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25・母思い

 しばらく続く沈黙の中、ようやく渋沢先輩の重い口が開き始めた。何をどう切り出すのか迷っているようで、しばらく考え込んでいた先輩が口を開くと同時に腕をぐいっと捉まれる。


「来て」

「えっ、ちょっと先輩、待ってください!」


 玄関で靴を揃える猶予も与えられず、ばらばらと放られた靴を残して私は渋沢先輩に連れられて、二階への階段を昇っていた。渋沢先輩の背中は何も語らないけれど、何か隠していることを私に打ち明けようとしていることだけは確かだ。その背中に何も語りかけずに黙ってついていくと、二階の以前は客間か何かだと思っていた部屋へと連れ込まれた。しかしそこは客間なんかではなく、目の前に広がっているこの光景は初めて見る作業部屋のようだった。そして部屋には翠ちゃんが驚いた表情で私を見上げている。翠ちゃんの手には何かが描かれている紙がある。それは紛れもなく漫画だった。


「……これ、もしかして先輩の漫画……」

「もう隠しても仕方ないでしょ。君にだけ、特別に見せようと思ったから」

「私にだけ?」

「うん、恥ずかしいから隠してたんだけどね……」


 照れた横顔が私に何枚かの紙を差し出すと、そこに広がっていたのは完成した原稿だった。そしてその原稿に広げられた世界はとても美しくしなやかなイラストが描かれている。その時、ふと思った事があった。なんとなく、この絵に見覚えがあったのだ。


「あれ? この絵……なんとなく知ってる気がしますけど……ん?」

「もしかして、深夜にアニメとか観た?」

「そうだ! 観ました、深夜にテレビを点けたらたまたま第一話のアニメが放送されて……て、もしかしてそれって渋沢先輩の!?」

「……デビューはだいぶ前にしていたんだけど、二年位前に賞を頂いてからすぐにアニメ化の話を貰ってね。それが正式に決まった時に会社を辞めるつもりだったんだけど」

「そうだったんですか、でも会社はまだ辞めないんですか?」

「……辞めるのは簡単だけど、今はまだもうちょっとだけ」


 含みのある笑みを浮かべて微笑む渋沢先輩は、可愛らしいけどどこか凛々しい。誇れるものがあるからだろうか、今まで以上に素敵に見えてしまう。しかし、会社と漫画の仕事の両立なんて大変だろうなぁと思い、先輩の体が心配になった。この前残業を手伝わせてしまった時も、きっと漫画の仕事があったのではないだろうか。そう思ったらどれほど先輩に負担を負わせてしまったのだろうと、私は少し後悔してしまった。まぁ後悔しても仕方ないし、あの時は本当に嬉しかったし……怖かったけどね。

 先輩の作業部屋では、作業を終えた翠ちゃんがうーんと大きな伸びをした。机に向かって黙々と作業を進めてきたのだろう、すっかりお疲れのご様子だ。


「翠ちゃん、大丈夫?」

「いつものことだから大丈夫。お兄ちゃんったら自分の顔が割れるのが嫌だからってアシスタント雇ってくれないんだもん……」

「え? そうなの?」

「うん。まぁ、仕方ないけどね」


 ちらりと翠ちゃんが渋沢先輩を見ると、先輩はバツの悪そうな顔をしつつも反撃をした。


「ちゃんとバイト代払ってるだろ? それにアシスタントなんか雇ったら、どこから僕が描いてることがバレるかわからないんだから」

「はいはい……」


 翠ちゃんは呆れながら席を立ち、そのまま部屋を出て行った。部屋の中には先輩と私の二人だけが取り残され、どうしようか迷った末に先輩に訊いてみることにした。


「先輩はどうして自分が漫画を描いていることを隠すんですか?」

「それはね」

「はい」

「……実はうちの母が、大の漫画嫌いだから。部長からも聞いたと思うけど、僕の両親は離婚してから母がずっと僕を女で一人で育ててくれたんだ。そんな母の苦労している姿を見てきたから、母に苦痛を与えたくなくて、ずっと言えずにいる」


 先輩の母思いの一面と、自分の夢である漫画家という職につき嬉しくて堪らないはずなのに、それを大切な母親に打ち明けられずにいる苦しい先輩の一面、そんな先輩を見つめていると少しだけはにかんだように笑った先輩が私の頭を撫でた。きっと私の表情から考えていたことを読み取ったのだろう。決して同情したわけではないけれど、先輩が自分を誇れるものを手に入れたというのに母親に打ち明けられない苦しみを想像したら涙が出そうだった。ただ、悲しませたくない。その思いがあるからこそ自分が描いた作品だと公にできない、それはとても辛いことかもしれない。


「私、ちゃんと秘密にしますからっ」


 いつも以上に声を大きく出して先輩にそう宣言すると、きょとんとした先輩の表情がふいに柔らかくなった。そのまま渋沢先輩の掌が頭にぽんっと乗せられてくしゃくしゃと撫でられると、私は肩を竦めて先輩のナデナデを受け入れた。しかしその掌の動きはいつまでたっても終わらない。肩を竦めて目を瞑っていた私は少しずつ目を開けると、先輩の顔は赤くなっていた。なぜ照れる? と疑問に思ったけれど、ちょんまげ裸眼の先輩のテレ顔は可愛らしくて、何も言わずにもう少しだけその顔を見ていたいなぁと思ってしまう。あぁ、可愛い渋沢先輩。私もそのちょんまげ、撫でてもいいですか? 先輩の掌の動きに合わせて、頭上のちょんまげがゆるゆると揺れていた。

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