23・走れ!私!
内海先輩の口から次の言葉が出てくるのを、固唾を呑んで見守っていた私。すると内海先輩は昔を思い出すように遠くを見ながら話し出した。
「俺と彼女は高校一年の時から付き合っていたんだけど、受験の時にちょっと喧嘩ばかりの状態が続いてね。その頃からか、彼女は俺と一緒にいるより渋沢と一緒にいる時間の方が長くなって……受験当日、渋沢に言われたんだ。『彼女は僕が貰うから』ってね」
「そんな……」
「まぁ、仕方ないかもしれない。俺達は喧嘩ばかり、渋沢は彼女を守るように寄り添っていたわけだから。……でも、ショックだった」
聞いてる私の方がショックだった。
渋沢先輩が内海先輩の彼女を奪ったなんて。頭の中は真っ白になってしまいそうなほど、強いショックを感じていた。それでも、私は内海先輩の言葉を何処かで否定していた。渋沢先輩に限ってそんなことはない! そう思っていたけれど、もやもやと胸の中に何かが疼いて仕方がない。こんな話を聞きたくて内海先輩と食事に来たわけじゃないのに……。それでもこれは過去の話だ。今の先輩は絶対にそんなことしないはず。私は内海先輩の顔を見て、強い口調ではっきりと言った。
「渋沢先輩は、そんな人じゃないです。誠実で、真っ直ぐで……優しい方です」
「そう、香澄ちゃんはそう思ってるんだね。君はそれでいいと思うよ」
「は、はい……」
「俺は許すつもりはないけどね」
刺々しい内海先輩の言い方に、胸がズキリと痛む。内海先輩の話だけを信じると、渋沢先輩が無理矢理彼女を奪ったような言い方にしか聞こえない。でも、渋沢先輩はきっとそんなことしない。女性に不慣れで、フェミニストで、照れ屋の先輩が人の彼女を奪うようなことをするなんて、信じられない。渋沢先輩の言葉で、その真実を知りたい……過去のことをどうこう言っても仕方がないけれど、気になっているのは確かだ。でも、それを切り出すということは、今日のことを先輩に言わなくてはならなくなる。内海先輩の誘いは断ってとテレながらも言ってくれた先輩の言葉を裏切ったのは私だ。
あの夜の、渋沢先輩の表情が浮かんでくる。手を繋いで駅まで歩いたオフィス街で、真っ赤になりつつもグッと二人の距離が近づいたかに思えたあの時間。電車でも一所懸命私を庇うように立ってくれたこと。思い出すと、今どうして私はここにいるのか、どうして渋沢先輩のいないところで先輩の過去の話などしているのか、そう思ったら、途端にここが居心地の悪いものに変わっていく。
……私、何してるんだろう
目の前に出されたパスタからは温かな湯気が立ち上り、美味しそうなトマトの香りが食欲をそそる。それなのに、私の食欲は湧くどころか本当にお腹が空いているのかさえわからなくなってきた。キャンドルの炎がテーブルをオレンジに染め、料理もますます美味しそうに見えるはずなのに、私の目には全てがモノクロに見えてしまう。理由はわかっていた。先輩の過去を勝手に探って過去の先輩に勝手に幻滅して……そんなことしても仕方がないってわかっているのに。だって私が好きになったのは、今の渋沢先輩なのだから。
もっと正面からぶつかっていけばいいじゃない! うじうじして、こんなのちっとも私らしくない!
あまりにも自分らしくないと思い、気がつけば席を立って内海先輩にお辞儀していた。
「ごめんなさい! 私もう帰ります。これ、お金置いておきますから、失礼しました!」
「ちょ、ちょっと、香澄ちゃん!?」
「先輩ごめんなさい!」
内海先輩には申し訳ないと思ったけれど、私はもうこそこそと渋沢先輩の過去を探りたいとは思わない。知らなければ訊けばいい、話したくないと拒絶されたら諦めるか話してくれるまで待てばいい、それくらいできないでどうするの! 私の気持ちは唯一つ、渋沢先輩を信じたい。それだけだ。
内海先輩を置いて店を出てから、私はひたすら駅まで走り電車に駆け込んだ。息切れしているのでその呼吸を整えようと、電車の中でひっそりと深呼吸をしながら最寄り駅まで電車は進む。最寄り駅までの電車の中で、私が思っていたことは一つだけ。
渋沢先輩に会いたい
色々な感情が入り混じった中で、一つだけストンと胸に落ちてきた純粋な私の気持ち。とにかく会いたい、冷たくあしらわれてもいい。その気持ちだけが私を走らせていた。でも、ただ先輩の家に行っても……そう思った私は、先日頂いたお重を思い出した。返そうと思ったままずっと家に綺麗に包みなおして置いてある先輩のお重、あれを返しに行こう! と、理由をつけて先輩の家に向かって行った。星の瞬く夜空の下、渋沢先輩の家に向かう。
渋沢先輩の笑顔が見られるといいなぁ、と思いながら軽快に走る私の足音が、軽やかに響いていた。




