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31・完璧な変装

 とくんとくんと穏やかだけどどこか緊張が入り混じった鼓動が、私からも渋沢先輩からも聴こえてきて、だけどその鼓動の音が私達の間に優しい空間を生み出していた。ほんの少しだけ背の高い先輩の手が私の背に回されて、ぴったりと密着した体は熱を帯びていて……私は今にも溶けてしまいそうだ。そっと、伺うように先輩の顔を見上げると、先輩の頬もじんわりと赤らんでいてそれがとても可愛い。このまま、時が止まってしまえばいいのに。そう思ってしまうほどの幸せな先輩のぬくもりを肌に感じていると、そんな私達の空気を裂くように先輩に向けて大声で叫ぶ男性がいた。


「先生! そろそろ時間ですよ、どうしますかー!?」


 空気を読まない担当さんの声が私と先輩を現実へと引き戻した時、私と先輩は同時にパッと体を離して目を反らしてしまう。恥ずかしさから先輩の顔が見れなくて、でもそれは先輩も同じだ。

 そう、今は幸せを噛み締めている場合ではない。握手会をどう乗り切るか、それが問題だ。先輩が腕を組みながら悩んでいる姿を見て、何か私に手伝えることはないかと必死で考えを巡らせていた。


「どうしようかな……」


 やっぱり先輩は目を伏せて困惑している。どうにかしてあげたいと思うけれど、一体私に何が出来るだろう。そう思った時、ふとアイデアが浮かんだ。それは先輩にとっては屈辱的なことかもしれないけど、事態は一刻を争う。私は遠慮せずにそのアイデアを先輩に打ち明けることにした。


「先輩、あの……今は時間がありません。こうなったらこの手しかないと思います」

「この手?」

「はい、この服を使ってください!」


 私は今日買い物をした服を先輩に手渡した。サイズが合うかはわからないけれど、今日買ったワンピースはウエストを締め付けるものではない。Aラインの緩いワンピースなので細い先輩なら余裕で入るはずだ。しかも今日は幸いにもベースメイクを買い揃えたのだ。他のメイク道具は一式いつも持ち歩いている。化粧もできる。ウィッグはこの辺りならいつでも変装道具のようなものが沢山売っているので、いつでも手に入れられるだろう。あとは渋沢先輩に決心してもらうだけだ。


「変装しましょう! 女性になるんです!」

「ぼ、僕が!?」

「そうです。先輩……腹くくってください! いいですね?」

「うぅっ……」


 握手会の時間は迫っている、しかもお客さんは長蛇の列になって待っているのだ。これはもう時間を延ばせるような状態ではない。先輩にぐぐっと詰め寄りながら私は手にメイク道具をスタンバイさせた。先輩は苦虫を噛み潰したような顔で渋々首をコクンと縦に振って了承したので、私達は先程担当さんがいた二階の空き部屋に先輩を連れて行き、早速メイクに取り掛かることにした。その間に担当さんには近場で売っている女性物のウィッグを買いに走ってもらい、私達はメイクに集中する。先輩を椅子に座らせてササッとベースメイクから始めた。元々肌が綺麗な先輩は髭も薄くて青くなったりしていないので、ファンデーションでなんとか隠せそうだ。眉が見えないように前髪があるウィッグを頼んであるので、眉のお手入れは省略。リキッドファンデーションを肌に乗せると、その肌の肌理の細かいことに驚いてしまう。するすると伸びるファンデーションの上からパウダーを乗せ、すっかり綺麗な女性肌に仕上がった。あとはビューラーで睫毛を上に持ち上げてアイシャドウをして……アイラインもくっきり引く。どんどん可愛くなっていく先輩を見て、こんな時にとは思ったものの、私の悪戯心がむくむくと生まれてしまった。


「先輩、付け睫毛もしましょうねっ」

「そ、そこまでしなくてもいいんじゃないの?」

「いえいえ、可愛くなる為ならなんでもしないと」

「……別に可愛くなりたくてこんな格好してるわけじゃないんだけど」

「まぁまぁ、ここは私にまかせて」


 嫌がる先輩に無理矢理つけ睫毛をすると、なんというか……並みの女の子より可愛らしくなってしまった。そこへ担当さんが急ぎ足で駆け込んできて私にウィッグを手渡すと、先に渋沢先輩を着替えさせてからウィッグをつけた。ダークブラウンのロングストレートヘアのウィッグ、渋沢先輩にとても似合っている。これは何処から見ても完全に女の子にしか見えない! というより、私より数倍可愛いのが悔しいくらいだ。そして思わず傍にいた担当さんが先輩に見惚れてしまい、溜息が出るほど。


「先輩、可愛いです!」

「……嬉しくない」

「そんな顔しちゃダメです。はい、笑って笑って」

「楽しくもないのに笑えない」

「そんなに拗ねなくても……やっぱり私が代役やりましょうか?」

「それはダメ! 絶対ダメ!」


 声を荒げて私の意見を拒否すると、観念したように肩を落とした先輩。がくりと頭を垂れて大きくて長い溜息を吐いた後、頭を上げた先輩はにっこりと微笑んだ。笑顔の練習はしなくても大丈夫なほど、完璧な女性になっている。これは……きっと男性ファンが増えること間違いなし、だわ。ライバルが男? それだけは勘弁して欲しい。ワンピースを着ている先輩だけど、足元はジーンズを履いている。細身のパンツだったので履いていても問題ないと思い、先輩にパンツは履いていても平気だと告げると、ホッとしていた。スカートを履いて足を出すのは嫌だと言うのだ。最近は好んでスカートを履いている男性もいるけれど……ファッションだと思えば履くことにも抵抗ないのではないだろうか。まぁ、別に先輩のスカート姿がどうしても見たいわけではないからいいけれど。そう思うとスカートもパンツも許されている女子というのは、得な気がする。こんなに可愛いスカートを履ける喜びが分からないなんて……と思いながら、担当さんに促されていく先輩の後姿を見送っていた。


 いよいよ、握手会が始まる。先着三百名という握手会ということで先に整理券が配布されていて、すでに全ての整理券は配布終了してしまったらしい。以前賞を獲ったという先輩の漫画は、それはそれは人気らしい。連載してからまもなく、読者アンケートも毎回のように一位を獲得している人気連載漫画家の先輩。先輩には絵を描く才能も、ストーリーを作る才能もあるようだ。……少しだけ、そんな先輩に嫉妬してしまいそうだ。私には何があるのだろう。特に人に胸を張れるような特技もなければ夢もない。小さい頃から夢見ていたのは、単純だけど『お嫁さん』。好きな人と一生添い遂げられるような、仲睦まじい夫婦になることを夢見ているくらいだ。特技は何もない。少しだけ自分の両手の掌を見つめていると、その掌には何一つ乗っていないことに、少しだけガッカリしてしまう。先輩の掌には、『漫画』という特技が乗っているのに……やっぱり羨ましいな。

 もし、私がこのまま今の会社で働くとして……その先には何があるのだろう。ぼんやりと先の見えない未来を見つめながら、ざわめく階下の五月蝿い声が遠くに感じていた。

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