14・渋沢先輩の事実
渋沢先輩が好き
そう自分の気持ちに素直になったはいいけれど、今度は意識しすぎて先輩の顔をまともに見る事ができなくなってしまった。別に先輩の容姿に惹かれた訳ではないのだから見なくてもいいんだけど……なんとなくこっそり先輩を盗み見しては、今お茶飲んだな、とか、あくびした、とか、些細なことを発見するのが楽しいのだ。好きだと意識すると、あの瓶底眼鏡も後頭部の寝癖すらも可愛らしく見えてしまう。これは重症だ。わかっているけどやめられない『渋沢先輩観察』。
ちらちらと渋沢先輩を気にしていると、背後から先輩の女性社員が私に声をかけてきた。
「はい、これ。この資料今日中にまとめてね。よろしく」
「は、はい」
手渡された資料は膨大な量だった。デスクに置かれた山積みの資料を今日中にまとめろなんて……今日は残業決定だ。少しでも早く残業を切り上げられるように、今手元にある仕事を終わらせてスグに資料まとめの作業に取り掛かることにしたのだ。しかし、そんな私の腰を折る声が飛んできた。それは部長だ。体育会系の部長の声は部署内に響き渡るほど大きな声で、私のデスクから遠い部長の席からでもしっかりその声は聴こえてくる。
「おーい、前園。ちょっといいか」
「はい!」
デスクから立ち上がり、部署の一番奥にある部長のデスクへ向かった。部長のデスクは部署内一番奥の、小さいながら別部屋にある。よくドラマなどに出てくるようなガラス張りの小さなスペースだ。部長との話の中には、他の社員に聞かれてはまずいものなどもあるので、こうやって別スペースがあるのだろうけど、その部長専用の個室に足を踏み入れるのは少々勇気がいる。
何か怒られるようなことをしただろうか? と、つい色々なことを考えてしまっていた。しかし、部長は特に小言を言うわけではなく、地下にある資料室から過去のデータが記されている資料を一緒に探してくれ、というものであった。
部長は全てを部下に押し付けたりしない。自分でもちゃんと動く。勿論、大事な仕事を優先しているとはいえ、自分の体が空いている時はこうして一緒に自分も動くのだ。的確な指示、強い責任感、それでいて『部長』という座を自慢したりしない熱血部長は、部下から慕われている。私も尊敬している上司の一人だ。
部長・前原哲央は四十五歳で二人の息子がいる愛妻家だ。いつも美味しそうな奥さんの手作り弁当を食べている。前にちらっと見たときは桜でんぶでハートマークが描かれていた。それを見て部長は照れ臭そうに頭を掻きながらも、嬉しそうにお弁当を食べていたのだ。きっと夫婦仲もうまくいっているのだろう。そんな部長の姿を見ていると結婚への憧れがいつしか湧いてきた。
いつか自分も旦那様のために美味しいお弁当を作ってあげたいなぁ、なんて。……その前に、もう少しお料理を頑張らないといけないけど。そういえば渋沢先輩なら私が作るより上手そうだなぁ。渋沢先輩が主夫で私が稼ぎに……なんてね! きゃー!
先輩との結婚生活を勝手に想像して、くすくすっとつい笑ってしまう私。そんな私を不思議そうに見つめるのは、前原部長だ。
「……お前は百面相だな。何考えてたんだ、頬が緩んでるぞ」
「えっ!? あ、す、すみません! 仕事中に……」
「本当にお前は面白いな。この前の飲み会の時も、なかなか楽しかったぞー」
「……私、何かしたんでしょうか」
「なんだ、覚えてないのか? ずいぶん渋沢に絡んでて、渋沢が困り果てていたぞー。あれは中々見物だった」
「えぇ!? 確かに渋沢先輩にはご迷惑をおかけしたかもしれないです……」
「渋沢があんなに楽しそうなのは、久しぶりに見たからな。すっかり暗くなってなぁ、アイツ。あの眼鏡も止めればいいのにな」
部長の言葉で、資料室に向かっている私の足がピタリと止まった。部長は渋沢先輩が眼鏡をかけていない頃から知っているんだ。と、いうか昔は眼鏡を掛けていなかったんだ……どうしてあんなへんてこな眼鏡を掛ける様になったんだろう。ふとそんな疑問が頭を過ぎる。
眼鏡を取った先輩の素顔は、なんともいえないくらい可愛らしい。一瞬とはいえ、よく覚えている。少しの間考え込んでいると、部長が再び口を開いた。
「それにしても、もったいないよなぁ。渋沢も正社員になればいいのに……」
「え? 渋沢先輩は正社員じゃないんですか?」
「あれ? あいつ言ってないのか? あいつはアルバイトだぞ、もう五年程になるけど……正社員になれって言ったんだが、あいつは首を縦に振らないんだよ」
「アルバイト!? ……てっきり正社員なんだとばかり思ってましたけど」
「お前からも言ってみてくれよ。もったいないなぁと思うんだ。これから将来のこと考えるなら、正社員になったほうがいいからな。所帯を持った時にアルバイトじゃなぁ」
「……はい」
知っているつもりになっていた自分が恥ずかしい。それにしても、私は本当に渋沢先輩のことを何も知らない。先輩にはあとどれくらい秘密があるのだろう。そしてそれを私は詮索しても平気なのだろうか。すっかり彼の全てを知った気になっていた私の心が、ほんの少しだけちくんと痛む瞬間だった。