12・ぬくもりは嘘
今朝の私は上機嫌なまま起床した。
いつもは、あともう少し……とベッドの中からなかなか抜け出せないというのに、今日は目覚めも良くスッキリと晴れ晴れした気持ちで朝を迎える事ができた。朝の日差しがカーテンの隙間から部屋に差し込み、気分はさらに良くなる。いつもより一時間も早く目覚めたので洗濯をして、部屋の掃除を始めた。するとどうだろう。部屋が片付いただけではなく、自分の気持ちもスッキリと片付いてくる。なんでこんなに目覚めが良いのだろうか。それはきっと昨夜、先輩から貰ったぬくもりが私に幸せをくれたからだろう。
自分でも驚くほど毎日先輩のことを考えてしまう。今日も出社したら先輩に会えるのだと思うと、うきうきと足取りも軽くなるから不思議だ。
部屋の掃除も済ませ、洗濯も終了。そして自分もシャワーを浴びてメイクを始めた。なんだかいつもよりメイクのノリがいい気がする。ファンデーションが浮かずに綺麗に肌に馴染み、アイシャドウが綺麗に瞼を彩る。アイラインも綺麗に引けたし、マスカラも綺麗に睫毛を伸ばしてくれる。いつもより元気な自分に、チークの色を少し明るめに変えてみた。一応会社なのでグロスだけでは素っ気無いということで、ピンクベージュの口紅をリップブラシに乗せて、唇に色を乗せた。その上からほんの少しだけグロスをすると、唇が品良く仕上がる。ベージュのスーツに白のシャツ。シャツのボタン付近には控えめなフリルが施されていて、女性らしさをチラつかせる。
「よし、今日も頑張りますか!」
鏡の前で気合を入れて、元気に出勤した。なんだか、朝の通勤風景がいつもより楽しく見える。ただ気分良く起床できただけで、こんなにも違う景色に見えるものだろうか。それは朝早く起きたからというより、何処かで、会社に行けば先輩と話ができると思っているからかもしれない。それくらい、今の私は先輩と話をするのが楽しくて仕方がないのだ。
今日は、ランチに誘ってみようかな?
最近お世話になりっぱなしだから、そんな理由を頭につけて誘ってみれば、渋々でも一緒にランチできるかもしれない。黙々と食事を進める先輩の姿を想像したら、それだけでなんだか楽しくなってくる。電車の中でそんな想像をしていたら、つい笑ってしまいそうだ。笑っていたら不審な目で見られてしまう。だから私は会社がある駅まで、自分の足をヒールで踏んずけてニヤニヤしてしまうのを堪えていた。
「おはようございます」
会社の入り口で会った社員達に声をかけながら、私の部署がある三階へとエレベーターで昇っていく。エレベーターを降りたその時、先輩の姿が目に入った。その姿を見つけた私は一気にテンションが上がって、渋沢先輩の下に元気に駆け寄った。
「渋沢先輩、おはようございます!」
「あ……おはよ」
「あの、昨日は」
「……悪いけど、話しかけないでくれる? それじゃ」
一瞬、もしかしたら人違いをしてしまったのかと思うほど、先輩がそっけない。昨日まであんなに優しかった先輩が、今朝はキッパリと私を拒絶した。エレベーターを降りてすぐに、私はその場で立ち尽くしてしまった。凍り付いてしまった心。今朝はあんなに晴れ晴れと穏やかな気持ちだったのに、先輩は冷たい言葉を私に投げつけたまま、その場から去ってしまった。その先輩の後姿が見えなくなるまで、私はその場から動く事ができなくて……悲しくて、涙が零れそうだ。
泣くもんか!
泣いたら私の負けだと自分に言い聞かせ、零れそうな涙を必死に留めるが、瞳に溜まった涙は、ついに決壊してしまった。誰にも見られないように両手で顔を覆い、私はフロアにあるトイレに駆け込むと、そのまま個室に閉じこもり、メイクが崩れないようにハンカチの端っこで涙を吸収させた。それでも涙は止まらない。あんなに優しかった先輩が、たった一日で掌をひっくり返したように冷たくなってしまった。でも、私はその事実を信じたくない。もしかしたら、私に何か非があったのかもしれない。
あとでもう一度先輩に声をかけてみよう……。
小さな希望を胸に、私は真っ赤になった目に目薬を差して、自分のデスクに向かったのだった。
いつも通り女先輩の教えを受け、自分に与えられた仕事をこなしていく。そんな中、私に一通のメールが届いた。社員は皆、それぞれのアドレスを与えられ、そしてアドレスも全員に知れ渡っている。だからどんな部署からでもメールを受け取ることも送ることもできるし、連絡手段としても社内メールは役立っていた。しかし、こんなメールはいただけない。
メールの送り主は内海先輩だった。内容は、この前の謝罪。そしてお詫びに食事に行かないかという誘いのメールだった。
……内海先輩とはもう、二人きりになるのが怖いよ。
本音がうっかり零れそうだった。ちらりと内海先輩の方を向くと、彼はさわやかな笑みをこちらに向けてくる。その笑みに私は曖昧に微笑み返し、誰にも気付かれないように溜息を吐いた。そして、ちらりと渋沢先輩を見つめると、先輩は私の視線にはちっとも気付いてくれない。まっすぐPCを見つめて、ひたすらキーボードを打っている。
昨日はあんなに近くにいた渋沢先輩が、今日は凄く遠く感じられる。
あのぬくもりは嘘だったのだろうか。悲しい気持ちになった私は、昨日繋がれた指先をそっと見つめた。この指に絡んだ優しい指先の感触は、未だ私の肌に残っているというのに。