6 疑念
「どうしてですか!私は母親です。由良は私と一緒じゃなきゃだめなんです!」
香織の悲鳴のような声が、玄関先に響き渡った。けれど児童相談所の職員は動じることなく、淡々と告げる。
「お子さんの安全を最優先に考えての措置です」
「由良は普通じゃないの!私と由良が離れれば、由良の周波数はもっと乱れてしまいます!由良はもっとおかしくなってしまうんです!」
「周波数」という言葉に職員たちは一瞬顔を見合わせ、「ああ、そういう系ね」というような目くばせをした。
「明日香ちゃんも一緒に行こう。大丈夫だよ」
職員が手を差し出すと、明日香は香織の後ろに隠れた。
由良が進み出て、素早く明日香の手を取る。まるで明日香の捕まえ方を熟知しているように。
由良に手を取られた瞬間、明日香はビクッと身体を硬直させて泣きだした。
「お姉ちゃん嫌だぁ…ママと一緒がいいよぉ…」
香織は二人を引き留めようとしたが、別の職員に静かに押さえられる。
璃子が美咲の隣からひょこっと窓を覗いて、「明日香ちゃん、どこ行くの?」と聞いた。
「見ちゃダメ」
「なんで?」
「なんでも。テレビ見ていいから」
ーーー
しばらくして、「子どもたちは他県に住む親戚の家に引き取られることが決まり、香織は育児支援の一環として、教育プログラムの受講が決まった」と、風の噂で聞いた。
「明日香ちゃん、おばあちゃんの家に引っ越しちゃったんだって。今日先生が言ってた」
「…うん」
「明日香ちゃん、戻ってくる?」
「わからないけど…戻ってくるといいね。璃子の親友だもんね」
「うん」
一週間後、登校班の見守り当番の日。集団登校の子どもたちの列が、朝の通学路を進んでいく。
「おはようございます」
春くんママが、美咲の横に並んだ。
「ちょっと聞いていい?荻野さんの虐待のこと、璃子ちゃんママが通報したんでしょ?」
(嘘つくのも変だよね)
「はい。由良ちゃんが裸足で家に来て、腕に痣もあって、香織さん…お母さんに殴られたというので」
春くんママは「ふーん、由良ちゃん、そういうことだったんだ」とニヤついた。
「そういうこと…とは?」
「うちの上の子、悠太って、1年生のとき由良ちゃんと同じクラスだったのね。悠太に聞いたんだけど、由良ちゃんって虫を解剖したり、道路で猫とか雀が死んでたら家に持って帰ったりしてたらしいのよ」
「…え?」
「率直にキモイでしょ?しかも舞依ちゃんママによると、校庭ででっかい岩か石か拾って、クラスメイトを殴ろうとして追いかけ回したこともあったらしいよ。実際には殴らなかったから、先生が注意して終わったらしいけど」
「そ…んなことがあったんですね…」
「そうそう。親が虐待してたから、ああいう子になったんだね。納得だわ。由良ちゃん、目つきも怖かったしね」
美咲の胸が、急にざわついた。
死んだ動物…クラスメイトを岩で殴る…
そんなことは、香織からは一言も聞いていない。
(いや、当然か。うちの子は轢かれて死んだ動物を家に持って帰ってくるんですとか、友達を殴るくらい暴力的ですなんて、積極的に言わないよね)
香織の言葉が脳裏によぎる。
「由良は周波数が乱れてる」
「由良は普通じゃない」
もしかしたら、本当におかしいのは香織ではなくて、由良なのでは?
「ここで暮らしたい」と言ったときの、由良の妙な目つき。
「自分が間違いを犯したのかもしれない」という恐怖が、美咲の身体を駆け巡って、身体が動かなくなる。
「ともかく、うちの子に何かある前に変な子がいなくなって、璃子ちゃんママには感謝だわ」
春くんママは美咲の肩をポンと叩いて、「ありがとうね。璃子ちゃんママはこのあたりのみんなの恩人だよ」と去っていった。
その日の午後、美咲は誰もいないリビングでぼんやりしていた。とても仕事に集中できる状態ではない。
テレビではニュースキャスターが、遠い地域で起こった虐待事件を取り上げている。
「虐待かもしれないと思ったら、いちはやく連絡しましょう。虐待かどうかわからないから連絡しないのではなく、わからないからこそ連絡する、と考えていただくことで、救われる子どもたちがいます」
(私は、子どもを救った。通報は正しい行動だった。俊介も春くんママもそう言ってくれたじゃない。通報が間違いだったら、子どもたちが連れていかれることも、香織さんがプログラムを受けることもなかったはずだもん)
「大丈夫、私は正しい」
美咲は声に出して言ってみる。
けれどその言葉を繰り返すたびに、胸の奥がざらついていく。
(私がしたことは、本当に正しかったの?)
「子どもを救った正義のヒーロー」として讃えられる美咲の足元に、小さな違和感が、ぬかるみのように広がっていった。




