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19・苺ミルク

 夜のオフィスに二人きり……そんなシチュエーションに気付いた時、私の鼓動が少しずつ高まっていった。ドキドキと早鐘を打つように、でも、それは嫌な響きではない。何かを期待している私の気持ちと比例するように高まる胸の音が、渋沢先輩に聴こえてしまうのではないかと気が気ではないけれど、私の目の前でお腹を抱えて笑っている先輩があまりにも無邪気に笑うので、私も一緒になって笑っていた。静かなオフィスに響く二人の笑い声、やがてそれも少しずつ収まり、元の静寂を取り戻していくと、先輩に私は遠慮がちに訊いてみた。


「先輩、どうしてここへ?」


 すると先輩は私の顔を見ずに、明後日の方向を見ながら頭を掻いて言い難そうに口をもごもごさせている。見ると先輩の頬はほんのり赤らんでいて、私の期待はますます高まってく。

 私を心配して……来てくれたのかな。

 先輩の言葉を今か今かと待ちわびていると、先輩がようやく言葉を紡ぎ始めた。それは、私の期待を裏切らない、優しい先輩の気持ちの形。


「……まだ家に帰ってないみたいだったから、様子を見に」


 わざわざ家に確認までしに行ってくれたのだろうか、それとも明かりが灯っていない窓を見て、心配してくれたのだろうか。それを訊きたかったけれど、そんな過程よりもここに心配して来てくれた事実の方が私には喜びを与えてくれた。誰もいないオフィスで残業している寂しさ、自分を奮い立たせながら黙々と仕事を続けてきた、そんな私への神様からの御褒美のような気がして仕方がない。次第に自分の顔がほころんでいくのがわかり、それは笑顔に変わっていった。小さな幸せがいくつも先輩から貰える、それが嬉しくて残業の疲れなど吹っ飛びそうだ。飲みかけのカフェオレをぐびっと一気に喉に流し、空になったカップをゴミ箱へ捨てた。そして先輩にお礼を言う。


「ありがとうございます。やっぱり渋沢先輩は優しいな……」


 素直にお礼を言うのは少し恥ずかしかったけれど、本心を隠すのは性に合わない。素直すぎる言葉は、もしかしたら先輩を困らせてしまうだけかもしれない。けれど、これが私。好きな人の前では素直でありたい、それは曲げられない。

 『好きな人』、先輩をそう意識したのはいつ頃だったのだろうか。自分でも気付かないうちに渋沢先輩を目で追いかけていた。好きになるのに時間は関係ないって何かで読んだ事があったけど、その言葉は本当なんだなぁと思える。だって渋沢先輩のことなんて本当に興味もなかったし、存在すら確認することはなかったのに。あの飲み会の日から、心のどこかで先輩のことを好きになっていたのかもしれない。意識すると、ちょっと照れるけど……やっぱり私の為に来てくれたことは凄く嬉しかった。


「ざ、残業はもう終わったの?」


 微妙な雰囲気になってしまった私達の空気を換えるように、渋沢先輩が口を開いた。その言葉に私は少々固まってしまったけれど、ごにょごにょっと小さな声で呟き返す。


「じ、実は……あと少しだけ残ってます」


 すると、先輩の表情がみるみる固まり……腕時計を見つめてから少し考え出した。そしてこちらを向いた先輩の表情は、すっかり仕事モードになっている。


「やるよ。一時間で終わらそう」

「い、一時間!?」

「僕も手伝うから、デスクに戻ろう」

「は……はい!」


 半ば強制的だが、先輩の仕事モードを打ち砕くことは出来なそうだ。そのまま二人で足早に部署に戻り、先輩に残業を手伝ってもらうことにした。しかし、仕事モードの先輩は怖かった。何度も何度も怒られて、あれはダメ、これはダメ。頭がくらくらになるほど、仕事のやり方や進め方の指導を受け、残りの仕事を仕上げた頃にはもう、へろへろだった。しかも本当に一時間で仕上げたという先輩の力量には、感服した。一切無駄がない仕事のやり方に、私は溜息しか出てこない。やり方一つでこんなにも一つの仕事に割く時間が変わるという事を知り、また一つ勉強になった。


「これで少しは早く仕事ができるようになるかな」

「はい、先輩のお陰です!」

「……熱心な後輩で嬉しいよ」


 家にあった予備の眼鏡を掛けている先輩が、くいっと指先で眼鏡を押す。そのストックの眼鏡も、前のと同じ瓶底眼鏡……。今日私が買ってきた百円の眼鏡、あれも十分似合っていたけれど、この眼鏡の方がしっくりくるのかな。確かに、普通の眼鏡より瓶底の方が先輩に群れる野獣が少なそうで、私も少しだけホッとできるかもしれないけど。いつか、素顔の先輩とデートとかしてみたいな。


「なーんてねっ!」

「何が『なーんてね』なの?」

「あ……」

 

 先輩が私を不思議そうに見ている。それもそうだろう。まさか自分の妄想にツッコミを入れたなんていえるわけがない。しかも『なーんてねっ』なんて、なんて馬鹿なことを私はしてしまったのだろう。変なヤツって思われたら悲しすぎる。でも先輩はそんなこと言わずに私に笑顔を向け、優しく頭を撫でてくれた。そしてポケットから何かを取り出し、私の掌にポンとそれを置く。私の掌に置かれたのは可愛らしい小さな飴玉だ。


「頑張った御褒美ね。疲れたでしょ? 甘い物食べて疲れをとってね」


 掌に乗せられた飴玉は苺の柄の可愛い紙に包まれていて、なんだか先輩らしいなぁと思ったら、ふっと笑みが零れてしまった。可愛らしい先輩、だけどとても頼りになる自慢の先輩だ。いつか先輩が私を後輩としてではなく、一人の女性としてみてくれたら……なんて、夢みたいなことを思わずにはいられない。先輩にとって、私が一番近い存在になれる日を願ってもいいでしょうか?

 苺柄の包みを剥がし、中から出てきた桃色の飴玉。口に入れると甘くて優しい苺ミルクの味がする。苺ミルクは私の心を優しく包み込む、それはまるで先輩のよう。

 あたたかな気持ちにしてくれた先輩からの苺ミルクの飴玉、その包み紙は大事にポケットにしまって手帳に貼っておこうと思う。いつ見ても、今日の苺ミルク色の思い出が甦るように。

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