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異世界恋愛短編集

灰冠の誓い~三度裏切られた令嬢は王国を見捨てない~

作者: 百鬼清風

(……また、だわ)


 濡れた石畳に転がる己の手を、ぼんやりと見下ろしながら、わたくしは思った。

 微かに伸ばした指先には届かず、地面に散った血が小さく赤い水たまりをつくっていた。


 思考は鈍く、痛みすら遠くにある。ただ、冷たい。冷たく、重たい。

 身体はもう動かない。首さえ、上げることができない。けれど──それでも、思考だけは冴えていた。


(また、同じ結末。……いいえ、より悪いわ)


 エリーゼ・グランセリオン。グランセリオン公爵家の長女。

 生まれた時から、わたくしには「国の宝」としての役割が課せられていた。誰よりも高貴で、誰よりも賢く、誰よりも従順な存在であることを。


 だが、それは幻想に過ぎなかった。

 二度、裏切られた。王家の者に、家族に、そして、誰よりも信じたはずの人に。


 最初の死は牢獄で、静かに。

 二度目の死は、婚約者に陥れられて、裏切られた果てに。

 そして、三度目。……わたくしは、同じ轍を踏んだ。


(いいえ……違う。今度こそ──)


 瞼が落ちる。音もなく。

 しかし、意識はそこで途切れなかった。


 ──ふわり、と。


 薄闇に溶けるように、わたくしは再び時の川を遡った。

 記憶を抱いたまま、幼い身体へと。


 そして、目を開けた瞬間──


「おめでとうございます、エリーゼお嬢様! 今日で五歳のお誕生日でございます」


 澄んだ声が、耳を打った。

 わたくしは思わず、ぎゅっとシーツを握りしめる。胸の奥が、熱く震えた。


(……三度目。今度こそ、絶対に)


 この命を、踏みにじらせはしない。

 わたくしは、王家に屈するために生まれてきたのではない。


(誓うわ。今度こそ、この国を……、この命を、わたくし自身の手で救う)


 カーテンの隙間から差し込む陽光が、まるで祝福のようにわたくしを包み込んだ。


 けれどその祝福が、どれほど険しい道の始まりであるかを、まだこの時のわたくしは知らない──。


 


「……お嬢様、今日も本を読まれますの?」


 侍女のロゼが、不思議そうに尋ねる。


「ええ。大丈夫よ。お勉強だもの」


 幼い口調に意識的に抑えながら、わたくしは笑ってみせる。

 まだ身体は五歳だ。理屈っぽいことを言えば不審に思われるだろう。けれど、少し利発なくらいなら、許容範囲だ。


(情報が必要なの。絶対に)


 わたくしは書庫に通い詰めた。

 二度の死で得た知識と記憶を武器に、今度こそ、生き延びるために。

 未来を見抜き、裏切りを許さないために。


 


(この国は、腐っている)


 読み重ねた書物の中で、そう結論づけるしかなかった。

 王族も貴族たちも、自分たちの地位を守るためなら民などどうでもよいと考えている。

 正義も誠実も、誰の胸にも宿ってなどいない。


(ならば、わたくしは──)


 誓いを立てる。

 わたくしは、腐りきったこの国を変える。


 そのためには、王家との婚約を断ち切るだけでは駄目だ。

 わたくし自身が、この国の頂点に立たねばならない。


 エリーゼ・グランセリオンとして。


(わたくしは、玉座を奪う)


 


「……エリーゼ、最近少し変わったな」


 そう言ったのは、父だった。

 わたくしは内心、冷ややかに笑う。そうでしょうとも。

 前世では、父はわたくしを王家への捧げものとしてしか見ていなかった。


「もっと、強くなりたいんです」


 幼い顔で、そう言い切った。

 父は少し目を見張ったが、すぐに満足げに頷く。


「よい心がけだ」


(……違うわ。これは、わたくし自身のため)


 誰かのために生きるのではない。

 誰かに捧げるために努力するのでもない。

 この命は、わたくし自身のものだ。


 誰にも、奪わせない。


 


(準備はできた)


 王家からの婚約打診が来るまで、あと一年。

 わたくしはそれまでに、「力」を手に入れなければならない。


 味方を作り、敵を見極め、

 そして何より──


(この国を救うべき理由を、掴まなければ)


 ただの私怨ではない。

 王家を討つだけなら簡単だ。

 だが、それでは何も変わらない。


 腐った大地に、毒を注ぎ込むだけ。


 わたくしが目指すのは、違う。

 腐った根から、新しい芽を育てること。

 絶望しかなかった国に、再び希望を灯すこと。


 そのためには、わたくし自身が変わらなければならない。

 王族以上に、誇り高く。

 誰よりも、清廉に。


(わたくしは──この国の"未来"になる)


 


 夜の帳が降りる。

 窓の外には、幾千もの星が瞬いていた。


 わたくしはベッドの上で膝を抱え、静かに目を閉じる。


 何度死んでも、終わらない。

 ならば、生きるしかない。

 未来を、奪い取るしかない。


(この命に、誓うわ)


 わたくしは、玉座を奪う。

 わたくしは、この国を変える。


 たとえ、すべてを敵に回しても──必ず。


 再び、目を開けた時、そこにはもう迷いなどなかった。


 五歳の子供にしては、わたくしの一日は異様に忙しかった。

 貴族令嬢としての礼儀作法はもちろん、舞踏、音楽、語学、歴史、政治、軍略、経済。

 本来なら十歳を過ぎてから本格的に学ぶ内容も、わたくしは「学びたくてたまらないおませな娘」という仮面をかぶって、早々に先取りしていた。


 誰にも怪しまれない程度に、しかし貪欲に。


(急がなければ)


 今度こそ、失敗できない。

 そのためには知識が必要だった。武器が、仲間が、計画が──すべてが。


 そうして日々を重ねていたある日、

 わたくしはふと気づいた。


(……あの扉)


 書庫の一角、普段は誰も近寄らない古びた壁。

 そこには、わずかに不自然な隙間があった。


 記憶の中にも、この扉の存在はなかった。

 二度の生涯を費やしても、わたくしが知りえなかった場所──。


(試してみる価値はあるわ)


 息を殺し、誰にも気づかれないように歩を進める。

 五歳の身体は小さく、足音もほとんど響かない。

 ゆっくりと、隙間に指を差し込み、押し広げた。


 ギィ……と、鈍い音を立てて、扉は開いた。


 


 そこは、隠された小部屋だった。


 空気はひどく乾燥していて、誰も長い間出入りしていないことがわかる。

 小さな燭台を手に取り、火を灯すと、ほのかな光の中に、ひとつの机と、積み上げられた書類、そして──


「……これ、は……?」


 中央に置かれていたのは、王家とグランセリオン家の家系図だった。


 ただし、それはわたくしたちが普段知るものとは、異なる内容だった。

 見慣れた名前の間に、不可解な空白や、記号のような印が無数に記されている。


(これは、……秘められた記録)


 脳裏をよぎるのは、二度の死で得た断片的な記憶。

 不自然な王位継承、突然の事故死、謎の病死。


(すべて、偶然ではなかった──?)


 家系図の端に、ひときわ古びた羊皮紙が挟まれているのを見つけた。

 そこに記されていたのは、さらに衝撃的な事実だった。


 


 ――グランセリオン公爵家は、かつて正統な王位継承権を持っていた。


 


(……やっぱり)


 思わず、手が震えた。


 建国以来、数度にわたって王族と公爵家との間で密かに交わされてきた約定。

 表向きは「王族の後ろ盾」として、しかし裏では「いざという時には王権を奪還する権利を保持する」という、恐るべき密約だった。


(だから、王家は……わたくしを、恐れた)


 黒金の瞳。

 正統なる血筋。


 王家がわたくしに異常な執着を示したのも、すべてこの密約に起因していたのだ。


 グランセリオン家の娘が、王家に逆らえば──

 それは、玉座を脅かす存在になる。


 


「エリーゼ、こんなところで何をしている?」


 声がして振り返ると、そこには祖父が立っていた。

 隠居したはずの前公爵──エドモンド・グランセリオン。


「……お祖父様」


 わたくしはそっと羊皮紙を胸に抱えた。

 誤魔化すつもりはなかった。ここで下手に嘘をつけば、すべてを失う。


 だから──真正面から、目を見て言った。


「わたくし、この国を救いたいの」


 祖父の瞳が、微かに揺れた。


 


「……驚いたな。そんな幼い子供の口から、そんな言葉が聞けるとは」


 書庫の一角で、祖父と向かい合う。

 祖父の表情は険しかった。だが、それは拒絶ではなかった。


「わたくしは、知ってしまったのです。二度も、裏切られて、死んで──それでも、また生かされた。この命には、意味があるはず」


 ゆっくり、言葉を紡ぐ。

 幼い声でも、心を込めれば届くと信じて。


「この国は腐っています。今の王家では、国は持たない。だから……わたくしが、変える」


 祖父は、長い間沈黙していた。

 そして、静かにため息をつく。


「──本気なのだな」


「はい」


 迷いはなかった。

 今度こそ、絶対に。


 


「ならば、教えよう」


 祖父は、机の奥からもう一冊、さらに古びた書物を取り出した。

 そこには、さらに深い秘密が記されていた。


 王家の血統が弱まるたび、グランセリオン家が後ろから支え、時には玉座を奪う役割を果たしてきた歴史。

 公式には絶対に記録されない、血と陰謀の裏面史。


「お前には、その資格がある。黒金の瞳を持つ、お前になら」


 祖父は、厳かに言った。


「エリーゼ。

 お前は、玉座を目指すか?」


 問いかけに、わたくしは即答した。


「はい。わたくしは、この命に懸けて、この国を救います」


 


 その夜、わたくしは眠れなかった。


(本当に、やるのだわ)


 二度、裏切られた。

 二度、死んだ。


 それでも、諦めない。

 わたくしは、生きるために。国を救うために。


 この身を、魂を、すべてを賭けて──玉座を奪う。


(覚悟は、できている)


 星のない夜空を見上げ、

 わたくしは、静かに誓った。


 

 そして。

 エリーゼ・グランセリオンの、真の戦いが始まった。


 誕生日を迎えてから二ヶ月後。

 グランセリオン家には、あの知らせが届いた。


「エリーゼ様に、王太子殿下とのご婚約を、との王命にございます」


 執事が神妙な面持ちで告げた。

 わたくしは、幼い笑みをたたえながら、心の中で静かに毒を吐いた。


(──また、か)


 この国の王家は、懲りない。

 二度の死を経ても、まだわたくしを玉座へと繋ぎ止めようとする。


(だが、今度は違う)


 わたくしは、ただの生贄ではない。

 誰にも操られない。誰にも利用されない。


(必ず、この手で拒絶してみせる)


 たとえ、王命であろうとも──。


 

 グランセリオン家の応接間にて。

 国王からの使者と、わたくし、そして父と母が顔を揃えた。


「エリーゼ、お前にも異論はあるまいな」


 父の声は、問いかけではなかった。命令だ。


 わたくしは小さく首を傾げ、無垢な声で問い返した。


「王太子殿下とは、どのようなお方なのでしょう?」


 使者は、少し困った顔をした。

 五歳児にしては異様に冷静すぎる質問だったからだろう。


「アルヴィン殿下は、聡明にして寛大、また大層慈悲深いお方にございます」


(……虚言)


 知っている。

 アルヴィン殿下は、自尊心だけが異様に肥大した男だ。

 己を飾る言葉に弱く、他者を踏みにじることを何とも思わない。


 二度目の人生では、彼のその本性に気づかぬふりをして付き従ったが、結局は裏切られた。

 わたくしを冤罪に陥れ、牢獄に捨てた男。


(もう二度と、あんなものに膝を屈しはしない)


 

「わたくし、まだ幼うございます。

 婚約など、早すぎるのではありませんか?」


 あえて、年齢を盾に取る。


 父と母は顔をしかめた。

 この家において、娘の意志など、元来存在しない。


 だが、使者の表情がわずかに揺れた。


「……たしかに、お歳を考えれば、猶予をいただくことも一案かと存じます」


(よし)


 食い込める。

 今の国王は、焦っている。

 病弱な先王が早世したため、現王も早く後継を確定したがっている。

 だが、五歳の娘を無理矢理縛りつけたとなれば、貴族社会の反発は免れない。


(ここが勝負)


 わたくしは、さらに畳みかけた。


「わたくし、もっと学びたいことがございます。

 公爵家の令嬢として、恥ずかしくない知識と品格を身につけてからでなければ、殿下にご無礼となってしまいます」


 この言葉に、父が何か言いかけたが、使者がそれを制した。


「……国王陛下に、慎重なご意向としてお伝えいたします」


 


 その晩、

 父からは叱責の嵐だった。


「なぜだ! 王命を拒むとは何事か!」


 わたくしは、ただ黙って頭を垂れた。

 反論しても意味はない。今はまだ、力が足りない。


(だが、時間を稼げた)


 王家との縁談を、すぐには結ばせない。

 そのわずかな猶予を、わたくしは必ず活かす。


(準備するのよ)


 新たな後ろ盾を。

 新たな力を。

 そして、わたくし自身を、王族を超える存在へと。



 

 数日後、国王から正式に回答が届いた。

 ──「エリーゼ・グランセリオンとの婚約を、五年後に再度検討する」


(……勝った)


 わたくしは、静かに胸の中で拳を握りしめた。


 たった五年。

 されど、五年あれば、幼い少女も令嬢として成長できる。

 味方も作れる。権力も蓄えられる。


 何より、心の準備ができる。


(必ず、その時までに)


 わたくしは、アルヴィン殿下を、そして王家を──超えてみせる。



 

 夜。

 星のない空を見上げながら、わたくしは誓った。


(何度死んでも、諦めない)


 必ず、未来を掴み取る。

 必ず、この国を変える。


 たとえ、血に塗れた道を歩むことになろうとも──。


(わたくしは、生きる)


 この命の意味を、必ず証明してみせる。


 


 ──そして、運命は静かに動き出していた。


 


 わたくしが王太子アルヴィンとの婚約を五年間延期させたことで、グランセリオン家には見えない圧力がじわじわと迫りつつあった。


 表向きには、何事もない。

 けれど、内実は違った。

 王宮からの使者が以前より頻繁に訪れ、些細な報告や贈答の要求が増えた。


(王家は、わたくしを監視している)


 それは間違いなかった。


 そして──それと同時に、わたくしの耳には、奇妙な噂が届き始める。


「最近、第一王子殿下に対して、臣下たちの忠誠が揺らいでいるそうですわ」


 それは、後宮に仕える侍女たちから流れてきたものだった。

 誰も表立って口にはしないが、アルヴィン殿下の傲慢な性格は貴族社会においても問題視され始めていた。


(当然の結果ね)


 わたくしは冷ややかに微笑む。

 あれほど周囲を見下し、軽蔑し、踏みにじっていれば、いずれ破滅するのは目に見えている。


(だが──問題は、国王陛下だ)


 


 現国王フェルディナント三世は、表向きは寛容で穏やかな君主とされている。

 だが、実態は違った。


 二度目の人生でわたくしは知っている。

 彼がどれだけ狡猾に、計算高く、己の血統と地位を守るために動くかを。


 フェルディナント三世がわたくしに執着する理由。

 それは、単なる王太子のための婚約者確保ではない。


(……黒金の瞳)


 この国において、黒金の瞳を持つ者は特別だ。

 建国の時より、黒金の瞳を持つ王だけが、時の神獣──国家守護精霊と契約できるとされてきた。


 そして、現国王には、その瞳がない。


 正統性に欠ける王家を、支えるために。

 黒金の血を取り込むために。


(わたくしは、利用される)


 あの男は、アルヴィンにわたくしを娶らせ、正統性を取り戻すつもりなのだ。

 たとえそのために、わたくし自身の意志を踏み躙ろうとも。


(ならば、わたくしも利用する)


 逆に言えば、わたくしはそれだけの価値を持っているということだ。

 玉座を目指す以上、避けては通れない道。


 ……覚悟は、とっくに決まっている。


 


 そして、事態は思わぬ方向へと動き出した。


 ある夜、祖父──エドモンド・グランセリオンが密かにわたくしを呼び出した。


「エリーゼ、急ぎ知らせるべきことがある」


 その顔は、これまで見たこともないほど険しかった。


「王宮内部で、奇妙な動きがある。

 陛下はお前の"管理"を徹底するため、ある密命を下されたようだ」


「密命?」


 思わず問い返す。


「──監視と、場合によっては"排除"だ」


 その言葉に、背筋が冷たくなった。


(……来た)


 いずれ、わたくしが脅威と見なされる日が来ると、覚悟はしていた。

 だが、こうも早く動くとは。


 


「エリーゼ、お前に刺客を送る動きがある。

 今はまだ未遂に終わっているが、時間の問題だ」


 祖父の声は静かだったが、明らかに怒りを含んでいた。


「公爵家の娘に対してこの仕打ち……。かの王家は、いよいよ節度を失ったか」


(……当然ね)


 わたくしは微笑む。


 ──敵は、あの王家そのものだ。


 たとえ王命を盾にしても、

 たとえ玉座に座していても、

 腐った根を絶たなければ、この国に未来はない。


 


「どうする、エリーゼ?」


 祖父は問うた。


「逃げるか? 隠れるか? それとも──」


 わたくしは、はっきりと首を横に振った。


「戦います」


 迷いはなかった。


「逃げれば、また死にます。

 隠れれば、また殺されます」


 わたくしは、覚えている。

 二度の死の記憶を。

 二度、信じたものに裏切られたあの絶望を。


 だから──もう、誰にも負けない。


「正々堂々と、王家に対抗します。

 この国を変えるために。未来を守るために」



 

 夜空を見上げる。

 星々が、静かに瞬いていた。


(わたくしは、もう泣かない)


 裏切りに怯えない。

 絶望に屈しない。


(すべてを受け入れて──前に進む)


 たとえ血に塗れた道であろうと、

 たとえ孤独な戦いであろうと、


 この国の未来のために──わたくしは、必ず玉座に辿り着く。


 


 そして、わたくしは新たな計画を胸に秘め、静かに微笑んだ。


 ──すべては、これからだ。


  グランセリオン家の隠し部屋。

 燭台の火が小さく揺れる中、わたくしと祖父エドモンドは、ひとつの羊皮紙を広げていた。


 それは、二百年前の密約文書だった。


(──時の神獣との契約)


 わたくしの指が、かすかに震える。

 今読んでいるこれが、ただの伝説ではないことを、直感が告げていた。


 羊皮紙には、古代文字と現代語が並記されている。

 そこに記されていたのは、国家創建の根本に関わる真実だった。



 

 ──建国の祖たちは、時の神獣『フェルシュタイン』と契約を結び、王国の安寧を願った。


 ──王家の血を引く者の中でも、「黒金の瞳」を持つ者のみが、精霊との契約を更新できる。


 ──黒金の瞳を持つ者が絶えた時、契約は失われ、王国は災厄に見舞われる。


 


(……やはり)


 黒金の瞳は、単なる象徴ではなかった。

 それは王国そのものの命綱だったのだ。


(そして、今──)


 現国王フェルディナント三世にも、王太子アルヴィンにも、黒金の瞳はない。


(わたくしだけ)


 わたくし、エリーゼ・グランセリオンだけが、正統なる「契約者」となり得る存在なのだ。


(……ならば)


 王家は、わたくしを道具にしようとしている。

 自らの正統性を補強するために。

 しかし──


(わたくしは、彼らにくれてやるために生まれたのではない)


 今度こそ、わたくしは己の意志で、この国の未来を選ぶ。


 


 祖父は、黙ってわたくしの顔を見ていた。

 老練なその瞳には、かすかな期待と、深い憂いが滲んでいた。


「エリーゼ、お前はまだ若い。

 この重荷を背負うには、早すぎるかもしれん」


 けれど、わたくしは毅然と答えた。


「……いいえ」


 迷いはなかった。


「わたくしは、もう十分に知っています。

 二度の死を経て、誰も救ってはくれないことを。

 自分自身で、運命を切り拓かなければならないことを」


 祖父の顔が、わずかにほころんだ。


「──ならば、教えよう。

 王権を取り戻す方法を」


 


 グランセリオン家に伝わる秘儀。

 それは、"戴冠の誓約"。


 建国の時代、黒金の瞳を持つ者が時の神獣フェルシュタインと再契約することで、正式な支配者として認められるという儀式だった。


 ただし、それには二つの条件がある。


 一つは、血筋の証明。

 もう一つは、民の同意。


(民の、同意……)


 わたくしは、思わず拳を握った。


 単に王家を討つだけでは、何も変わらない。

 民に認められて初めて、わたくしは「王」となれる。


(それなら──)


 やるべきことは、はっきりしている。


 腐った王家を打ち倒すだけではない。

 わたくし自身が、民に選ばれる存在にならなければならない。


 


「エリーゼ、急ぐのだ。

 王家も、必ず気付くだろう。

 お前が真の脅威であることに」


 祖父の声に、わたくしは深く頷いた。


「はい。

 ……だから、わたくしは彼らより先に、力を集めます」


 味方を作る。

 信頼を得る。

 そして──


 国を動かす。


 


 それからのわたくしは、隠密裏に動き始めた。


 まずは、父の影響力を巧みに利用した。

 グランセリオン家は、王家に次ぐ大貴族である。

 わたくしが「公爵令嬢」として各家との交流を増やすことは、不自然ではなかった。


(……情報を集める)


 どの貴族が王家に不満を抱いているか。

 誰が、アルヴィン殿下に不信を持っているか。


 それらをすべて、丹念に拾い上げた。


(味方にできる者を探す)


 民を、貴族を、騎士たちを。


 わたくしは、着々と基盤を築いていった。


 


 夜、ひとり、鏡に向かう。


 幼い顔。

 けれど、瞳だけは誰よりも強く輝いている。


(──わたくしは、必ず)


 この黒金の瞳に誓って。


 玉座を奪う。

 この国を救う。

 わたくし自身の、手で。


 


 ──そして、運命の日は、近づいていた。



 ──時は流れ、わたくしが八歳になった。


 公爵令嬢として、周囲からの視線も次第に変わってきた。

 「将来の王妃候補」などという噂は薄れつつも、わたくし自身の聡明さと落ち着きが話題に上り始めたのだ。


(計画は順調)


 微笑みながら、わたくしは頭の中で冷静に進捗を整理する。


 まだ正式な政略は打てない。

 だが、「エリーゼ・グランセリオン」という存在が、王家の傀儡ではなく、自立した知性を持った存在である──それを、貴族社会にじわじわと浸透させていく。


(次は、同盟者を得る)


 わたくし一人では、王家に勝てない。

 力ある貴族たち、民を率いる者たち、そして軍を動かせる騎士たち──。

 彼らを味方に引き込まなければ。


 


 最初に目をつけたのは、侯爵家の令嬢だった。


 マルグリット・フォン・エーベルハルト。

 侯爵家嫡男の妹であり、わたくしより二歳年上の少女。

 芯が強く、王家の横暴に内心不満を抱いていることは、密かに情報網から得ていた。


「エリーゼ様、ようこそお越しくださいました!」


 マルグリットは愛想よく出迎えた。

 わたくしもにこやかに微笑み返す。


「ご招待いただき、嬉しゅうございますわ」


 上品な言葉を交わしながら、互いに相手を値踏みしている。

 その緊張感が、むしろ心地よかった。


(……この子なら、信頼できるかもしれない)


 


 ティーパーティーが進むにつれ、マルグリットの態度も和らいでいった。

 わたくしは、敢えて世間話や流行の話題を振りながら、彼女の本音を引き出す隙を探った。


 そして──。


「……陛下には、もう少し民のことを考えていただきたいものですわね」


 マルグリットがふと漏らした言葉に、わたくしは微かに目を細めた。


「ええ。

 貴族である私たちが支えているからこそ、王家も成り立っているというのに」


 わざと慎重に、共感を示す。


 マルグリットは驚いたようにわたくしを見た。

 幼い令嬢とは思えぬ、その確信に満ちた言葉に。


 そして、彼女は小さく笑った。


「──あなたとは、長い友となれそうですわね」


 固く、見えない手が結ばれた瞬間だった。



 

 次に狙ったのは、若き騎士団長補佐だった。


 ルドルフ・ヴァレンシュタイン。

 二十五歳の精悍な青年であり、王家に仕える立場でありながら、内心では王太子に失望している。


 彼への接近は慎重に進めた。

 公爵家主催の狩猟祭で、偶然を装って接触する。


「ルドルフ殿。

 わたくしに弓を教えていただけますか?」


 無垢な少女の頼みに、彼は戸惑いながらも快諾した。


 弓の指導を受ける中で、わたくしはさりげなく言葉を交わす。


「……強さとは、なんでしょう?」


 無邪気な質問に見せかけて、試す。


 ルドルフはしばらく考え、答えた。


「守るべきもののために、戦える力だ」


 ──合格。


(この人は、民を守る騎士だ)


 アルヴィンのように己のためだけに剣を振るう者ではない。

 ならば、信じる価値がある。


 


 マルグリットとルドルフ。

 わたくしは、まずこの二人を核に据えた。


 貴族社会への影響力。

 軍事的な支援。

 両輪を揃えなければ、玉座は狙えない。


(足りないのは、民だ)


 民衆の支持。

 それがなければ、わたくしは単なる反逆者となる。


(次は──)


 民の間に、わたくしの名を広めなければならない。


 


 そのために、わたくしは密かに施策を始めた。


 グランセリオン家の領内で、救済活動を強化する。

 貧しい村への食料支援。

 孤児たちのための教育支援。

 病人のための無料診療所設立。


(すべて、わたくしの名で)


 民たちは、誰が助けたかを覚えている。

 いざという時、剣ではなく、心を動かす力となる。


 


「エリーゼ様、ありがとうございます! 本当に、本当に……!」


 やせ細った母親が、幼い子供を抱いて、泣きながら感謝を述べる。


 わたくしは、微笑んで手を取った。


「わたくしではありませんわ。

 皆様の努力があったからこそ」


 ──小さな奇跡でも、積み重ねれば、やがて大きな波になる。


 それが、わたくしの信じる未来だ。



 

 夜。

 書斎にて、祖父エドモンドがわたくしを見つめた。


「エリーゼ、お前はもう、立派に"王"の器だ」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 けれど、わたくしは油断しない。


(ここからが、本当の戦い)


 王家は、黙ってはいない。

 必ず、何らかの手を打ってくる。


 だが、わたくしにはもう、孤独ではない。

 共に歩む仲間がいる。

 信じる民がいる。


(ならば、恐れるものなど何もない)


 この命に懸けて、わたくしは進む。


 ──玉座へと。


 冷たい風が、冬の訪れを告げる季節となった。

 わたくしは十一歳。

 グランセリオン家の令嬢として、そして未来の玉座を狙う者として、確かな成長を遂げていた。


(……潮目が変わる)


 わたくしの周囲に集った者たち──

 マルグリット・フォン・エーベルハルトと、ルドルフ・ヴァレンシュタインを中心に、徐々に貴族社会の一部がわたくしに共鳴し始めた。


 庶民たちも、噂を耳にしている。


「グランセリオン家のお嬢様は、民の守り手だ」


 「本当に国を思っているのは、王家ではない」


 まだ小さなさざ波。

 だが、確かに、それは広がりつつあった。



 

「──王家が、動き出しました」


 密偵を務める騎士が、書斎でひざまずきながら報告する。


「第一王子アルヴィン殿下は、エリーゼ様を正式に妃に迎える意志を再確認されたそうです」


 わたくしは、ふっと小さく息を吐いた。


(……来たわね)


 待ち望んだ瞬間だった。

 このまま、何もせず王家に屈すれば、わたくしは再び利用され、使い潰されるだけ。


 だが、今度は違う。


 わたくしには、支える力がある。

 わたくしには、選ばれるだけの準備がある。


(戦う時だ)


 


 夜。

 祖父エドモンドと二人、密談の場にあった。


「エリーゼ、間もなく王宮から正式な召喚が来るだろう。

 アルヴィンとの婚約、そして即位に向けての準備として」


「ええ」


 わたくしは静かに頷く。


「その場で──断ります」


 祖父の眉がピクリと動いた。


「正面から、か?」


「はい」


 わたくしは、あえて玉座を目指すことを、王宮で公言するつもりだった。


「密かにではありません。

 堂々と、宣言します。

 わたくしこそが、この国を救うと」



 

 リスクは、途方もない。


 王家を公然と否定する行為は、謀反と見なされてもおかしくない。

 最悪の場合、その場で拘束され、処刑されることもあり得た。


 だが──。


(わたくしには、もう時間がない)


 王家の腐敗は限界に達している。

 民の不満も、貴族たちの不安も、膨れ上がっている。


 この潮流を、今、掴まなければならない。


(待っては、いられない)


 


「エリーゼ。……恐ろしくはないか?」


 祖父の問いに、わたくしは小さく笑った。


「──恐ろしいです」


 だが、それ以上に。


「悔しいのです。

 二度も死んで、無念を抱いて、それでもこの命に意味を求めた。

 それなのに、また誰かの手に弄ばれるのは、耐え難い」


 だから、戦う。


 今度こそ、勝つために。


 


 三日後。

 王宮から、正式な召喚状が届いた。


 わたくしは、美しい黒金のドレスに身を包み、グランセリオン家の正式な使節として王宮へ向かう。


 馬車の中で、わたくしは目を閉じた。


(必ず、生きて帰る)


 この国の未来を、必ずこの手で掴む。


 


 玉座の間。

 国王フェルディナント三世が、高い座からわたくしを見下ろしていた。


 その隣には、第一王子アルヴィンが、傲然と立っている。


「エリーゼ・グランセリオン。

 汝を王太子アルヴィンの婚約者とする」


 国王の声が、静かに響く。


 玉座の間にいるすべての者が、わたくしの返答を待っていた。


 


 わたくしは、ゆっくりと顔を上げた。


「──ご辞退申し上げます」


 玉座の間に、ざわめきが広がった。


 わたくしは、はっきりと、堂々と言った。


「わたくし、エリーゼ・グランセリオンは、この国を救うため、己が正統なる契約者であることを宣言いたします」


 黒金の瞳を、真っ直ぐに国王に向けて。


「王家が腐敗し、民が苦しむ今、

 真に国を導く者は、民と共に歩む者でなければならない」


 誰にも、止めさせない。


「──ゆえに、わたくしは、玉座を目指します」


 


 しん、と静まり返った玉座の間。

 フェルディナント三世は、苦々しくわたくしを睨みつけた。


 アルヴィンは、怒りで顔を真っ赤にしている。


 だが、誰も、すぐには動けなかった。


 わたくしの背後には、マルグリットと、ルドルフを始めとした貴族たち、騎士たちの影があったからだ。


 わたくしは、孤独ではない。


(──さあ、始めましょう)


 この国を変える戦いを。


 王宮の空気は一変していた。


 わたくしが玉座の間で「王位を目指す」と公言してからというもの、

 宮廷では静かだが確実な波紋が広がり続けている。


(当然ね)


 何百年も続いた王権に、正面から異を唱えた者などほとんど存在しなかった。

 しかもそれが、正統なる血を引き、黒金の瞳を持つグランセリオン家の娘であれば──無視できるはずがない。


 


「エリーゼ様、お覚悟を」


 そう告げたのは、騎士ルドルフ・ヴァレンシュタインだった。

 わたくしの側に立つと誓った、最も信頼する者の一人だ。


「玉座を目指すということは、すなわち命を賭けるということ」


「ええ、わかっています」


 わたくしは頷く。


 これまでのように、ただ生き延びるためではない。

 自らの意志で、未来を掴むために。


(……絶対に、引かない)


 王家もまた、すでに動き始めていた。

 フェルディナント三世は、アルヴィンを即位させるために、強引な手を打とうとしている。


 だが──それこそ、わたくしの狙い通りだった。


 


 グランセリオン家にて。

 密かに集められた貴族たち、騎士団の一部、民の代表。


 わたくしは、彼らの前に立った。


「皆様。

 ──いま、この国は、岐路に立っています」


 静かに、しかし力強く。


「王家は腐敗しました。

 民を見捨て、己が権力にしがみつくばかり」


 集まった者たちの顔に、憤りと悲哀が浮かぶ。


「わたくしは、それを許しません。

 わたくしは、この国を、未来を、民のために取り戻します」


 誰よりも澄んだ瞳で、誓った。


「どうか、皆様のお力を、わたくしに」


 重い沈黙が、しばし続く。


 だが──。


「……我ら、エリーゼ様に従う!」


 誰かが叫んだ。

 それを皮切りに、次々と、賛同の声が上がる。


 ──わたくしは、ついに、国を動かす力を得た。


 


 王宮では、動揺が広がっていた。


 貴族たちの半数以上がわたくしの側に付いたと知った時、

 フェルディナント三世は、ついに最後の賭けに出た。


「エリーゼ・グランセリオンを、国家反逆罪に処す」


 玉座の間でそう宣言したのだ。


 だが、それは──あまりにも遅すぎた。


 


 王宮正門。

 グランセリオン家の軍勢と、民衆が押し寄せる。


 掲げられた旗には、王家の紋章ではなく、

 「黒金の瞳を持つ正統なる者」の証が描かれていた。


 わたくしは、正装に身を包み、静かに王宮へと足を踏み入れる。


 剣も、盾も、掲げる必要はなかった。

 わたくしには、民の心という最大の武器があったから。


 


 国王フェルディナント三世は、蒼白だった。


 アルヴィンもまた、剣を振るうどころか、震えて立ちすくんでいる。


「──玉座を、空け渡していただきます」


 わたくしの声は、冷たく、揺るぎなかった。


 フェルディナント三世は何か叫ぼうとしたが、

 すでに王宮内部ですら、わたくしの支持者が多数を占めていた。


 ──もはや、抵抗は無意味。


 王は静かに王冠を取り、わたくしの前に置いた。


 


 即位の儀は、驚くほど簡素だった。


 だが、そこには何よりも重い意味があった。


 わたくしは、王冠を手に取り、ゆっくりと頭上に載せる。


「──エリーゼ・グランセリオン、ここに、ダールグリュン王国の正統なる君主として即位を宣言します」


 新たな歴史の幕開けだった。


 玉座に座るわたくしを、民衆の歓声が包む。


 


 夜。

 新たな王宮のバルコニーから、わたくしは星空を見上げた。


 何度も死んだ。

 何度も裏切られた。


 それでも、諦めなかった。


(これが、わたくしの答え)


 誰かに救われるのではなく、

 誰かを恨むのでもない。


 自ら未来を切り拓く。


(これからが、本当の始まり)


 わたくしは、静かに微笑んだ。


「──これ以降、時の精霊の天秤は、二度と傾かず」


 かつてのご先祖様と同じ言葉を、心の中で繰り返す。


 誓うわたくし自身に。

 そして、この国の未来に。


 

 ──『灰冠の誓い』、ここに成る。

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