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32・その一歩が踏み出せない

 私が今いる場所、それは本屋さんの上にある在庫が置かれた場所。そこにある僅かなスペースに小さな椅子が並んでいて、そこに腰掛けると外が見える。書店の中へと続いていく長蛇の列はまだ続いていた。先輩が色々なファンの方と握手しているところは見れないけれど、きっと笑顔で握手して本を手渡しているんだろうなぁと想像していた。その時、列の中に見覚えのある人物が目に付く。


「あれ?」


 列の中でそわそわと自分の番が回ってくるのを待っている人物の顔……それは……


「嘘、う、内海先輩!?」


 これには驚きだ。まさかの内海先輩の出現に、渋沢先輩の引きつる表情を想像したらなんとなく苦笑いしてしまった。大丈夫だろうか、渋沢先輩だと気付かれることはないだろうけど……内海先輩は人を見分けることに関しては非常に優れていると思う。絶対に人の顔を忘れないという彼の特技は、営業マンとして強みになっている。それ故、獲ってくる契約も人より群を抜いている。毎日、契約数が棒グラフで張り出されるので、私も時々それを見ていた。そこには誰よりも長い棒グラフの内海先輩の名前がでかでかと載っているのだ。しかも毎日内海先輩が一番成績が良い。頭脳明晰、眉目秀麗な内海先輩は仕事も出来るし出世も早そうな完璧男として、女性社員に人気があるけれど……まさか、漫画家さんの握手会にやってくるとは想像もしなかった。渋沢先輩、大丈夫かな?


 私が渋沢先輩を心配している時、階下の渋沢先輩は一瞬息を呑んでその顔を見上げていた。笑顔でファンの人と握手を交わしていたが、目の前にいる男の顔を見て、たらりと冷や汗を掻いている。そんな渋沢先輩の様子に目の前にいる男は首を傾げながら、差し出した手を握られるのを今か今かと待ちわびていた。


「あの……?」


 痺れを切らした男が渋沢先輩に声尾をかけると、渋沢先輩もハッとして慌てて握手を交わした。普段の声を隠しながらなるべく高い声で挨拶を交わし本を手渡すと、満面の笑みでその男は渋沢先輩の前から立ち去っていった。ばくばくと異様な速さで脈打つ胸を押さえ、冷や汗をそっとハンカチで拭い、大きく息を吐いた。まさか同僚が来ているなんて思いも寄らなかったのだろう。気を取り直して握手会を続ける渋沢先輩だったが、やけに疲労していることに握手会が終了した時にようやく気付く事が出来たらしい。見事にやりきった先輩は、自分だと同僚に気付かれなかったことで安堵のため息を何度も吐いていた。


「先輩、お疲れ様です!」

「前園さん……」


 握手会も無事に終わり、私は階下に降りて先輩の近くに駆け寄りタオルを手渡そうとすると、先輩の頭がゆっくりと前のめりになり、こつんと額を私の肩に乗せた。傍から見れば女同士、でも先輩は男性だ。正直、こんなに素直に先輩が私にくっついてくると嬉しい反面、恥ずかしさと緊張感がぐわっと高まっていく。心臓をばくばくと鳴らしている私とは対照的に、先輩は額を私の肩に乗せた状態で大きな溜息を吐いた。


「……内海が、来てた」

「やっぱり内海先輩でしたか。上から並んでる姿が見えたので、まさかとは思ったんですけど」

「握手会、やっぱり僕がやってよかったよ」

「あ、私だったら会社で何言われるかわからないですもんねぇ……」

「そうじゃなくて。君がやったら内海と握手するのは君になるんだよ? 君が内海と手を握るのは……」


 そこまで言いかけて先輩はイキナリ上体を起こした。向けられた顔は頬が赤く染まっていて、動揺しているのか目が泳いでいる。そのままギクシャクした動きをして「着替えてくる!」と一言だけ残して、私の前からいなくなったのだ。

 本当は、何て言うつもりだったんだろう。「内海と手を握るのは……」の後の言葉が気になる。言って欲しかったな、それが例え私が求めている言葉ではなくてもいいから、ポツリと出たその本心を聞かせて欲しかった。先輩はさらりと大胆なことを言うと思ったら、こうやってすぐに肝心なことを外してくる。先輩の胸の内を覗く事が出来たら、どんなに嬉しいか。焦っても仕方がないとは思うけど、日に日に先輩への想いは溢れるほど大きく膨れ上がってくる。グラスに注がれた水がなんとか表面張力で保たれていたけれど、今の私の先輩への気持ちはそれでは間に合わないくらい溢れ出していた。グラスの周りに水が零れ落ちるほどに彼への気持ちが膨らんでいるのに、その零れた水を回収する術を私は持っていない。

 近くなったり、遠くなったり……先輩との距離はいつまでたっても埋まらない。あと一歩を踏み出せばいいだけなのに、その一歩はとてつもなく勇気がいる。自分の気持ちを伝えたら、先輩と私の今後が真っ二つに分かれる。恋人同士になれるか、それか先輩と私の間に大きな溝ができるか……。私はフラれた相手と仲良くできるほど器用な人間じゃない。時間が経てば仲良くできるかもしれないけれど、結局、同じような感情に戻されてしまう気がして必要以上に近づけないのだ。リセットする為には、その人から離れなくてはならない。そうしないと私は、いつまでたっても次に踏み出せない不器用な人間だから。仮に先輩にフラれたとしたら、私はもう、先輩には二度と会わないようにするだろう。あまりにも好きになりすぎたから。会えば気持ちが傾くことだけは分かっているから……それが怖くて、先輩に想いを告げられずにいるのだ。肝心な時に臆病な私が、その一歩を踏み出せるのはいつになるのだろう? それは神のみぞ知る、だ。

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