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33・香澄ちゃん

 窓から外をぼんやりと眺めていると、背後の扉から控えめなノックの音がする。そっと開かれた扉からは渋沢先輩の顔がひょこっと出てきた。すっかり男の姿に戻った先輩は珍しくシンボルの眼鏡を掛けていない。必要以上に大きな瞳をくりくりさせて、にっこりと微笑む先輩の姿はあまりにも可愛らしくて、さっきまでの女の子として表に出ていた名残を感じさせた。


「先輩、つい女の子みたいな仕草になってますよ?」

「えっ!? あ……さっきまで女の子の格好してたから……。あ、服ごめんね。折角買ったのに僕が先に着ちゃって」

「いえいえ、いいですよ。むしろあんな姿が見られてラッキーでしたから」

「前園さんは……意地悪だな」

「ふふ、今頃気付きました?」


 二人で笑い合っていると担当さんが近づいてきて、先輩と私に向かって深くお辞儀をした。


「今日は本当に助かりました! 先生の彼女さんが来てくれてホントにこの場を乗り切れてよかったですよー」

「え!? かかかか彼女って!?」


 突然私を『彼女』扱いする担当さんは、本当に私が先輩の彼女だと微塵も疑っていない。その言葉に感動してじーんと胸を打たれていたのは私、その言葉に動揺して真っ赤になってしまったのは渋沢先輩だ。担当さんに何度も「違う違う!」と連呼するもんだからちょっとだけ寂しかった。それと同時にムッとしてもいた。

 そんなに全否定しなくてもいいのに……。

 ぷぅっと頬を膨らませて眉間に皺を寄せた私の姿を見て、渋沢先輩が一瞬たじろいだ。だけど私はやっぱりムカッとしていて先輩に背を向けてしまった。


「……お、怒ってる?」

「……」

「ま、前園さん……?」

「……」

「……か、か、香澄ちゃー……ん」


 ……吃驚したなんてもんじゃない。「前園さん」が「香澄ちゃん」に変化したので私は思わず目を見開いて振り返った。さっきまで怒っていた私だったが、名前を呼ばれただけですっかり機嫌が良くなっていた。そして先輩の両腕を掴んでジッと目を見つめると、ジーッと見すぎて先輩に冷や汗が流れているのがわかる。でも私は、どうしてもどうしてももう一度名前を呼んで欲しくて、ついお願いしてしまった。


「もう一度、名前呼んでください!」

「え!?」

「と言うより、ずっと名前で呼んでください!」

「か……香澄ちゃん」

「はいっ!」


 嬉しいな。やっぱり名前で呼ばれると嬉しくて堪らない。苗字で呼ばれるよりずっと嬉しい。それだけで誰よりも近づけた気がするから不思議だ。にこにこと、笑顔が抑えられなくてずっと笑顔を絶やさずにいると、渋沢先輩は困ったように髪を掻きあげた。私から少しだけ視線を外して何度も髪をくしゃくしゃと乱暴に掻き、少し頬を染めながらも私に向かってぽつりと何かを呟いた。


「……このあと、予定ある?」

「いえ、ないですけど」

「ご飯、一緒に行こうか?」

「え!?」

「や、嫌ならいいけど……」

「そんな嫌なわけないじゃないですかっ! ぜひ!」

「そう、じゃ行こうか」


 ホッとしたのか、少し緊張気味だった先輩の表情が緩んだ瞬間、穏やかな笑みを浮かべてさりげなく私の掌を包み込む。意外にも大きな先輩の掌。いつか私の家で指を絡めて繋いだように繋がれたいなぁと思っていた。指を絡めず、大きく包み込む先輩の掌からは優しいぬくもりが伝わってきて、胸がじんと熱くなる。こうして思いがけず先輩とご飯デートをすることになった。

 書店の人に挨拶を済ませ担当さんとその場で別れた私達は、そのまま街並みをゆっくりと歩き始めた。握手会は成功を収め先輩も私も満足そうに微笑む。賑やかな街並みが少しずつ夜の色を帯び始め、ポツリポツリと街灯が灯っていくと途端に夜の顔に変化する。その中を私達はゆっくりと歩いて今日の握手会での話をしたり会社の話をしたり、とにかくひたすら喋っていた。するとあっという間に時間は過ぎ、先輩のお目当ての店へと案内された。


「僕も行った事はないんだけど……創作和食のお店で、凄く美味いらしいからどうかなって思って」

「いいですね、和食! 私の実家は和食ばかりだったので和食が好きなんですよ」

「そう。じゃあ良かった。入ろうか」

「はい」


 店に入ると中は薄暗い。店内に入ると同時に店員さんの優しい声が向けられて、中へと通される私達。そして案内されたその席を見て、絶句した。


「こ……個室、ですか」

「はい、当店は全席個室となっておりますので。お客様にゆったりとおくつろぎいただけるように、必要以上に踏み込んだり致しませんのでご安心ください」


 くすっと微笑む店員さんに私達は唖然としていた。まるでカップルシートのような個室で、先輩との席の距離も近い。先輩は動揺しているし私も真っ赤になって俯いてしまった。でも、一度入店したからには席に着かないといけないと思い、先輩の掌をギュッと握った。


「先輩、楽しみましょう!」

「そ、そうだね」


 極力明るい声を出し、私達はその場を取り繕った。他の人から見れば私達はどう見てもカップルだろう。だって手も繋いでるし。席に着いて始めに飲み物を注文すると店員さんが個室から出て行った。なんとなく緊張感が漂う中、私達はお絞りで何度も手を拭いて……なんとなくこの沈黙をおしぼりだけでやりすごそうとしていた。狭い個室に二人きり、これはどう考えても……緊張するでしょう。掘りごたつ式のテーブルの下では、先輩と膝がぶつかり合う。なんとなく密着してしまうと心臓が五月蝿く高鳴って、先輩の顔を見る事ができなかった。

 もう……こうなったらお酒の力を借りて、酔っ払ったほうが勝ちだ!

 そう思った私は、今日は飲みすぎるほど飲んでしまえ! と自分に言い聞かせて、運ばれてきた生ビールで乾杯した後、ぐびーっと一気に飲み干したのだった。

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