10・誤解しないで
「んっ……」
呼吸をすることさえ許さないようなキスが降り注ぐ。壁に追い詰められて手首を捕まれ、押し付けるように唇を奪う。その激しさに、声を出すことも許されない。
なんで……こうなるの!?
内海先輩の強引さに不安が恐怖に変化する。こんなに乱暴なキスは初めて。そして初めて男の人を『怖い』と感じた瞬間でもあった。一方的なキスは、どんどん私を苦しくさせる。次第に頬に涙が零れてしまい、それを止める術もわからなくなる。そんな私のことなどはお構い無しに続けられるキス。ぎゅっと瞑っていた瞳をそっと開くと、内海先輩の端正な顔が間近に見える。そして目線を横に向けるともう一人、私たちを見つめていたのは……渋沢先輩だ。
一番見られたくない相手だった。
渋沢先輩は私たちを見て、体を固まらせていた。そんな先輩に助けを求めるように掴まれた手首を必死で伸ばそうとしたけれど、掌を大きく開いて先輩の方に向けるくらいしかできない。唇は未だに内海先輩に塞がれている。涙ばかりがぽろぽろと零れ、必死で先輩に助けを求めていた。
――渋沢先輩……助けてください!
私のSOSに気付いてくれたのか、渋沢先輩の体がぎこちなく動き出す。こちらへと足を進め、内海先輩の手首をぐいっと押しやった。その渋沢先輩の存在に驚いたのは、勿論、内海先輩だ。そして、しばらく驚いていた内海先輩の表情が、やがて険しいものへと変わっていった。私はようやく内海先輩に解放されて、そのままズルズルと壁を滑り、地面に蹲った。そんな私の耳に届く低い声、それは渋沢先輩の声。
「……また、こうやって遊んでいるのか」
「遊んでいるなんて心外だな。俺は好きになったからキスしただけだろ?」
「相手の意思も考えずに、か?」
「何を言ってるんだ」
「もうやめとけ。そして、もうこんなことはするな」
「お前には命令されたくない」
そんな捨て台詞を吐き、私の存在を忘れてしまったかのように内海先輩は去って行った。内海先輩の姿が見えなくなると、途端に私は体から力が抜けてしまった。もう、あんな怖い思いはしたくない、そう思った。胸を押さえて、自分の心を落ち着けていると頭上から優しい声が降り注ぐ。
「大丈夫だった? ……て、大丈夫じゃないよね」
私と同じ目線にしゃがみ込み、心配そうに様子を窺う。渋沢先輩の言葉があまりにも優しくて、再び涙が溢れ出した。それでも「大丈夫」と首を必死に縦に振る。そんな様子を見て、先輩が優しく頭を撫でてくれた。宥めるように何度も、何度も。
「さ、帰ろう。送っていくから」
余計なことは言わない先輩の言葉、今はそれがなんだか嬉しい。
渋沢先輩の隣に並んで歩いていく時、繋いでくれた先輩の手は、さっき繋がれた内海先輩とは全く違う。もっと包み込まれるような優しい掌と渋沢先輩の体温が、私の気持ちを落ち着かせてくれる。どくどくと激しく打っていた鼓動も、いつのまにかいつも通りの規則正しい穏やかな音に変わっていた。私をこんなに落ち着かせてくれるのは、やっぱり渋沢先輩だった。
会いたい、そう思っていたから会えて嬉しい。でもその反面、先程のキスを見られてしまったことが、私を激しく動揺させる。
「先輩、あの……さっきのキスは違うんです! 私はその、望んでいたとかじゃなくて……」
しどろもどろになり、自分でも何を言っているのかわからない。でも、どうしても弁解したくて必死で言い訳をしていたのだ。渋沢先輩はそんな私の様子を見て、穏やかに微笑みながら、再び私の頭を撫でた。
「いいよ。そんなに必死にならなくても。大丈夫、もう怖くないよ」
ちょっと見当違いな答えのような気がするけれど、優しい先輩の気遣いが嬉しかった。瓶底眼鏡越しでもわかる、先輩の穏やかな陽だまりの様な微笑み。少しずつ平常心を取り戻す事ができるこの微笑みは、私をいつも優しく包む。そのまま、私のマンションまで歩く間も、先輩はずっと私の手を繋いで少し先を歩いていく。繋がれた手が、熱い。大きな掌に包まれていると、次第に私の胸がどきどきと大きく打ち出す。少しだけ見える先輩の顔を見ながら、私たちはずっと無言で歩いていた。
「じゃあ、僕はここで」
ぱっと振り向いて手を離す先輩。気がつけば私のマンションの前までやってきていた。離れてしまった優しい掌に、夜風のひんやりした空気が触れる。どこか寂しい気持ちを隠して、微笑んでいる先輩に頭を下げた。そして後ろ姿を見送っていたのだが……気がつけば先輩の服を両手で掴んでいた。
「何? どうかした?」
「あ……えーっと、少しお茶でもしていきませんか?」
もう少しだけでいい。もう少し、先輩とお話したかっただけなの。
じっと先輩を見つめていると、ちょっと困ったように指先でこめかみをかいている。瓶底眼鏡から時折見える綺麗な先輩の瞳が、きょろきょろと困ったように動いている。困らせているのは私。でも、今日はもう少しだけ我が儘を言わせて欲しい。なぜだろう。わからないけど、やっぱり先輩と一緒にいたかった。私があまりにも諦めが悪いので先輩が溜息を一つ零す。そして眼鏡を指でくいっと上へ押やると、仕方なく返事をしてくれた。
「……負けた。じゃあ、少しだけ」
「ホントですか!? やった!」
「全くもう……こんな時間に」
「ごめんなさい! でも嬉しいです」
るんるんと喜びを隠すことも無くマンションへと先輩を引き摺っていく。そんな強引な私に腕を引かれている先輩が、独り言をぼそり。
「……一応、僕だって男なんだけどなぁ……」
その呟きは私の耳に届くことは無く、ただ無邪気に先輩をマンションへと引き摺って行ったのだった。