表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/50

16・密着

 先輩と地下の喫煙所に二人きり。ここは社内でも人があまり来ないところだ。強いて言うなら、休憩中の喫煙者が集うだけの場所とも言える。資料室には古いデータのみが収容されていて必要なデータはほぼPCで閲覧できるように移されているので、使用者が殆どいない。それでも、部長のように隅々まで確認したい人には、この資料室は重宝しているのだろう。そんな資料室の必要なものだけを拝借して、部長はそれを忘れて部署に戻ってしまったわけで……分厚い資料データが私の横に残されていた。そして、目の前には私に背を向けている渋沢先輩は、まだこちらを見てくれない。私は資料を持って渋沢先輩に駆け寄ると、隣に追いつく前に彼の足は前に動き出した。


「先輩……?」

「行くよ。まだ仕事は山のようにあるんだから」


 その声を聞いて、私の足は歩みを止めてしまった。だってその声は、今朝、私を拒絶したときの声と同じトーンだったから。社員食堂ではあんなに優しかったのに。皆にわからないように、こっそりといつもの先輩の優しさを向けられて、私がどれほど嬉しかったか。それなのに、今は私しかいないのに、また先輩は私を冷たく突き放す。私が足を止めても、先輩は振り向くことなく階段を昇っていってしまった。分厚い資料を胸にぎゅっと抱きながら俯いてしまう。でも、ずっとここにいるわけにはいかない。私は頭を振って自分の気持ちを深く、深くへ押し込んで、そのまま一階へ続く階段を昇っていった。

 エレベーターは残念ながら地下まで繋がっていなくて、地下と一階の間は階段でしか行く事ができない。少ない段数とはいえ、重い資料を持ちながらの階段は結構キツイ。こんな時ヒールが憎くなる。階段を一歩一歩昇っていると、階段の一番上で先輩が待っていた。でも、渋沢先輩はただ私を見下ろしているだけで、にこりとも笑わない。そんな先輩の姿を見ていると悲しくなるので、私は極力先輩の方を見ないようにしていた。階段を昇ることに集中して昇っていると、半分くらいまで昇ったところで突然、足元がぐらりと揺れた。


「え……」


 気がつくと自分の体が後ろに傾いていた。手に持っていた資料によって私の体は重くなり、後ろに押されるような引っ張られるような、とにかく体が浮くような感覚が私を襲う。スローモーションで落ちていく私の体、遠くから聞こえる非常を知らせる警報、そして先輩の声。傾いた体が力強く引き寄せられ、その拍子に、手元の資料が花びらのように舞い落ちる。この時私は、手元から滑り落ちた資料のことよりも、引き寄せられて彼の胸に自分の頬が当たっている現実を受け入れることでいっぱいいっぱいだった。掴まれた手首はすっぽりと覆われて、上を見上げると綺麗な先輩の瞳が見える。階段で先輩を押し倒すような体勢になってしまった私は、自分が置かれた状況も忘れて先輩の顔をまじまじと見つめてしまっていた。目の前にある先輩の可愛い顔に釘付けになっていると、少々困惑顔の先輩がおずおずと口を開いた。


「……あの、大丈夫だった?」


 渋沢先輩の低い声が私を現実に引き戻す。先輩の綺麗な瞳を目の前に現実に戻されると、急に心臓が早鐘を打ち始めた。私の鼓動が、先輩に聴こえてしまう前に離れなくては! そう思い、バッと体を離すと先輩の腕がまたすぐに私を掴んで引き寄せた。思わずそんな先輩の行動にどきりと胸を高鳴らせたが、先輩の表情は険しい。


「そんなにすぐに離れたら危ないだろ!」

「あ……ご、ごめんなさい」

「いや、ごめん。乱暴な言い方して。とにかく、怪我はない?」

「大丈夫、です」

「そう……よかった」


 安堵の溜息を吐く渋沢先輩。険しい表情から一瞬で穏やかな表情に変化した。

 いくら可愛らしい顔立ちとは言っても、先輩は男性だ。でも、力強い腕も少し乱暴な口調も怖さはなく、ただひたすら私の鼓動を高めていくだけ。密着した体は、思ったよりも逞しくてそれがさらに先輩を『男』だと意識させる。階段の中腹で先輩と二人きり……恥ずかしさもあったけれど、今はこのアクシデントに感謝だ。

 先輩と密着している中、少しずつ揺れが収まっていく。結構大きな地震が私達を襲ったが、その揺れも完全に止まった。


「結構大きな地震だったね。警報も鳴ってるし」

「そうですね……びっくりしました」

「びっくりしたのはこっちだよ。まさか君が後ろに傾くとは思わなかったから……心臓が止まるかと思った」

「はは……すみません」

「ん、でも怪我がなくてよかった」


 先輩が可愛らしい瞳を細めて微笑む姿は、思わず見惚れてしまうほど可愛い。その時、私はようやく気付く事ができた。先輩のシンボルでもある瓶底眼鏡は、一体何処に行ったのか。まさかと思い、恐る恐る階段の下を見てみると、そこには無残な姿に変わり果てた瓶底眼鏡があった。フレームは無事だが、レンズが割れてしまったようだ。砕け散ったレンズの残骸が、階下で虚しく散らばっていた。


「あぁ……先輩の眼鏡が」

「ん? あぁ、割れちゃったね」

「先輩のシンボルが!」

「……別にシンボルにした覚えは無いんだけど」


 私は先輩の傍から離れて階段の下に散らばった眼鏡のカケラを拾った。危ないからと止められたけれど、私の手は止まらない。ハンカチを広げて丁寧に破片を拾い集めた。だってこれはきっと、先輩が私を助けてくれた拍子に顔からずれて落ちてしまったのだろうから。しっかり立たなかった自分に責任があるような気がするのだ。

 床に散らばったレンズの破片を丁寧に指で拾い上げると、いつのまにか隣には先輩がしゃがんでいる。しゃがんで一緒に拾ってくれる先輩の顔が近くて、せっかく収まったドキドキが再び上昇していくのがわかる。俯き加減の先輩の表情は可愛いけれどカッコイイ。もう、意識しすぎて心臓に悪い……このまま先輩の頭を胸に抱き寄せて、寝癖のついた柔らかい黒髪をくしゃくしゃに撫でてみたい。髭の薄い先輩の柔らかそうな頬を、きゅっと摘んでみたい。可愛らしい瞳に飾られた長い睫毛の長さを測ってみたい! ……そんな阿呆なことを思っている私は、変態でしょうか。でも、先輩のこと好きになってしまったんだもん。色んなことをしたいと思うのは自然なことだよね? 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ