力はやめませんか。言いたい事があるならちゃんと伝えるべきです。渋沢先輩も同じですよ。黙ってるだけでは何も解決しません」
二人の視線を一気に集め少々戸惑い気味だったけれど、自分の言葉に嘘はない。伝わらないかもしれない、でも、話さないと始まらない。こんな風に暴力だけで終わらせるなんておかしい。甘い、そう言われてしまうかもしれないけど、言わずにはいられなかった。
少し間を置いて、小さく溜息を吐いたのは渋沢先輩。その後、ぽつりと呟いたのはやっぱり高校時代の内海先輩の彼女のことだった。
「……あの時、僕が彼女を貰うって言ったのは、頼まれたから」
「は?」
「彼女、千佳に頼まれたんだよ。内海がちっとも自分を見てくれないって相談されて、そしたら千佳にそう言ってくれって言われて。彼女なりにお前の気持ちを試したかったんだと思う」
「そんなわけあるか……! 俺はちゃんと向き合ってた!」
「受験が、不安を大きくさせたんだと思う。千佳は毎日泣いてたから。それでもあんなこと言ったのは、僕も千佳が好きだったから……」
ずしんと気持ちが重くなった。過去とはいえ、初めて耳にする渋沢先輩の好きだった女性の話は、辛くないといったら嘘になる。過去に嫉妬しても仕方がないけれど、そう簡単に割り切れるほど私はできる人間ではない。
「内海が羨ましかった。千佳は何度も僕に自慢の彼氏だって、お前の話を聞かせるんだ。お陰で毎日嫉妬ばかりで、お前なんかいなくなればいいと何度も思った」
「……」
「千佳……まだ独身だよ。今、看護師の職に就いていて東京にはもういないけど……内海が彼女に会いたいなら、場所を教える」
「何処にいるんだ!? 早く言え!」
「……長野県。詳しい住所はメールする。家に帰らないとわからないから」
「嘘じゃねぇだろうな」
「真実しか、もう言わないよ」
それから間も無く、内海先輩は出て行った。何一つ言葉を残さずに出て行った後姿は、ほんの少しだけ泣いていたような気がする。
後から渋沢先輩に聞いた話、内海先輩は今でこそ複数の女性をかけもちするようになってしまったけれど、本来の先輩の姿は真面目で一直線、ずっと彼女を大切にしていた男性だというのだ。それが大学受験を機に二人で会う時間は激減。模試の結果がうまくいかないなどで苛々していた事も原因だったのかもしれないけれど、受験が二人の間を引き裂くきっかけになってしまった。ほんの些細なすれ違いが二人に大きな溝を生み出してしまった。渋沢先輩は密かに想いを寄せていた千佳という女性と内海先輩を引き裂くには、この溝を利用しない手はないと考えたらしい。姑息な手だと思う。でも一方で、それほどまでに彼女を強く想っていたという気持ちも伝わってきた。
「香澄ちゃん、僕のこと幻滅した?」
「幻滅なんてしませんよ……ただ、千佳さんにちょっと嫉妬しました」
「千佳に?」
「だって、渋沢先輩が彼女を凄く好きだったことが伝わってきたから」
寂しげに目を伏せて渋沢先輩から目を逸らしてしまった。でも、ここで先輩の過去に嫉妬して背を向けてしまうくらいなら、自分の気持ちをちゃんと伝えたい。胸の前でぎゅっと拳を握り占めて大きく息を吸い込み、そのまま真っ直ぐ渋沢先輩を見つめて……きっちり、はっきりと。
「渋沢先輩」
「ん……?」
緊張して先輩を呼ぶ声が震える。でも構うものか。伝わればそれでいい。
再び大きく息を吸い込んで、ありったけの想いを込めて。
「私、渋沢先輩が好きです」