24・ちょんまげ
一旦家に戻ってからお重を手にして家を飛び出した。でも、ちゃんと身だしなみだけは整えていくのは、やっぱり好きな人の前では綺麗でいたいから。簡単ながら化粧直しもしたし、食べた後だったので歯も磨いた。そして、髪を梳かして仕上げに笑顔を鏡の前で作ってみせる。これで大丈夫だ! と気分よく出て行ったのだ。渋沢先輩の家までの距離は大したことはないけれど、人通りが少ない道なので少々夜道を一人で歩くのは怖い。とはいえ、大通りに出ると先輩の家は遠回りになってしまう。遠回りを選ぶか、近道をして先輩に一刻も早く会いに行くか……二者択一だけど、ここはやっぱり早く会いたいという気持ちが募っていたので、近道の薄暗い人通り少ない道を選ぶことにした。
「さすがにちょっと怖いな……」
走ってる間もなんとなく暗闇の恐怖感が拭えなくて、何度も背後を確認してしまう。住宅街だというのに街灯がポツンポツンと灯っているだけで、裏道のせいか人通りも少ないし余計に暗く感じてしまう。暗闇を振り切るように走っていると後ろから足音が聞こえてきた。私の他にも誰か走ってる人がいるんだ、と思って安心して歩調を緩めると背後から聞こえてきた足音も同じように歩調を緩めた。なんとなく不信感を抱き足を止めてみると、背後の足音も同じく止まる。
これは……私の後をつけてきてる……?
言いようのない恐怖感に襲われて、私はすぐさま走り出した。すると背後の靴音も同じように音を立てて走ってくる。正体もわからない相手に追いかけられる恐怖は、私の思考回路を混乱させてしまうくらい怖くて、それでも足を止めたらいけないような気がして、とにかく夢中で走って走って……すると渋沢先輩の家が見えてきて私は門扉にあるインターフォンを押さずに、そのまま門の中に滑り込んでそのまま身を潜めた。カツカツと夜道に響く靴音が何かを探すように不規則な音を立て、やがてその音は少しずつ遠のいていった。
……こ、怖かった……
ドクドクと心臓が破裂しそうなくらい五月蝿く鳴っているので、胸に手を当ててそっと息を漏らす。相当緊張していたのだろう、掌にはじんわりと汗が滲んでいる。私はその掌をぎゅっと握って渋沢先輩の玄関のインターフォンを鳴らした。
「はーい、え!? 香澄ちゃん!?」
「樹くん……こんばんは」
樹くんの顔を見て、ようやくホッとした。知っている顔が目の前にあることで私の緊張も少しずつ解けていくのがわかる。そのあからさまな私の様子に樹くんが眉をひそめて私を見た。
「……どうしたの? なんかあった?」
「あ、えーと……走ったから疲れちゃって」
なんとなく誰かにつけられていたような気がしたことは、伏せておいた。きっと心配かけてしまうのではないかと思い、なんとなくこのことは言えなかったのだ。変に心配させて勘違いでしたじゃ、ただの自意識過剰になってしまうし、それじゃちょっと恥ずかしいから。だから私はにっこり笑って平静を装い、手元にあるお重を樹くんに手渡した。
「これ、お重返すの忘れてて……お兄さんはいる?」
「あ、えっと兄ちゃんは……その……」
樹くんが何となく言いよどんでいると、二階から渋沢先輩の声が聞こえてきた。それと同時に渋沢先輩が下に降りてきて、私の姿を見て目を見開いた。それと同時に目を見開いたのは私も同じ。だって渋沢先輩は長袖のTシャツにジャージのズボンを履いて、しかも頭には長めの前髪が邪魔だったのか、てっぺんにちょんまげが。そして何より先輩は眼鏡を外していた。
「ななななんで!? 前園さんがここに!?」
「あの、えっと……お、お重を返しにきたんですっ!」
「あ、ああ……お、お重ね! そっか、えっとこれはその」
「先輩、可愛いですね! ちょんまげ!」
そう言うと先輩の手がちょんまげを隠し、顔がカーッと赤くなった。プライベートな姿を晒してしまったのが恥ずかしかったのかもしれない。でも、私はそんな先輩の姿を見る事ができて、ラッキー! と不謹慎なことを思ってしまった。それにしても渋沢先輩、何をしていたのだろうか。随分と袖が黒く汚れていて、何かの作業中だったのか少しお疲れの様子だ。
「先輩、何か作業中でしたか?」
「え!? な、なんで?」
「なんか疲れてるみたいだし、しかもなんか汚れてるし」
「えっと、これは」
「あ、もしかしてお掃除中でしたか?」
「そ、そう! 大掃除中だった!」
「じゃあ、私も手伝いましょうか?」
「いや、もう終わるから気にしないで!」
……アヤシイ。絶対掃除じゃないことだけは確かだ。あの焦りようは、絶対に何かを隠している。私が怪しんでいたその時、二階から妹の翠ちゃんの声が大きく渋沢先輩へと向けられた。
「お兄ちゃーん、ベタ終わったよー!」
「ば、馬鹿……!」
渋沢先輩の慌てふためいた声に私は首を傾げた。今聞こえたのは確かに「ベタ」という単語、その単語はもしかして、もしかして……
「先輩って……漫画描いてるんですか?」
「う……」
真っ赤に染まった先輩の顔は、明らかにその事実を裏付けていた。耳まで真っ赤で凄く恥ずかしそうに顔を背けている姿は可愛らしいけど、同時にちょっとだけ困らせてしまって悪かったなぁという罪悪感も私の中に芽生えていた。本当は言いたくないのかもしれないけれど、先輩が漫画を描いているということは漫画で成功したら会社を辞めるつもりなのだろうか。それならアルバイトじゃなくても正社員でも漫画は描けるだろうし……一体なぜ? 渋沢先輩は一つ溜息を吐き、深呼吸してから私を真っ直ぐ見つめた。吸い込まれそうな真っ黒な瞳が、真っ直ぐに私を捉えるから私もその視線から外れることはできず、ただただ、渋沢先輩が次に紡ぐ言葉を待っていた。しかし口を開くものの言葉は発することはなく、パクパクと金魚のように先輩が口を動かすばかり。渋沢家の玄関に、静かな時間だけがしばらくの間流れることになった……。