18・深夜残業
「あぁ、ご苦労だったな」
部長室に入った時の開口一番にそう言われた。部長が資料探しを手伝ってくれと言ったのに、肝心の資料を忘れていくとは何事か。私一人にこの大量の資料を持たせようというのだろうか。しかし、相手は部長。そんな文句は言えるわけもない。それでも少しだけ……。
「渋沢先輩がこの重い資料を半分運んでくださいましたから平気です」
あくまでも笑顔で部長に返すと、部長は豪快に「すまんな」と、ひと言だけ詫びた。まぁ、部長が去ってくれたお陰で、渋沢先輩と思いがけず二人きりの時間を過ごせたからよしとするけど。すると突然、部長は渋沢先輩の顔を見て、「あ」と小さく声をあげた。
「お前の眼鏡、どうしたんだ? 瓶底はどうした」
「瓶底って……あれは、さっきの地震で階段から落ちてしまったので、割れてしまったんですよ」
「お前は眼鏡ない方がいいのになぁ。前園もそう思うだろ?」
部長に急に話を振られて、私はあわあわしてしまう。確かにあの瓶底はいただけないと思ってはいたけれど、素顔の先輩をこの部署に放るのはちょっと嫌だ。いつか誰かに食われてしまうなんて内心それが心配だったから。
「私は別に、前の眼鏡でもいいと思いますけど?」
「お? なんだ……渋沢も隅に置けないな。前園といい関係なのか?」
好奇心剥き出しのニヤニヤ顔を向ける部長に、渋沢先輩がちくりと刺した。
「部長、今は仕事中ですよ。そんな話をしている暇はありませんから。では、僕は失礼します」
ピシャリと部長に言って、すぐに部長室を出て行く先輩。その様子を見て、部長が溜息を吐きながら頭をぽりぽりと掻いた。部長にとって渋沢先輩は子供のような存在だと資料室で言っていたけれど、渋沢先輩は部長に対してあまりにもそっけない。そんな姿を見て、部長も静かに口を開いた。
「……前から感じていたけど、アイツは随分人に対して心を閉ざしている気がするなぁ。仕事を始めたばかりの頃はそうでもなかったのに」
「それって明るかったということでしょうか?」
「まぁな。結構人当たりも良かったし、今みたいに眼鏡もかけてなかった。アイツの素顔、なかなか可愛いだろ? 人気あったのになぁ……まぁ、三ヶ月くらいであの状態になったけどな」
「に、人気あったんですか……」
「気になるのか? 守のこと」
「き、気になんかしてませんっ! 失礼します!」
図星をつかれて私はその場から逃げるように出て行った。背後では部長がくっくっと笑いを堪える声が聞こえてきたけれど、私はそれを無視して自分のデスクのPCに目を向けた。するとデスクには新しく仕事が詰まれていて、それを見る限り、今日は残業の時間もかなり長くかかりそうだ。その詰まれた資料を見ていたら、後ろから女性社員の先輩である花村真代さんがくすっと笑いながら私にこそこそっと耳打ちをしてくる。
「……悪いけど、それもお願いね。いいわよね?」
「は、はい……」
「ありがと。今度何か驕るわ」
花村さんは無駄に色気がある女性社員で、こうしてよく私に仕事を押し付ける。本来任された仕事は本人がこなすべきなのだろうけど、先輩社員の花村さんには何も言い返すことができない。何より彼女の言葉には否定してはいけないような、そんな強さがある。囁きが武器だなんて卑怯だわ! と思いつつも言い返せないので仕方なく仕事の続きに取り掛かることにした。すっかり仕事を押し付けられてしまったけれど、今日は他にも残業があるのに……仕方がない。一つだけ、小さく溜息を零して少しでも早く仕事が終わるように、データを集めつつまとめ始めた。
就業時間は午後五時半。外回りの営業の方も一度社に戻ってきて五時半には席を立つ。勿論、直帰する社員もいるけれど、今日は殆どの外回りが社に戻ってきていた。そして、私達事務の社員も、パラパラと帰っていく。何人もの人に「お疲れ」と言われたけれど、皆「手伝うよ」とは言ってくれない。友達の何人かは「手伝おうか?」と聞いてくれたけれど、私はそれを丁寧に断った。仕事が終わってから、皆に予定があるのを知っているから。友人の大半は彼氏と会うとか、合コンだとか、飲みに行くだとか……アフター5を皆めい一杯楽しんでいる。限られた時間で楽しむのに、残業を押し付けるわけには行かない。変なところで私は強情なので、誰にも「手伝って」のひと言が言えずにいた。ふと渋沢先輩のデスクを見ると、そこにはすでに先輩の姿はなくて、何も言わずにさっくり帰ってしまったようだ。主のいないその席を見ていると、なんだかさっきまで密着していたことが夢のように思えて仕方がない。少しの寂しさを胸に抱えながらも、私は手元にある仕事に取り掛かると、そんな私の目の前を内海先輩が沢山の女性社員に囲まれて通っていった。内海先輩は少しだけこちらに目線をやり、小さく微笑むので、私も小さく会釈を返す。きゃいきゃいと騒ぐ女性社員たちの声がたちまち小さくなっていくと、部署内には私以外に、ほんの少しの人数だけが残る形になっていた。
「今日、帰れるのかなー……」
ぽりぽりと頬を掻きながら山積みになった仕事を横目に見ると、もう溜息しか出てこない。なんと憂鬱な時間なのだろうか。ポツリポツリと社員が消えていく部署内には、もう私以外の誰もいない。寂しく一人で仕事をする姿が窓に映っているのに気付くと、なんだか切なくなってしまった。しばらく仕事を続けていてようやく仕事が一区切りした頃、私はなんとなくオフィス内の窓に目を向ける。窓の外はキラキラとネオンが煌き、それとは反対にオフィスの電気は少しずつ消えていく。そんな夜景を少しだけ眺め、気分転換にオフィスの下の階にある自動販売機へとカフェオレを買いに出ることにした。
ほんのり甘めのカフェオレを口にすると、じんわりとそのぬくもりが体の中を流れていくのがわかる。そしてこの甘さが私の心を軽くしてくれるのだ。白い湯気が立つカフェオレのカップを両手で持ちながら少しずつ飲んでいくと、次第に気分は晴れやかになり仕事への意欲も湧いてくるから不思議だ。
「よしっ! 終わらせるぞ!」
自分に気合を入れ、拳を高々と掲げると、後ろからプッと笑い声が。おそるおそる後ろを見ると、そこにいたのは帰ったはずの渋沢先輩の姿があった。私は今の独り言とガッツポーズを見られたことに恥ずかしさを感じながらも、どうして帰ったはずの先輩がここにいるのか不思議で目を見開いた。
「せせせ先輩!? どうしたんですか、こんな時間に」
動揺を隠せない私の声が、深夜のオフィスに響いている。今はもう、夜の十時。就業時間と共に帰ったはずの先輩がここにいることに驚きを隠せずに、どもりながらも先輩に聞いてみた。すると先輩は相変わらず笑ったままで、お腹を抱えている。そんなにおかしなことを言った覚えはないんだけど……それでも先輩が笑っているので、私もつられて笑ってしまった。深夜に響く、私と渋沢先輩の笑い声。なんでここに先輩がいるのかはわからないけれど、それでも私のところに先輩が来てくれたことで、じんわりと胸の奥が熱くなる。そんな瞬間だった。