強欲の花は血よりも赤い
その女は額づいたまま微動だにしなかった。
床を掴んでいる細い両手に震えひとつ示さず、……左右十本の爪を辛うじて朱に染めてはいるものの、決して長くはない。この女の本来ある位の低賎の証に。
対する燎円のそれは倍以上もあった。どれも鮮やかな孔雀藍や鸚鵡緑に塗り上げられ、花の紋様やら金銀の粉箔などで雅やかに彩られている。
綾爪を備えた手はたっぷりした上着の袖にほとんど隠れているが、右手だけは口許にあった。赤黒い肌に映える、真っ白な胡粉の脂を引いた肉厚の唇で、人差し指の爪先をやわく咥えるような風情だ。
口角はゆるりと上がって、優しげな微笑を湛えている。――相反して双眸の放つ光は冷たい。
「顔をお上げ、麗花。何もそなたを取って喰らおうとは言わぬ」
「……はい」
高く結い上げられた黒髪が揺れると、小さな頭に不釣り合いな簪がしゃらしゃら鳴った。まるで女が哀嘆する声のようだった。
麗花の角は珍しい二股らしいが、そうと判ずるのが難しいほど小さいうえ、今は片方しかない。見苦しい不具ながら――面立ちはなるほど、ぞっとするほど美しかった。
腕の良い職人が注意深く切り込んだかのような薄いまぶた。鮮緋の化粧を施したその下に覗く、柘榴に似た品紅の大きな瞳。
控えめな鼻筋、ぷくりと膨らんだ花弁のような唇、どれも実に愛らしい。
だいたいなんと華奢な手足だろうか。燎円より二回りは下るほどの矮躯は、胸元を押し上げる二つの厚みを除けば、ほとんど子どもと変わらない。
小娘同然の女を前に、燎円は玻璃玉を砕くような澄んだ声でくすくすと笑った。
二人が今いる瀟洒な一室は、後宮の奥深くにある。皇帝に侍る数多の側妃の中では最高位となる、貴妃号を賜っている燎円は、すなわちこの欲望の砦の女帝であった。
誰も彼女には逆らえない。……誰も。
「ほんにそなたは愛らしいのう。帝が夢中になるのも無理からぬことよ」
細い爪先が、卑しい女の頬を突く。力は少しも込めてはおらず、柔らかな肉を少し凹ませただけで、きっと痕ひとつ残らないだろう。
「のう麗花。梓童は、そなたを憎んだり疎んじてはおらぬのだ。意外か?」
「……恐れ多く存じます」
「んふ。んふふ。どちらかというとな……憐れに思うておるのよ」
――零彩は一族郎党、牢に捕らえて皆殺し。おお……先王はなんとも恐ろしいことをなさったな。
それも全ては玄陽ただ一人の為。
挙げ句その玄陽も、御位に就いても止めぬどころか、そなたの片角まで折ってしまった。おお、おお、非道い御方よ……。
のう、麗花……これほどの憂き目に遭うたのだ、王家はさぞ憎き仇であろう。その寵を受けるのは悔しかろうな。
それとも例の予言、その手で真にしようという腹か――。
「いえ……」
「ふふふ。正直に申してよい、これは梓童とそなただけの秘密ゆえ。この談義、帝に知れたら命が危ういのはこちらも同じ。
尤も、片角で成せる由もなかろうな」
「……ッ」
つい、と軽く指を上げただけ。しかし長く伸ばされた色爪が宙を削いだだけでも、鬼人のふるまいならそれは呪いとなり、ただ一本しかない麗花の角を震わせる。
向こうはただでさえ弱い力を、半ば失った無色の婢女。こちらは紅蓮の肌を誇る後宮の支配者。
ほんの他愛ない戯れでも、容易く生命を弄ぶだけの力の差を感じ、背筋が凍る思いだろう。
この女をあらゆる害意から守るのは、皮肉にも彼女から総てを奪いつくした帝の寵愛だけ。
つまるところ、麗花の身には一欠片の安寧もありはしないのだ。斯くも哀れな女に憐憫以外の何を抱けるというのか。
ゆえに燎円は笑みを絶やさない。女主人は十二分の余裕を持って、俯きかけた顎の下に爪先を突き入れ、獲物の白い面を上げさせた。
――我が眼睛を見よ。
「そなた、玄陽から逃げたいのではないか」
――我が咒言を聴け。
「自由が欲しかろう?」
――我が煽意を識れ。
「のう麗花。案ずるな、梓童が救うてやろうぞ――」
……後に残ったのは、じゃらじゃらと煩いばかりの筮の音。燎円は唇に艶やかな笑みを貼り付けたまま、筒から一本引き抜いて、それを布で優しく包んだ。
これで、あの女がここに戻ることはない。
紅鬼は王族に次いで高い妖力を持つ。
鬼人の政と占術は切っても切り離せぬ間柄。ゆえに兎家は長年の歴史と研鑽を以て、度重なる粛清を躱しながら、文官の席を恣にしてきた。
その咒術の大家が後宮に送り込んだのは当然、一族の中で最もその才に優れた女だ。
呪詛易術の技はもちろん、皇帝の妻となるに相応しい知性と美貌もなければ、その大役は務まらない。そして最も重要なのは、あの猜疑に憑りつかれた玄陽帝をあしらえるだけの狡猾さを併せ持つこと――何しろ一歩過てば一族連座での粛清もありうるのだから。
実際、燎円は完璧に己の責務を果たしてきた。
父は丞相、その他あらゆる高官に親族の名を連ねている。自身も後宮における最高の称号を得、もはや皇后と違わぬ地位にあるという自負の表れが、高慢な『梓童』などという自称だ。
もはや燎円が持たぬものはないに等しい。――それでもなお、その腹は。
「燎円娘娘」
「うん……?」
ふいに衝立の後ろから声がした。顔を出したのは黄色の女官だが、すっかり蒼ざめた貌はもう白鬼と変わらないほどだった。
女は恐れ多いとばかりに平伏し、震える声で言う。
「なんということを……麗花殿をこの華睡宮から追い出されるなんて、もし陛下に知れたらお命は……っ」
「そうだな。では、陛下のお耳に入れなければ良い」
「如何なさるおつもり――ぁがッ」
女官は目を見開きながら唐突に血を吐いた。顔は伏せたままであったので、飛沫は床の上のみに撒き散らされる。
それを眺める燎円の頬に動揺の色はなく、手には一本の算木が握られていた。薄い木片は他愛もなく捻じ曲げられて、端に稲妻のような罅が走っている――それと全く同じ紋様が、這うばかりの女の角にも生じている。
「筋書きはそう……。麗花を憐れんだおまえは、あれの出奔に手を貸した。この宮で起きた過ちであれば梓童は罰さねばならぬ」
「がっ! ふ……ぅぐッ……ぃぃい」
「おお貴様、なんと浅はかな真似をしたのだ。一刻も早く陛下にご報告申し上げねばなるまいな! ……何、居処など梓童が占って差し上げます……ただそれには、かの女の角をお貸しくださらねばなりませぬ。ふふふ」
わざとらしく仰々しい口上と、衣擦れが響くほどの身ぶり手ぶりは、壁面に演じられる歪な影絵芝居であった。燎円はくつくつ笑いながら、完全に圧し折った算木を傍の香炉に放り込んだ。
殺してはいない。その証拠に下婢はびくびくと痙攣している。けれどもう、彼女は立ち上がって話すことはできない。
燎円はいつまでも艶笑していた。
けれど存外、その腹は満たされてなどいなかった。
麗花の失踪に玄陽は大いに怒り、くだらない理由で何人かを処刑した。八つ当たり同然の振る舞いだったが、火の粉が降りかかっては堪らないので、諫める者など一人もいない。
後宮内の女は身分に関わらず調べられ、燎円も例外ではなかった。貴妃を尋問するのは並みの御史ではなく、彼らを束ねると同時に軍をも率いる軍事刑務の長、烏太尉である。
烏家も高等武官を輩出してきた青鬼人の名門で、その当主はまだ若い。歳上だが精悍な顔立ちで背も高く、何より華々しい武功の数々と相応の地位で知られた人物ゆえ、後宮でも秘かに人気の高い男である――暴君の危なげな寵愛より、麗しい武官との禁じられた逢瀬のほうが甘い夢というもの。
燎円は彼を敢えて華睡宮内の自室に招いた。普通なら男が立ち入る場所ではないため、烏太尉はひどく緊張した面持ちで現れたが、その強張った表情すら眼差しの鋭さを掻き立てているように思う。
最も彼の動揺は、女の余裕に満ちた態度を目の当たりにするなり疑念に変わっていったが。
「兎貴妃、単刀直入にお訊ねする。麗花のことで何かお心当たりがおありではないだろうか」
「否定はせぬ。その手引きをした女を罰したのは梓童ゆえ」
「まずそこをお聞かせ願いたい。貴女は何故その者が罪人であると見抜いたのか」
「愚問。梓童に卜って分からぬことなど無いわ。それとも天雄、そなた、こう言ってほしいか? ――如何にも麗花を逃がしたのは己に相違ない、と」
そのとき燎円の双眸はしっかりと天雄を捉えていた。そして挑発的な物言いを受けた彼もまた、はっと彼女を見返してしまっていた。
白い唇がにんまりと笑む。串のように長く伸びた美しい飾爪が、狙い定めるように男の喉元を指した。
咒術家の眼差しは妖力の糸。相対する男がいくら屈強な武人だろうと、見えぬものはそう容易く断ち切れない。
「んふふ……好い表情をするな、色男。宮中の女どもが揃って名を挙げるだけはある」
「何を……ッ」
「我が兎家の者はな、みな欲が深いのだ。とりわけ梓童は最も欲深い」
得難いものほど欲しくて堪らず、手に入れるためなら無法も厭わない。あまつさえ他の誰かに横取りされるくらいなら壊してしまいさえする。
強欲ゆえに地位を求めた。権勢などただの手段に過ぎなかった。
もはや富と名声に飽き、大概のものは容易く懐に入る高みに至ってなお、この渇きが癒えることは永劫ないだろう。
何故ならば彼らが実際求めるのは物ではない。人ではない。
我が手に得たりと感じた、その刹那の至福のみ。
「のう天雄。そなたには妹が居たな。ただの姉妹ではない、この上ない恋人として……」
「何故それを、……それも卜ったと言うのか」
「他に何がある? だが如何でも良かろう。肝心なのは……梓童が訊きたいのはな、そなたがまだ妹を愛しているか否かだ。のう、黄山の妹に会いたいか?」
「……戯れが過ぎるぞ。いくら貴妃といえどもここで我を殺せば、誰の眼にも明らかな罪だ、相国ともども処刑は免れまい」
「あはは! 勘違いするな、そなたが逝くのではない、あちらがここに来る」
天雄は両の眼を見開いた。
反魂。死せる者の魂を冥府から呼び寄せる業。
愛する妹を失った瞬間から、天雄がそれを一度たりとも考えなかったはずはない。一片も望まなかったとは嘘でも言えない。
だが道を外れ理を損なう、どんな咒者も厭う禁忌だ。この女はそれを為せるというのか。
いくらなんでも――
「――いかに兎家と言えども、か? んふふ……そう、無論ありえぬことだな。具体的には三代前の祖がこれを修め、後世には継がぬ禁法として封じられている。しかしそれは、裏を返せば『手はある』ということ」
「ッ……だが」
背後を振り返った天雄を、燎円は両頬を包んで己に向き直させる。
「外の御史など気にせずとも良い。あれらは何も聞いておらぬ。……のう天雄、梓童と取引をしないか」
――そなたの妹に逢わせてやろう。
それと妹を殺した者を卜おうか。其奴の行方やら、奪われた妹の角がまだ世のいずこに残っておるのか、知りたかろう?
あれば取り戻せるに越したことはないものな……。
高位の鬼を貶めるのは本来それほど容易くはないが、条件が合えば話は別だ。
つまり弱点を射抜くこと。どれほど心身を鍛えても、誰しも必ず一つは弱みを持つもの。心底から欲しいものを拒める者はそういない。
ましてやそれが非業の死を遂げた恋人であれば、求める情念はどれほど強いものだろう。
だから、それが欲しい。
「……兎燎円。貴女の望みは、何だ」
「そなたの総て」
燎円は笑んだ。深く笑んだ。ともすれば母親が我が子を慈しむかのような、あるいは子が親を慕うような純粋な微笑で、堕ちゆく天雄を包み込んでいた。
思わずよろめき膝を衝いた武人に寄り添うように立ち、彼の頭を自らの胸に抱きかかえる。天雄はきっと高らかに歌う鼓動を聴いただろう。
力なく垂れ下がった太い腕は、すでに男に逆らう気力がないのを物語っていた。
――ああ。好い気持ち。
漸くほんの少し満たされた女の表情は、晴れやかに輝くようだった。
・** 貪婪花比血更紅 **・
喉の渇きほどつらいものはない
一杯の水を求めて何里を彷徨った
腹の餓えほど苦しいものはない
一切れの肉の為に何里を駆けた
過ぎた欲ほど悩ましいものはない
一時の快楽の為に何人を欺いた
煩悶にわたしの顔は紅く染まり
真に恐ろしきは、我が欲に終わりはない
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