蒼蜜蜂の怕る夢
お祖父様は仰った。鋒家に入るなら、私はただの娘であってはならない。
融王家に仕えた刺客・鋒一族は、かの鬼帝国侵襲の際も陰ながら奮戦し、そのほとんどが命を落とした。人を殺すのには長けていても、鬼人相手では勝手が違ったのだ。
本家で生き残ったのは当主の胡爵様ただ一人。分家も全滅同然であったという。
胡爵様は代々受け継がれてきた技術を後世に繋がなくてはならなかった。
その一部はどうしても鋒家の血筋しか会得できないため、婚姻などで暗殺家業から離れて市井に下りた縁者を辿り、何人かの孤児を見出した。
私はそのうちの一人だ。
修行は厳しい。あらゆる痛みに耐え、あらゆる暴虐の手段を教え込まれ、それを実行するに足る知識と精神を叩き込まれた。
人を殺めるのが生業ならば、慈悲や躊躇は真っ先に捨てねばならぬもの。
見込みのない者は切り捨てられ、耐えられなかった者は去った。
未熟さゆえに生き延びられなかった者、自ら命を絶った者さえいる。もう誰の貌も思い出せないけれど。
最後まで残ったのは私だけ。それが、それだけが私の誇りであり、責務である。
他に候補がないなら、私が『鋒家』に為らねばならない。すべての技を会得し、胡爵様の教えと血を継いで、後に繋げることが我が使命。
誰にもこの役目は託せない。渡すつもりもない。
――私は、鋒 瑠璃。
胡爵様の『孫女』。
「動きが鈍い。止まって見えるぞ。その体たらくで我が家の奥義が修められるものか」
「……はい! 頑張ります!」
「黙れ莫迦者。威勢は要らぬ、結果を出せ」
「はいッ」
修行は厳しい。でも嫌だと思ったことは一度もない。こと暗殺術の修練に関しては、必ずお祖父様が正しいのだから、私の努力と技量が足りないのが悪い。
お祖父様だって悪意や憎しみによって罵るわけではない、私の未熟さでご迷惑をおかけしているのだ。
嘆く暇があるなら鍛錬せよ。ご期待に沿えられるその日まで、ただひたすらに腕を磨くのみ。
その一念を胸に生きてきた。
修練の成果は実戦で示さなくてはならない。お祖父様の命を受けて、私は幾度も夜を駆けた。
暗殺の極意とはすなわち静寂。陰に交じりて己が身を隠し、音を消して忍び寄り、初手一撃にて必殺する――死すらも悟らせるな、とはお祖父様の口癖。
殺せ。鬼人を恐れ、我が身かわいさに王家に背いた愚かな人たちを。
滅ぼせ。融国の故地を我が物顔で占拠している薄汚い鬼どもを。
あらゆる『王の敵』をすみやかに抹殺せよ。光の触れぬ影に潜み、闇のみを同胞とし、尊い方をお護りせよ。
我らが王の道を阻むもの、総てを葬る鋒であれ。
それが我ら鋒家の役目――と。
「フーッ……」
顔にはねた血痕を拭うことはない。そも、誰にも悟られずに始末を終えねばならないのだから、無用な動作は一つとして行わない。
必要なら呼吸すら面紗の下に吹き消した。そうする間、私は死んでいるのと大差がないのかもしれないと思う。
元より――すでに私は『生きて』などいないのではないか。少なくとも鋒家に身を置いた瞬間から、この命は王のものだから。
けれども一つ……もしも私に、私自身の生命があるとするならば。
この胸にただ一言宿る、お祖父様ではない誰かの声を、時折思い出している。
『笑いなさい、瑠璃。つらいときでも。笑顔は、ずっと忘れちゃいけないよ』
誰かは忘れた。そのとき私は幼くて、頬を包んでいる大人の手は温かかった気がする。
随分と真剣に言うものだから、よほど大事なことなんだろう、と幼心に思ったのは覚えている。
お祖父様は私にあらゆるものを捨てよとお命じになったが、微笑みはそこに含まれない。だからその言葉は今もまだ魂魄に留まっていいる。
……けれど、いつからか、思い返しても意図が汲めなくなっていた。
どうして笑わないといけないんだっけ?
つらいときって、いつ?
今や言葉も死にかけているに等しい。されど笑顔を絶やさずにいさえすれば、ひとまず誰かの遺言を違えることにはならないだろう。
そう、笑ってさえいれば。
意味なんてわからなくても。理由はなくても。
……。
「――ねぇ弁當、どうしてもっと早く言わなかったの?」
ひたりと冷たい風が吹いた。川べりで鬼女を嬲っていたから、濡れたままの脚衣が肌に張り付く。
私は困っていた。お祖父様は無益な労を厭われるのに、そして尋問は私の特技のひとつだったのに、今それは水泡に帰してしまったから。
極寒の川に沈めても鬼は口を開かなかった。笑顔ひとつ崩さないで、いつもと何ら変わりなく、尊い王子様の御心を奪うに相応しいほど美しかった。
あまつさえ、呪符一枚と咒の経文はこの手の痛みより何倍も有益なのだと示された。
でも、別にそれはいい。弁當が優秀なのはもともと知っているから。そういう者こそ雅鳳様に必要だから。
決して彼の才を妬んだわけじゃない。ただ私は、己の無能が耐え難かった。
彼の垢だらけの顔をずいと覗き込んで尋ねる。浮浪者と同じ、不衛生で近寄りがたい臭いがする。
彼ら蘭氏は只人にはない力の代償に、穢れとやらを負うらしい。
「どうも何も、……俺が話聞いたときゃもう、おまえは麗花を沈めてたろ」
「でもそのあと、ずっと見てたでしょ?」
「……縛呪が解けたりしねぇか見張ってただけだ」
「本当?」
弁當は眼を合わせない。彼の視線はいつも地を這う。
おかしな話だ、彼は殿下の旅路にこんなにも貢献しているのだから、もっと胸を張って天を仰いで良いのに。
「私の不手際に気づいてたんじゃないの?」
「……」
「ねぇ弁當? 私より自分がやれば早く済むってわかってたでしょ? ねぇ、ねぇ、どうして言わなかったの?」
「……俺は老鋒の判断に口を挟める立場じゃねぇからだよ。……、あと距離、近ぇ」
「んー。そっか。なら仕方ないねぇ。なら、……あなたは雅鳳様の敵じゃ、ないね。よかった、なら殺さなくていいんだぁ!」
私は微笑んで、彼の脇腹に這わせていた刃を仕舞った。同時に弁當の喉が小さく上下した。
安堵したのは私も同じ。この人は有能だから、私よりもずっと雅鳳様の役に立てるから、殺すのは勿体ない。
だから敵じゃなくて、嬉しかった。
でも――なぜだろう?
腹の底に落ちた淀みが、まだ晴れた気がしないのは。
(今度はちゃんと務めなくちゃ。もっと修練して……、私、何をしたらいいんだろ)
無能な駒は要らない。かの御方が王道を切り拓くための鋒になるには、私はあまりにも足りなさすぎるのではないか……。
「……おい、瑠璃」
「ん?」
弁當から話しかけてくるなんて珍しいなぁ、と思いながら振り向いたら、なぜか彼は悲しそうな顔をしていた。
既視感。先刻の雅鳳様が浮かべていたそれとよく似ている。
どうしてそんな眼をされるのかわからない。けれど、特に他の感情は要らないから、とりあえず笑顔を浮かべて答える「何?」
「……、なんでもねえ。悪い」
「え、なになに、全然わかんない。なんで謝るの? またいつもの『穢れが移る』ってやつ?」
彼は小さく頷いて背を向ける。まるで視線すら私に向けるのを躊躇うように。
私はそれを、いつも心底からおかしく思う。
だって、それじゃあまるで、なんだか私がまだ綺麗なものみたいだ。
この手で何人殺したかなんて数えてもないし、拷問だってわりと得意だし、お祖父様の教えにはすべて従ってきた。私はすでに血塗れで、それでもまだ不出来な鈍らの刃。
だから、きっと逆だ。私は汚れなくてはならない。きっともっと大勢の血を吸わねば、真に『王の鋒』になど成れはしないのだ。
力が手に入るなら、穢れくらい幾らでも受けていい。
恐ろしいのはそんなものじゃない。汚れることすらできないほうが、私はずっと怖い。
「ん~……、えい!」
「うわッ!? おいやめろやめろ止せ離れろ!!」
後ろから飛びついてみたら弁當は素っ頓狂な声を上げた。ちょっとぐらい暴れられても、組み付き続けることはできるのだが、今は殺すためではないので離してあげることにする。
でもほんの少し悲しかった。そんなに嫌がらなくてもいいのに、と思ってしまって。
だって、そんな気遣い、暗殺者には要らないのだから。
――ねえ蘭氏殿。どうしたら、あなたの穢れを私に分けてくれますか?
・** 蒼蜂可怕夢 **・
小女 是れ蒼き血を啜るべし
刃を握らせて 仇花を刈らん
小女 是れ暗き術を学ぶべし
刃を研ぎ澄ませ 潰すは禍虫
枯娘 是れ白き毒を求むべし
哀れ汝は咲く事能わぬ影の花
刺客 即ち蒼白き鋒の毒婦よ
月光なき瑠璃藍の闇夜に奔れ