17・時間よ、戻れ!
「うーん……眼鏡がないと落ち着かないなぁ」
先輩は眼鏡がない素顔の状態が気に入らないらしい。それは私だって一緒だ。先輩の素顔を見られるのは嬉しいけれど、なんだろう、他の人には見せたくないという一種の独占欲のような気持ちが芽生えていた。先輩の眼鏡の下の素顔が実はとても可愛らしいなんて部署の女先輩達に知れたら、たちまち渋沢先輩の周りに色気を飛ばしながら集まる光景が目に浮かんだ。
……それだけは……絶対に阻止!
変な嫉妬が私の心に巻きついて、このままの状態で先輩を部署に絶対帰したくないと思ってしまった。だから私はちょっと強めの口調で、先輩をこの場に留めることにした。
「先輩! 眼鏡、他にも持ってますか!?」
「えっと、家になら」
「ダメです! 家じゃダメです!」
「どういうこと? まぁ、眼鏡はなくても仕事はできるよ。あれは度が入ってないから」
「え!? じゃあ、先輩は目が悪いわけじゃ……」
「うん。実は全然悪くないんだよ」
これはチャンスだ! そう思ったのと同時に、じゃあなんで眼鏡なんてしているのだろうという疑問もあったけれど、素顔をみんなに晒されるのは嫌なのでここは考えないことにした。
度が入っていないのなら、百均で買ってくればいいじゃない! そう私は考えたのだ。会社の近くには大きめの百円均一の店があり、走ればすぐに着く距離だ。先輩の腕をがしっと掴み、私は脅すように先輩に言い放った。
「先輩、いいですか。私が眼鏡を調達してきますから、絶対に! ここから動かないでくださいね?」
「……何、その迫力」
「いいですね!?」
「う、うん……わかった」
これは脅しかもしれない。でも嫌だったんだ、先輩の素顔を見られるのが。その可愛い素顔を知っているのは私だけがいい。会社では今まで通りの地味な瓶底眼鏡の先輩でいて欲しい。だから私は会社から抜け出して、近くにある百均のお店に駆け込んだのだ。そして手に入れたのは黒縁眼鏡。先輩が掛けていたような瓶底のレンズはなかったけれど、これで素顔は隠せる筈! そう思った私。しかし現実は甘かった……。
仮の眼鏡を手にした私は急いで会社に戻り先輩の待っている場所へと急ぐと、先輩は約束通りちゃんと階段で待っててくれた。全速力で走ったので私の呼吸はまだまだ乱れていたが、ひとまず先輩に買ってきた眼鏡を差し出した。
「安物ですけど、今日はこれで過ごしてください」
「うん、ありがとう。なんか悪かったね」
「いえいえ」
とんでもない! 私が嫌だったんですよ、先輩の素顔を晒すのが。と、心の中で付け足した。しかし、しかしですよ? 安物の眼鏡が先輩の男度を上げてしまっているではないですか! なんだかますますカッコよくなってしまったような……。その姿は、まさに私にはどストライクな容姿で思わず鼻血が出そうだった。
「うん、やっぱり落ち着くな。……あれ、変かな」
「……うぅ、野獣の中に仔猫を放つ気分ですぅ」
「前園さんは、何を言ってるの? ほら、行くよ。部長も心配しているだろうし」
「……はい」
憂鬱な日になりそうだ。このまま部署に戻ったら、部署内が騒然とするのは目に見えていた。それを考えると頭が痛くなる。ちょっとだけ憂鬱な私が資料を持ち上げると、渋沢先輩がそれをひょいっと横から全部取り上げた。資料を持った先輩はにっこりと微笑んでいる。
「いいよ、僕が持っていくから」
「でも、それは私が言われた仕事ですよ?」
「探すのが君の仕事。持って行けとは言われてないでしょ。女の子は重いもの持たないほうがいいよ。こういうのは男の仕事だからって……結構重いなぁ」
「じゃあ、半分こしましょう。それならいいですよね?」
「……うん。そうしようか」
先輩と半分こ。それだけで資料はさっきよりも随分軽くなった。そして、また近づいた先輩はやっぱり優しい。でも、なんで急に冷たくなったりするのだろうか。私が傍にいて邪魔なのかと思ったけれど、そうではないと確信した。邪魔ならば、今この場でも邪険するだろう。でも、今の先輩は凄く優しい。部署に戻るまでずっと優しい口調で話す先輩、そして笑みを絶やさない姿を見ると、気がつけば私の心はじんわりと温まっていく。こんな優しい時間がずっと続けばいいのにな。
しかし、そんな優しい時間が長く続くわけはなく、部署に戻ったら社員のざわめきが凄かった。先輩の眼鏡チェンジ効果はどうやら絶大のようだ。正直、あんな瓶底眼鏡よりも百均で買った激安眼鏡の方が男度はグンと上がる。全体的に普通の男性よりは小さいしひょろりとしているけれど、顔はそこそこ、いや、かなりカッコよく見える。資料を一緒に持って部長室まで運ぶ間も、社員の視線は容赦なく先輩に注がれる。許されるなら、こんな資料は投げ出して先輩の前に立ち、みんなの視線を防ぎたいくらいだ。気持ちはすでに先輩のナイト……。普通は逆なんだろうけど、この時の私はどうやって渋沢先輩を守ろうかと、そればかり考えていた。
「……な、なんか、みんな君を見ているけど……なんかしたの?」
先輩がひそひそ声で私にこんなことを言ってきて、私は呆れてしまった。この突き刺すような視線を自分の身に感じないのだろうか。どうすれば私にこの視線が注がれていると勘違いできるのだろうか。先輩の天然っぷりは凄い。天然……それはちょっとだけ罪な気がする。先輩がモテてしまったらどうしよう!? こんなことばかり考えてしまっていて、私は気が気じゃなかった。きっと今日は一日中、こんなどんよりした気持ちのまま過ごすことになるのだろうなぁ。あぁ、できれば資料室の帰りの階段での時間に戻ってくれると嬉しいなぁ。……ダメですか? 神様!