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30・僕以外に触れないで

 しばらく先輩に頭を撫でられて落ち着きを取り戻した頃、先輩の表情もそれと同時に柔らかくなり、ホッと小さな溜息を吐いた。いきなり詰め寄るように先輩に向かって心の内を打ち明けてしまったことに、今更恥ずかしさが溢れ出る。でも、言った後の私も先輩も穏やかに微笑みあうことができるくらい、お互いのわだかまりは解けているような気がした。良かった……ちゃんと謝る事ができて、そしてちゃんと分かって貰えて。人間、後ろめたい事があるとうまく表情を作れなくなる。そしていつまでもその呪縛から逃れる事ができないような、追い詰められていくような気がしてしまう。だから私は先輩には素直でいたい。全てを打ち明ける事が正しいとは思わないけれど、極力嘘はつきたくないのだ。つきすぎた嘘は、やがて大きな禍となり全てが己に降りかかってくるような気がするから嘘は嫌なのだ。


「ところで凄い偶然だね。どうしたの、こんなところで。あ、買物いっぱいしたんだね」

「はい、ちょっと服や化粧品を買って……折角だからあの喫茶店で、先輩が教えてくださったアールグレイを飲もうかと思ってここまで来たんですよ」

「そう、美味しかったでしょ?」

「はい、凄く! マスターもいい人で……凄く楽しくお話できました!」

「そう……良かったね」


 そう言ってくれた先輩は、何処かそわそわしている。何かを待っているような、そんな感じ。落ち着きのない先輩の様子が私も気になってしまったので、おずおずと先輩に訊いてみることにした。


「先輩、誰か待ってるんですか?」

「う、うん……」

「そう……ですか。じゃ、じゃあ私お邪魔ですよね。あの、帰ります」

「邪魔なんかじゃないよ!」


 驚くほど大きな声で先輩が私にそう言い放ち、それと同時に必要以上に先輩の顔が私の顔に近く寄せられていた。あと少しで先輩の唇が届きそうなほど近い距離に、私も先輩も驚いてさっとお互い身を引いた。バクバクと五月蝿いくらいの心臓が破裂しそうなほど速く打っている。嬉しさと恥ずかしさが入り混じったこの感情が先輩に伝わってしまうのではないだろうかと心配になるほど心臓はどんどん五月蝿くなっていく。すると私達二人の、この微妙な空気を一遍させるような金切り声が、空から降ってきた。


「先生! 代役の方来れなくなったそうです!」


 突然上から降ってきた声は間違いなく渋沢先輩に注がれているのだろう。長蛇の列の先頭にある店舗の丁度真横のこの位置、その上は二階へと続く店員専用の階段が設置されていて、その上から顔をひょこっと出しているのは三十代後半くらいの男性だろうか、慌てた様子で周りを確認することもなく渋沢先輩に叫んでいた。その様子を見て、先輩の顔もみるみる強張っていくのがわかる。顔色もどこか悪いような気がした。


「先輩……どうしたんですか?」

「……実はこれから握手会があって……どうしてもこれは外せないらしくてね。限定三百名にサイン入りのコミックを渡して握手するだけなんだけど、代役を頼んでいた編集者の社員さんが来られなくなったみたいで……」


 動揺しながらも私に状況を説明する先輩の額からは、じわりと汗が滲んでいる。どうやら相当困っているようだ。それもそうだろう、渋沢先輩は自分の顔を公にしないようにしているのに握手会なんてスケジュールに入れられてしまっているのだから。オロオロと困った先輩と上の階にいる担当さんらしき男性が頭を抱えている。私は、そんな困っている先輩を助けたくて気がついたらとんでもないことを口走っていた。


「私、代役やります!」


 さすがの先輩も、上で困っていた担当さんもさすがに突然の私の申し入れに困惑の表情を浮かべた。でもそれはすぐに変わる。担当さんは喜んで上からすっ飛んで私達のところまで来ると、「助かるよ!」と私の両肩をバンバンと叩いて歓迎してくれた。しかし当人の渋沢先輩の表情はまだ浮かない。先輩の顔を覗き込み、私はニッコリ笑って先輩の安心させようとした。


「大丈夫! ヘマしないようにしますから」

「そうじゃなくて……」

「あ、やっぱり私じゃ無理でしょうか……」

「そんなことじゃなくて!」


 先輩は怒ったように私を睨み、横で浮かれている担当さんにビシッと言った。


「僕は彼女を代役にしたくないから」


 それだけ言うと先輩は私の腕を掴んで、スタスタと店の裏側へと歩いていってしまった。担当さんが青ざめた表情で困惑しているので私は気の毒に思い、先輩の背中に話しかけた。


「先輩! そんな事言っても、他に誰もいないんでしょう!?」

「いないけどっ」

「だったら!」


 そう声をかけると早足で歩いていた先輩の脚がピタリと止まった。そのままくるりと振り向いた先輩はやっぱり怒っていて、それでいて頬もなぜか赤くなっていた。私はその先輩の様子を首を傾げて見つめていると、言いづらそうに先輩の口がもごもごと開かれた。


「……握手会の客層は、男ばっかりなんだよ。僕は君が他の男と握手してニコニコしてる姿なんて、見たくない」


 蚊の鳴くような小さな声で告げられた言葉は、私の胸を大きく揺らす。

 どうしよう、どうしよう、すっごく嬉しい……。

 それは自分以外には触れないでと言われているようなものだ。あまりにも嬉しい言葉に私も先輩と同じくらい真っ赤に顔を染まっていく。ドキドキと高鳴る胸は、もう先輩への期待でいっぱいだ。こんな非常時に不謹慎だとは思ったけれど、先輩の言葉が嬉しくて思わず先輩の正面からぎゅっと抱きついた私。それに動揺する先輩。密着した先輩の胸から大きな音が聴こえてくる。それは徐々に速くなり、肌から先輩の体温が上昇しているのも伝わってきた。埋められないと思った距離が一気に近づいて、今はこれ以上ないくらいに幸せを噛み締めた私。ゆるゆると遠慮がちに私の背中に回された先輩の腕は、やがて私の体をすっぽりと埋めつくす。抱きしめ合う私達に流れる時間が、少しだけでもいいからゆっくり流れて欲しいと、こっそり願ってしまった。


 

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