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26・『特別』

 やがて先輩の掌がそっと私の頭から離れていくと、プッと先輩が吹き出した。私はそれを見て首を傾げると、先輩が部屋から何かを持ってきて私の前に差し出した。それはそう、鏡だ。鏡に映し出された私の頭は、先輩のナデナデによって激しく乱れていた。これを見て笑ったのか……と思ったけれど、先輩が笑ってくれるならなんだってするわ! と何故か強く思ってしまう。別に体を張ってまで笑いを取りたいわけではないのだけれど……それで先輩が笑顔になるならなんだってする。


「ごめんね、やりすぎちゃった」


 くすくすと笑いながら渋沢先輩の指が私の髪の毛に触れる。そして丁寧に髪の毛の乱れを直してくれる先輩の細い指が、私の髪の毛に触れていると思ったら急に緊張してしまった。手を握った事だってあるのに、どうして髪に触れられるだけでこんなに緊張するのだろう。五月蝿いくらい胸の音が高まって、いつしか鼓動ばかりが私の耳に跳ね返る。先輩の指を意識しすぎなのはわかっているけれど、一度意識するとそれを止めるのは難しい。

 子供じゃあるまいし……! これくらいでドキドキしてどうする!?

 そう思うものの、人を好きになるのに子供も社会人も関係ない。好きな人の前ではドキドキするし、いいところばかり見せたいとも思う。特に恋愛経験も豊富ではない私は、些細なことにも反応してしまう。友人の希に言わせれば、そういうところが子供なのだと言うけれど、社会人になったって別に男の人を誘惑するのに慣れている人ばかりではないのだ。「先輩が好きなんです、だから……キスしてください」なんて台詞を言う自分を想像しただけで、恥ずかしくて堪らない。経験豊富なお姉様なら似合うような台詞を私が言えるわけもなくて……告白しようにも、きっとどもって舌を噛むこと間違いないだろう。なんて考えていたら自分が情けなくて涙が出た。とほほ。


「前園さん、これどうぞ」


 少々、自虐的な思考ばかりが巡っていた私の目の前に差し出されたのは、漫画が数冊。それを両手で受け取りまじまじと見ると、その表紙に描かれているイラストはどうやら渋沢先輩が描いたもののようだ。しかもアニメ化されているものの原作のようだ。まだアニメの一話しか観ていないので私にはどんな内容かわからないけれど、主人公は女子高生で元気一杯で素直、でもちょっとドジな女の子だった。元気一杯ボブカットの女の子が表紙に描かれていて、少年漫画とも少女漫画とも少し違うテイストのこの漫画を先輩が描いたなんて、会社じゃ誰一人として気付かないだろう。パラパラとページをめくると先輩の絵がとても上手なことがよくわかる。細かな部分までしっかりと描かれていて、これをアシスタントなしでやっているなんて信じられないくらいだ。きっと、大変だろうなぁ。私にも何か出来ないだろうか? 


「先輩、私もお手伝いしますよ?」

「え? 漫画のこと?」

「はい! ま、まぁ、不器用ですけど……」

「う、う~ん……大丈夫だよ。前園さんはそんなこと手伝わなくてもいいよ。でもありがとう、気持ちだけで十分」

「そうですかぁ……」


 私があまりにもしょんぼりしながら言うものだから、先輩が慌てて言葉を付け加える。その言葉が、私の沈んだ気持ちを一気に浮上させた。


「前園さんは手伝いよりも、いつも笑っててね。僕は前園さんの笑顔が好きだよ」


 心臓が渋沢先輩に射抜かれてしまった。これを音で表すなら『ずっきゅん!』て感じかな? なんというストライクなお言葉を……。もう、私の先輩好き度数は上がりっぱなしで困ってしまう。どくどくと速く打つ心臓を誰か止めて! そう叫びたくなるほど私の鼓動は速まるばかりで、先輩の『好きだよ』という言葉とズルイ笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。きっとこの瞬間を、私は何度も思い出してはにやけるに違いない、そう確信していた。あぁ、今夜は眠れないかもしれない!

 今日は先輩の素顔もちょんまげも見れたし、時間もだいぶ遅いので帰る事にした。結局、ただ先輩の顔が見たいというだけで、勝手に突っ走って押しかけてしまったので少々悪い気はしたけれど、来て良かったと思える。こんな先輩を見るのは初めてだし、何より私にだけ漫画家さんだという新事実を打ち明けてくれたことが嬉しくて仕方がない。『特別』という響きが私をうっとりさせてしまう。こういう言葉に弱い私は、自分はまるで先輩にとって特別な女のような気がしてしまった。別に先輩と付き合っているわけでもないのに、こんなこと思っちゃいけないんだろうけど……少しくらい優越感を感じてもいいよね? 先輩の前で終始笑顔を崩さずに私は玄関まで降りていった。


「じゃあ、遅い時間にすみませんでした」

「本当は送ってあげたいんだけど……ごめんね。仕事がまだ終わってなくて」

「ダッシュで帰りますから大丈夫ですよ。それと、前にいただいたお弁当、凄く美味しかったです」

「口に合ったなら良かった。今度は一緒に食べようね」


 にっこりと笑顔で食事のお誘いを受け、天に昇ってしまいそうな気持ちを抑えるのが大変だった。気がつくと私は鼻歌なんか歌いながらスキップを踏んでは、時々喜びのあまりジャンプまでしていたのだ。かなり浮かれていた私は、先輩の家に来るまでの道のりに何があったのか忘れてしまっていた。真っ暗な裏道は避けようと思っていたのに、嬉しい事が多すぎて背後に響く足音のことはすっかり頭から抜けていたようだ。何も考えずに裏道から迷いなく帰宅する私の背後に、再び行きと同じ足音が響いているなんて気付かずにいた。

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