29・落ち着く匂い
昨夜はあまり眠れなかった。
渋沢先輩を怒らせてしまいすぐに電話を掛けなおしてはみたものの、電源そのものを切られてしまったようだ。先輩へと繋がる予定だった携帯からは、淡々と語る携帯会社のメッセージの音声のみで、先輩には全く繋がらなかったのだ。近づいたと思ったらこうやってすぐに距離は遠のいてしまう。暗く圧し掛かる気持ちを少しでも外へ出そうと、はぁっと重たい溜息を吐いた。自分の暗く澱んだ心とは裏腹に、今日は雲一つない青空が広がっていた。目を細めて青空に煌々と輝く太陽を見つめ、少しでも気分を晴らしたいと思い、私はすぐに仕度をしてから家を出て行った。
土曜日の昼の時間帯の電車は、意外にも混雑している。出かける人ばかりかと思いきや、出勤する人や部活や試合などで電車に乗っている人もいる。私は仕事用の服を数着買おうと思い、電車に乗り込んだ。ガタンガタンと揺れる電車の車窓から流れる景色を目で追っていたが、その景色は私の瞳には映らない。一度沈んだ気分を浮上させるのは容易なことではないので、私はそのまま無理せず、ただぼんやりと景色を眺めたまま目的地へと向かっていった。
やがて辿り着いたのは百貨店が立ち並ぶ買物スポットだ。そこは日本で一番人がいるのではないかと思うくらい沢山の人がいて、みんなそれぞれ楽しんでいる。私はそのまま足を進め、ウィンドウショッピングをしながら、ただ歩いていた。しかし会社用などと言いながら上の空で買った服は、完全に私服仕様のものだった。チュニックワンピースやフリルがついたミニスカート、あとは可愛らしいリボンがあしらわれたミュールや化粧品などを買って、気がつけば私の肩にはショップバッグが何個も掛かっていた。以前は大人っぽくて敬遠していたショップなどにも社会人になってからようやく足を踏み入れられるようになった。ショップの店員さんはやはり広告塔のようにきちんと自店の服をさらりとカッコよく着こなしていて、それがさらに店に足を踏み入れづらい原因の一つでもある。勿論、今はだいぶ慣れたけれど。いっぱい買い物して結構疲れていた私は、どこかでお茶をしようと思いきょろきょろと辺りを見回した。何処を見てもカップルだらけのカフェにポツンと一人で入る勇気はない。というより、居心地が悪い。その時、ハッと思い出したのはあの喫茶店。渋沢先輩と会った喫茶店は確か裏メニューがあると教えてくれた。あの店に行くには、また電車に乗らなくてはならないけれど、あの店なら落ち着いて休めるかもしれない、そう思った私はそのまま駅に向かい電車に乗り込んだのだった。
電車から降りて目的の店まではそう遠くない。少し歩くとすぐに店は見えてきた。少し遠慮がちに店のドアを開けると、入店を知らせるベルがチリンと心地良い音を奏でた。
「いらっしゃいませ」
マスターの渋い声が私に届く。そして私の顔を見た瞬間、ニコッと笑って「こんにちは、また来てくれたんだね」と声を掛けてくれた。一度しか来ていない筈なのに私を覚えていてくれたということは、渋沢先輩がやはり常連さんだからかもしれない。常連の渋沢先輩と話をしていた私の顔を覚えていてくれたマスターは、凄い人だ。私だったら絶対覚えていない。そんな話をマスターとすると、マスターは商売柄お客さんの顔はよく覚えられるんだと言う。それも一種の特技ではないだろうか? 私は人の顔もすぐに忘れてしまう。……これは特技ではなく、ただ単に覚えが悪いだけだ。席に案内されお冷が入ったグラスとメニューを差し出されると同時に、私はマスターに紅茶のことを訊いてみた。
「マスター、ここには美味しい紅茶があるって聞いてるんですけど」
「……守くんが言ったのかな。何がいいかな。ダージリン、アッサム、アールグレイ……珍しいところではキームンなんかもあるよ。アッサムならミルクティーがおススメだけど」
「色々あるんですねぇ。あの、私はアールグレイが好きなのでアールグレイがいいです」
「かしこまりました。ホットでいいかな? アイスの方が香りは楽しめるけど、作ってなくて」
「いえ、ホットがいいです。お願いします」
「はい、じゃあ少し時間を貰うね」
マスターはそのままカウンターの中に入り紅茶の準備に取り掛かった。勢いよくやかんに水道水を入れて沸かし始めると、やがてぽこぽこと湯が湧き出す。その湯をティーポッとやカップに注ぎ、器を温める。そして沸騰寸前の湯を少々高めの位置から注ぎ入れ、茶葉を蒸らすのに三分ほど置いた。ティーポットの近くには砂時計が置かれていて、しっかり時間を計っていた。ティーポットの紅茶がカップに注がれる。最後の一滴まで残さずに。紅茶は最後の一滴こそ美味しいというけれど、コーヒーの場合は最悪だ。最後の一滴などとても飲めたものではない。やはりマスター、紅茶へのこだわりもしっかり持っているようで、紅茶の入れ方のゴールデンルールはしっかり踏まえていた。やがて私の前に差し出されたティーカップにはほんわりと温かな湯気と良い香りが漂っていた。とても美味しいアールグレイを飲んでいると、少々沈んでいた気分もほっこりと晴れやかになるのが不思議だ。店内にはお客さんがまばらでマスターは気を遣ってくれているのか、私の話し相手になってくれる。渋沢先輩がいつも何を頼んでいるのだとか、どんな時にここを訪れるのだとか。話の内容は他愛ないことばかりだけど、私は優しく包み込むようなマスターの穏やかな口調に耳を傾けて、二人で微笑みながら話をしていた。不思議な人だと、そう思った。マスターとは特に話したりしたことなかったのに、まるで昔から知っている親戚のおじさんと話しているような感覚に陥る。穏やかで優しい、陽だまりのようなマスターの笑顔を見ていると、なぜだか元気を分けてもらえたようだ。沈んでいた気分もじわじわと浮上して、気がつけばいつもの私のテンションに戻っていた。あとは、ちゃんと渋沢先輩に会って謝りたいと思う。会う約束なんかしていないけれど、私は先輩に夜にでも連絡してみようかと、そう思った。
マスターが丁寧に淹れてくれた紅茶に詰まった勇気と優しさをしっかりと受け止め、私は店から元気よく出て行った。店を出てからしばらく歩いていると、とある一角に凄い長蛇の列が目に付く。なんだろうと首を傾げるものの、その列がなんなのかはよくわからないまま通り過ぎようとしていたその時、見知った後姿を発見した私は、思わずその背に向かって駆け出し、その服の裾をぎゅっと掴んだ。
「先輩……!」
どんなに人がいようとも、その後姿を私が見間違うわけがない。それはれっきとした本物の渋沢先輩だ。ぎゅっと掴んだ服の裾、あまりの突然のことで振り向いた渋沢先輩の表情は驚きを隠せないといった顔だった。
「先輩、ごめんなさい! もう内海先輩と食事には行きません! だからっ……!」
「ま、前園さん?」
「私のこと、嫌わないでください……お願いします」
「ちょ、ちょっと待って! あの、そんな僕は君を嫌ったりしないから、あぁ……泣かないで」
渋沢先輩の言葉でようやく気付いた頬に流れる涙。先輩の姿を見つけた時、感極まって思わず流れてしまったのかもしれない。とにかく嫌われたくない、今のポジションのままでもいいから私を嫌わないで欲しいと、そう思った。先輩にとってただの『後輩』という存在でもいいから、切り捨てられるようなことだけはどうしても避けたいと心底思った。目の前には顔を真っ赤にした先輩が、自分のジーンズのポケットをごそごそと漁っているけれど、どうやら何もなかったようで……右手の服の裾をぎゅっと伸ばして袖で私の涙を拭ってくれた。拭いてくれる袖から、渋沢先輩の匂いがする。それは私の心を掻き乱す、それでいてなぜか落ち着かせてくれる不思議な匂いだ。先輩の匂いに包まれていると私は幸せで落ち着けて、でもドキドキして……どう言い表せばわからないけれど、私にとってこの匂いは一番大好きな匂いだということだけははっきりしていた。宥めるように頭を撫でてくれる先輩の顔を見上げると、優しく目を細めて微笑んでくれて、その表情にとてもホッとしている自分も、同じように微笑み返していた。あぁ、やっぱり先輩のことが大好きだなぁ……しみじみ思う瞬間だった。