心は断てぬ蟷螂の斧
十三年前、融という小国が滅んだ。黒き帝の率いる鬼人の軍勢によって。
宮殿は破壊し尽くされ、王侯貴族や侍従がほぼ皆殺しにされたすえ、都をそのまま占領されて現在にまで至っている。
唯一生き残った末の王子・牒雅鳳は復讐を誓った――。
*
とある宿の一室に、見目麗しい女がひとり囚われていた。
椅子もなく、板張りの床に直に座らされた華奢な身体は、荒縄にきつく縛められている。さらには封印の呪詛を記した朱色の札が、その姿を覆うように縄にいくつも結ばれていた。
かくも厳重に拘束されているこの罪女の名は麗花という。
彼女を見下ろすのは、ぼさぼさの結髪に着古した短衫姿の小柄な男だ。背に二本の斧を担ぎ、元はどこかの罪人であったのか、首には枷のような円形の黥がある。
もう何日も身を清めていないのだろう、顔は垢でまだらに染まっている。着物ももはや襤褸と称したほうがいいほどの有様だ。それが美女の前に立っているものだから、否が応にも互いに美醜を引き立て合っている。
男は麗花の前にどかりと腰を落とし、彼女の細腰をじろじろ眺めながら言った。
「若様はぞっこんで踏ん切りがつかねえらしい。よくよく誑し込んだもんだな、おい」
麗花は何も答えない。うっすらと笑みに似たものだけを、白い顔に浮かべている。
「ま、解らなくもねえけどよ。確かにてめえの面と身体は文句なしの一級品だ」
「まあ……動けぬ妾を手籠めになさるおつもり?」
「んな趣味ねえよ。俺はな、鋒のじじいに言われて、腑抜けの若様の代わりにてめえを始末しにきたんだ……鬼殺しの専門家、蘭氏としてな」
男は背から斧を下ろし、冷たい刃先を麗花の首筋に宛がった。
蘭氏とは帰る家や里を持たぬ流れ者の一種だ。鬼人を狩り、奪った角を擂り砕いて生薬とする。これを煎じて服むことで妖力を得て、人の身ながら鬼法妖術に通ずるという、薬師であり咒師の類である。
彼らは必ず孤児を後継とする。あるいは鬼角粉を口にした天罰で、常人との間には子を生せないのだ、と言われている。
男の汚らしい容貌も、蘭氏の掟によるものだ。鬼殺しによって穢れを負うとされる彼らは、それを不用意に周りに移さないために一般の水場が使えず、風呂はもちろん洗濯すらも気軽にはできない身分なのである。
そんな賤しい生業の男――名は弁當。流民ゆえ姓はない。
彼がやや揶揄い気味に『若様』と称したのは、亡国・融王家の末裔、牒雅鳳のことである。本来なら貴人などとは無縁だが、諸々の縁によって旅の一行に加わった。
如何に容貌見苦しく、世間からは鼻つまみ者として忌み嫌われている男も、鬼人国の打倒を目指す王子にとっては頼りの供だ。妖力を持つ鬼人を倒すのは決して容易ではない。そして本人も言うように、蘭氏こそは誰より鬼人殺しに手慣れている。
他にも同志や臣下を集め、祖国復興の旅をしていた雅鳳の前に、この女が現れた。本人が言うには亡融国の民で、ぜひ王子の手伝いがしたいと名乗り出たのだ。
可憐にして妖艶。庇護欲を擽る甘い声に、奮いつきたくなる豊熟した肢体。絶妙な不均衡がもたらす危うい魅力に、他の男たちはもちろん、それまで色事に無縁だった堅物の王子でさえも、たちまち彼女の虜になった。
そうなれば恋仲になるのは時間の問題。些か世間知らずのきらいがある王子にはそれも必要な経験だろうと、臣下たちは不安を押し殺して見守り、先日とうとう本懐を遂げたらしい。
ところが女の正体は憎むべき鬼人だった。それも最大の怨敵、黒鬼の帝に侍る情婦であったのだ。
雅鳳は憤慨し、落胆し、絶望し、麗花を殺そうとした。けれど結局傷ひとつ付けられなかった。
すっかり意気消沈した彼の代わりに、残りの仲間たちが総出で彼女を取り押さえ、念のために弁當が呪縛を施した。鬼人の力なら縄くらい簡単に引きちぎってしまえるからだ。
禁呪の札は自分では剥がせないため、誰かが手を貸さないかぎり逃げられない。もし彼女の他にも身分を偽った鬼が身内に紛れていればついでに焙り出せるというわけだ。今のところ、そういう気配は見られない。
完全に身動きは封じたが、鬼女は不気味なほど落ち着き払っている。何か策略でもあるか、あるいは雅鳳の寵愛があれば、己の生命が危ぶまれることはないと高を括っているのか。
だとすれば随分舐められたもんだ――弁當は内心でせせら笑った。
そりゃ匂い立つような色香だ。滑らかな白皙は足跡ひとつない新雪さながら、踏み荒らしたい劣情を煽られる。
ただでさえ女には不慣れな若様が、ああして上気せちまうのも無理はねえよな。この子猫みたいな声で「お好きになさって」とか言われたら誰だってグラつく。俺だってこういう身分だから、そっちは随分ご無沙汰してるしよ。
だがまあ、今は、そんなことはどうでもいい。
「鋒も人が悪いよな、端から俺に言やいいのに瑠璃に命じるなんざ……どうせ言っても聞かねえから踏ン縛ってきちまったよ。あーぁ、あいつ今ごろ怒ってんだろうなぁ」
「ああ……、それで貴方お一人なのね」
「角に毒が回っちまったら薬にならねえからな。それに――てめえを殺す前に在り処を吐いてもらわねえといけねえだろ」
雅鳳様御一行の紅一点、老鋒の血の繋がらない孫娘は毒器の使い手だ。ちなみにその毒ってのは俺が調合してる。薬師も兼ねてるんでな。
なんでも鋒一族は代々融国王家に仕えてきた暗殺者なんだと。で、かの国が滅ぼされたとき大半が死んだ。自分たちの力が及ばず鬼人の侵略を許し、都を奪われちまったことを、未だに己の責として悔やみ続けている湿っぽい連中だ。
瑠璃に至っちゃ当時はまだ片手で数えられるような童女だったろうにな。
……ま、あいつのことはいいさ。俺は蘭氏、鬼を狩って自らその妖毒に身を浸す、穢れた賤民だ。住む世界がそもそも違う。
俺は麗花の襟首を掴んで引き上げた。艶かしく崩れた前髪の下から、鬼人の証である角が覗く。
本来なら左右一対であるはずのそれは、右のこめかみにだけ大小二本。複角そのものが珍しい部類だが、半端はそれ以上に稀――というより、まず自然に生まれるものじゃあない。この中原に一本角の鬼はもういないし、東の海を渡ったというそいつらの角は額の真ん中にあるらしい。
そもそも、左の額にはうっすらとくぼみがある。髪や化粧で誤魔化してはいるが角を折った痕に違いねえ。
角は妖力の源だ。一度折れたら二度と生え伸びることはなく、二本とも失えば命さえ落とす。だからこそ簡単に折れちまうような代物じゃあない。誰かが、わざとこの女の角を奪ったのなら、そこには何がしかの理由があったはず。
そして角とその主は、折れてもなお妖力で深く結びついてるんだ。つまり本人が死ねば角も砕け散る。何で知ってるかって、俺たちはそうやって鬼角粉を作るんでな。
「こうして片角だけへし折るのは蘭氏のやり方じゃねえ。つまり身内の仕業だろ、となりゃ、まだ鬼人国のどっかにあるんじゃねえのか。
てめえを殺せば、その角を持ってる奴が勘づく。下手は打てねえ」
「流石にお詳しいこと。ええ……ご推察のとおり、妾の左角は帝が懐に入れておいでですわ」
「チッ……なら殺るのは止めだ」
俺たちはまだ大した勢力になってねえから鬼帝に見逃されてるが、愛人を殺されりゃ黙ってないだろう。奴の軍勢に叩かれたら一網打尽だ。
ああ、やっぱり瑠璃を止めて良かった。あいつは納得しねえだろうが。
だが仮に今ここで麗花を討ったとして、それはあくまで鋒の独断、雅鳳の意に反することに変わりない。何も憧れの王子に恨まれる役回り、あんな小娘にさせる必要はねえんだ。
そういうのは、俺の仕事だからよ。
「……ふふ。お優しいのね」
「おだてても縛は解かねえぞ」
「ええ、構いません。……慣れておりますから」
意味ありげにそう囁いて、それきり麗花は黙った。
** 心不碎的螳螂斧 **
帰る家を持たず、真当な人であることも辞め、毒を喰らって生きている。
もはや鬼より浅ましい修羅の民が、情など抱いてはならぬのだ。
*