1 隣人
新居に到着し、ダンボールがまだ積み上がったままのリビングで、早川美咲は「よし」と声に出して立ち上がった。
荷解きの前に、まずはご近所への挨拶が先だ。
娘の璃子は、薄いラベンダー色のランドセルを背負ったり置いたりを繰り返して、玄関先ではしゃいでいる。
「璃子、準備できた?」
「うん!ランドセル背負っていく!」
「まったく…」
夫の俊介がため息混じりに笑いながら、引っ越し業者が用意してくれた洗剤のセットを、紙袋に入れる。
「長く住むんだし、両隣にはきちんと挨拶しておかないとな。なあ、俺、髪の毛大丈夫?」
俊介がそう言い、美咲は笑って「大丈夫だよ」とうなずき、俊介の首からタオルを外した。
「あ、巻きっぱなしだった。ありがと」
両隣のうち、右隣の家は引っ越し前の下見でも目に入っていた。築年数が経っていることが一目でわかり、玄関扉の塗装はやや錆びている。
これまた古そうな、カメラもついていないベージュと茶色のインターホンを押すと、しばらくして中から女性が出てきた。
年齢は美咲と同じくらい…30代半ばくらいだろうか。
すっぴんに近い顔。
「peace & organic」と書かれたTシャツタイプのワンピースを着ている。
慌ただしそうに、まとめ髪からこぼれた髪を、耳にかけながら応対する。
家の中からは、香のような匂いが漂う。
「こんにちは。隣に引っ越してきました早川と申します。妻の美咲と娘の璃子です」
「あ、どうも。はじめまして。荻野です」
荻野香織は人の良さそうな笑顔を浮かべて、美咲は「話しやすそうな人だな」と安心する。
「こちらの地域は夫婦ともども初めてなので、町内会のことなど、いろいろお伺いすることがあるかもしれません。どうぞよろしくお願いします」
「こちらご挨拶の印に。つまらないものですが」と言葉を添えて、俊介は紙袋を差し出した。
「ご丁寧にどうも。今年はうちが町内会の班長なので、町内会のこととかゴミ出しのこととか…わからないことがあったら何でも聞いてください」
「助かります、ありがとうございます」
香織は璃子のランドセルに目をとめた。
「一年生になるの?」
「うん!」
「そうなの。じゃあうちの明日香と同級生だね。きっと登校班も一緒だよ」
香織の後ろから、璃子と同じくらいの背格好の女の子が顔をのぞかせた。
「娘の明日香です。四月に一年生になります」
香織は小さく明日香の頭を撫でた。
明日香は璃子を見て、「お名前なんていうの?」と声をかけてくる。
「璃子」
美咲は小さく「璃子です、でしょ?」とたしなめた。璃子はまったく悪びれず、「一緒にお家で遊ぼう」と明日香を誘った。
幼稚園のお友達の家に遊びに行くのが当たり前だった璃子にとって、それは自然な発想だったのだろう。
しかし「うちはお姉ちゃんがいるからだめ」と明日香。
「お姉ちゃんがいるから、だめ…?どうして…?」と美咲は小さな違和感を覚える。
香織は少し気まずそうな顔をした。
「お姉ちゃんがいるんですね」という美咲の言葉に、香織は「…ええ、まあ」と言葉を濁す。
「一応次が五年生なんですが…体調不良が多い子で」
「そうなんですね」
「その…上の子のこともありますし…」
一瞬、香織のまなざしが宙をさまよった。
「ここ、もともとは夫の実家で。両親が亡くなってから、そのまま住んでいて…古い家だしちょっとお友達をあげるのも恥ずかしくって」
美咲は明日香に「じゃあ、明日香ちゃんがうちにおいで。今は荷物が整理できなくて汚いからだめだけど、きれいになったら遊びに来てくれたら嬉しいな」と微笑んだ。
「うん」と明日香は返す。
香織は明日香を部屋の中に促しながら、「じゃあ」と言って、ガタガタ鳴る戸を閉めた。
人はいいが「息子が古い家を平屋に建て替えてくれたんだ」と長々自慢してくる左隣の老夫婦にも挨拶を終え、美咲はふうっと息をついた。
「お隣さん、どっちもいい人そうでよかったよね」
「だな。璃子の友達もできそうだし」
「うん。それが一番嬉しいかも。私も、荻野さんとママ友になれたらいいんだけど。お姉ちゃんがいるなら、小学校のこともいろいろ聞けそうだし」
姿を確認できなかった、まだ名前もわからない荻野家の「お姉ちゃん」にほんの少しだけ違和感を抱きながらも、美咲は希望に満ちた新生活を思い描いていた。




