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36・危機的状況

「僕は……」


 先輩がようやく口を開いた。でも、口から出た言葉はこれだけ。先輩も緊張しているのだろう。まっすぐ私を見つめている眼差しは力強く、その瞳は私をさらにドキドキさせた。少しずつでもいい、ゆっくり聞かせて欲しかった。でも、先輩の緊張はピークに達していたようで、一度大きく息を吸い込んだもののうまく言葉が出てこない。そして、本人も気持ちを切り替えたいのか突然立ち上がり、小さな声で「トイレ」と言って、個室を出て行ってしまった。

先輩が出て行って襖が閉められたと同時に、私からも大きな溜息が零れた。それは私も緊張していたから。先輩の胸の内を、今か今かと待ちながらじっと見つめていたのだから。

正座して返事を待っていた私は少しだけ足を崩して、掌でぱたぱたと顔を扇ぐ。緊張からか額にじとりと汗が滲んでいる。その汗を、バッグから取り出したハンカチでそっと拭い、深く深呼吸をして自分を落ち着かせていた。

 私が少しだけリラックスしている間に、背後の襖がすぅっと静かな音を立てて開かれる。先輩が戻ってきたのだと思い振り返ると、そこにいたのは先輩ではなく……


「内海先輩!?」


 ちょっと声を大きく上げすぎたのか、内海先輩は私の口を掌で塞いだ。そして反対の手で人差し指を唇の前に立て、「しー」と静かにするように促す。私はコクコクと首を振りながら、口元に覆われた掌が離れるのを待っていたが、その掌は一向に離れない。すると内海先輩はにっこりと笑顔で、ずいっと顔を寄せてくる。そして小声で私の耳元に囁いた。


「……渋沢と、来てたんだ」

「……」

「俺と食事をした時は途中で退席したよね? それってちょっと先輩に対して失礼じゃない?」

「……す、すみませ」

「謝れば何でもいいの? そうじゃないでしょ。君なりの誠意を見せて欲しいなぁ」

「誠意?」

「そう。誠意」


 にこっと笑っているけれど、内海先輩の目はちっとも笑ってなんかいない。あくまでも表面は笑顔を取り繕っているものの、どこかゾッとするほど冷たい彼の笑みに、私は何も言い返す事ができなくなってしまった。なんで内海先輩がここにいるのかもわからない。そしてどうしてここに私達がいるとわかったのだろうか。訊きたくても訊けない、内海先輩の瞳が私に喋らせないようにじっとこちらを睨んでいるように思えた。嬉しそうに内海先輩が右手で私の髪を梳くと、その流れで頬に触れ、ゆっくりと首筋を指でなぞっていく。鎖骨辺りまで内海先輩の指が滑ってくると、私の体は否応無しにビクッと震えた。まるでその反応を待っていたかのように、内海先輩が楽しそうに笑う。会社での内海先輩の姿とは裏腹に、その笑顔には何の感情もない冷たい氷のようで、私はその氷のように冷たい微笑から目が離せなくなっていた。何度も私の頬をなぞる内海先輩の指が、何度となく私の体を震わせる。体中の神経が、その指に反応するようにびくびくと動いてしまう。別に感じているわけではない、怖いだけ。次にどんなことをされるのかがわからないだけに、その恐怖感は拭えない。


「香澄ちゃん、俺言ったよね? 渋沢のこと憎んでるって」

「はい……」

「女々しい男だと思うだろうけど、本当に好きな彼女だったんだ。だからこそ今でも憎くて仕方がない」


 苦痛に顔を歪ませる内海先輩だけど、本当に憎いのだろうか。なんだか無理矢理憎もうとしている感じがするのはどうしてだろう。渋沢先輩を本気で憎んでいるのなら、今までだってなんとでも出来た筈なのに。

 内海先輩が何度も私の頬をなぞるたび、渋沢先輩のぬくもりがかき消される気がして、私はつい、その手を振り払ってしまった。振り払った後の内海先輩の驚きの表情、そして先輩にしてしまった愚かな行動が、私を焦りの色に変えていく。


「す、すみません」

「……香澄ちゃんは本当に失礼な後輩だね」

「ごめんなさい」

「少し躾が必要かな?」

「躾って……」


 そう言った時にはこの狭い個室で押し倒されていた。目の前には天井を背にした内海先輩の顔が見える。内海先輩が言った躾とはこういう行為の事なのだろうか。きつく握られた手首に痛みが走るのを堪えながら、私は負けじと内海先輩の顔をジッと見つめていた。嫌がれば嫌がるほど、この先輩を喜ばせてしまうのではないかと思い、必死で無表情を貫いた。しかし怖い気持ちはなかなか隠せない。


「そんな風に強がっても、手は震えてるみたいだけど?」

「……怖くなんかありません」

「そう? 俺には君が怖がっているように見えるけど」

「目的はなんですか、私をどうするつもりですか?」

「だから言ってるでしょ? 俺は渋沢を憎んでるって。渋沢の大事なものを傷つければ俺の気も済むかなぁって思って」


 内海先輩の中には歪んだ心がある。きっと憎しみの鎖に縛られてしまって何処にもいけない苦しい思いが詰まっている、そんな気がした。でも、無理に私を押し倒しては愉しそうに笑っているけれど、手首を掴まれて押し倒されてから何一つ行動を起こそうとはしない。この人は何処かでわかっているのではないだろうか……自分が起こしている行動は、まったくもって無意味だという事が。こんなことしても、訴えれば罪に問われるのは他ならぬ内海先輩だということ。出世を期待されているのに、出世も名誉も全てを水の泡にしてしまうほどこの人は愚かではないと思う。信用しているわけではないけれど、内海先輩が本当に悪い人なら、もっと姑息な手を使う気がする。

 内海先輩に押し倒された状況の中、ゆっくりと襖が開き、そこには渋沢先輩が目を見開いて立っていた。この状況は、先輩の目にはどう映ったのだろう。渋沢先輩の掌に、ぎゅっと力が込められた。

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