黒薔薇は涙雨を啜る
――待つのは死の宿命にございます。御位に就かれませば、必ず惨たらしい破滅を迎えます。
老いた易者はそう宣った。手にしている獣の骨を、震えのあまりに罅が入るほど強く握り締めながら。
己の予言が恐ろしいのか。あるいはそれに対する王の行いをも、彼は先んじて知っていたのかもしれないが、もはや永遠にわからない。
はるか頭上の玉座に向かって拱手しながら、今さら口を噤むわけにもいかない易者は、か細い声で続ける。
――それは女で、色は持ちませぬ。
王子を……玄陽殿下を弑する者は、面の白い毒婦でございます。
『誰ぞ此奴を斬り捨てよ』
『おお、陛下、何を仰られる……! 拙めを殺しても運命は変わりませぬぞ』
『生かしておいても変わらぬであろう。……予と玄陽の耳に、おぞましき音を吹き込んだ罪だ』
易者はその場で首を刎ねられた。それを末の王子は母の腕越しに見ていた。
頭を失ったくらいで鬼人は死なず、胴と手足がびたびたと虫のようにのたうち回る。武官らは彼を五月蝿そうに蹴り飛ばし、あるいは腕や腿を斬って大人しくさせたあと、血泡を吐いて呻いている生首を掴み上げた。
そして、おぞましく巨大な鉄鋏で、老人の額から角を抉るようにして折った。
耳をつんざくような濁った悲鳴が宮殿じゅうに響き渡った。繋がってもいない身体が獣のように跳ね、痙攣した手足の断面から赤黒い血が撒き散らされる。
角は左右二本。つまり絶叫は二回上がった。
酸鼻極まるその光景に、王子は慄いて母にしがみつく。まだ幼い彼には、何時とも知れぬ己が宿命などよりも、目の前に転がった他人の死のほうがよほど恐ろしかった。
そんな我が子の頬を優しく撫でながら、母は宥めるような声音で囁きかける。
『恐れずとも良いですよ、玄陽。あの易者は恐らく、そなたの兄弟が寄越した間者……陛下を惑わそうと、根も葉もない嘘を申したに違いありません。
そのような卑劣者は死して当然です』
『……母上……あ、兄上たちは、なぜそのようなことを……?』
『みな玉座が欲しいのですよ』
――良いですか、あれらを兄などとは思わぬことです。そなたを害そうとする豺虎どもに心を許してはなりません。
后はそれから、王に向かって続けた。
『陛下、玄陽が怖がっておりますわ』
『うむ……。
――零彩の女を総て殺せ。いや、男もだ。幼子や老人にも容赦は要らぬ。鏖殺しにせよ』
零彩――色の抜け落ちた者、と呼ばれる無色無彩の鬼人は、元より奴婢の身分にある。たいてい身体が小さく力も弱く、僻地で粗末なあばら家に住み、多くは穢らわしいとされる仕事に就いていた。
むろん、時の鬼人王・月季の無慈悲な仕打ちに声など上げられるはずもない。
すべては寵愛する末の王子を死の予言から守るため。
仮に側室が睨んだとおり、他の王子を担ぐ勢力の虚言であっても、牽制にはなる。世継ぎは玄陽ただ一人、彼のために王命を以って百余人を殺すことも厭わぬのだと。
もっとも、すぐに全員が処刑されたわけではない。少なくない人数を屠るのは物理的に困難であり、また彼らが就いていた賤業を代行できる者など有彩の鬼にはいなかった。
一旦ほとんどは狭い牢に押し込められた。白鬼はとくに食肉としても好まれるため、何割かは生きているうちに食用の家畜として貴族に買い取られた。あるいはそれよりもっとおぞましい用途であったかもしれない。
何にせよ、罪もない零彩たちが捕らわれて虐げられ、次々に殺されたことだけが、冷淡な事実。
彼らの末路を嘆いたり憐れむ者はいない。濃色の貴族にからすれば無色の鬼など虫けらも同然だし、淡色の平民も、下手をすれば自分たちも同じ憂き目に遭わないとも限らない。目を瞑って押し黙るほかに道があろうか。
そもそも住む場所も隔てられていたものだから、白鬼の数が減っても実感がない。大多数の鬼人にとって彼らは初めから居ないのと同じだった。
緩やかな虐殺は百年あまり続いた。玄陽も幼子から少年になったが、その間幾度となく暗殺の危機に晒されていた。
彼は母の言葉どおり、腹違いの兄たちを忌避するようになった。その母が己を庇って死んだからだ。
下手人は捕えられても、黒幕が野放しのままでは、不安と疑念は拭えない。何しろ兄だけで十六人いて、その全員が敵なのだから。――もっとも半数以上はすでにこの世の者ではなくなっていたが。
玄陽は気の休まらない日々の鬱憤に喘いだ。
なんとかして父が譲位するその日まで生き永らえねばならぬ。いや、御座を継いだところで安心できまい、瑰王家の血筋に生まれた瞬間から己の生に平穏など存在しえないのだ。
夜毎に苛立ちと失意が降り積もり、王太子の心は冬の池の如く凍てついた。
そのような折、牢獄を訪ねたのは何のついでであったろうか。とうに何人目か数えなくなった暗殺者の処断を決めるためだったか……もはや記憶にもない。
ある日、玄陽は鉄格子の向こうに、それを見つけた。
女。いや、まだ少女と称するのが妥当な、己と変わらぬ歳ごろの若い娘が地べたに竦んでいた。青白い頬は痩せて削げ落ち、衣服はぼろぼろで穴が空いている。
それは牢獄でいつ来るかわからぬ処刑を待つばかりの、哀れな零彩のひとりであった。幼いので処分を後回しにされていたのだろう。
かつてこの狭い牢室にすし詰めにされていた彼らも、今はほとんどが始末され、少女のほかにはほんの十数名しか残っていない。いずれも彼女と同じく憐れましい有様で、虚ろな眼をして無為に虚空を眺めていた。
玄陽が有象無象の囚人の中から少女に目を留めたのは、彼女が美しかったからだ。
骨と皮ばかりに痩せこけた垢だらけの身に、擦り切れた襤褸をまとっているにも関わらず。無残な身なりは容色を霞ませるどころか、むしろ美貌をいっそう惹き立てて、妙な迫力さえ抱かせている。
思わず足を止めた玄陽に気づいた少女は、あろうことかうっすらと笑みを浮かべた。
その瞬間、胸の氷は砕かれた。
玄陽が王家の者であると見てわからないはずはない。けれども、長年の収監に疲れ果て心身を失った者たちの中に在って、彼女の淡い微笑にはまるで敵意がなかった。
あるいは玄陽は、そこに亡母の幻想でも重ねたのかもしれない。もはや彼にそのような表情で接する者などいなかった。
玄陽はその少女を牢から出すように命じた。そこに置いておくことに耐えられなかったのだ。
当然、臣下たちは口々に反対した。無色の女を自由にして、まして己に侍らせようなどと、自ら予言を成就させようとする愚行ではないか、と。
ゆえに玄陽は娘の片角を折ることにした。
角は鬼人の命。失うことはすなわち死を意味し、片方だけでも妖力を大幅に失う。これで玄陽を呪い殺せるような力は残らない。
身体を押さえつけるのは刑務官に命じたが、鉄鋏は己の手で握った。初めてのことで力加減もわからないが、そもそも半殺しにするのに手心も何もないだろう。
血の海の中でも、彼女は悲鳴を上げなかった。衝撃に細い身体を折れそうなほど震わせ、両眼に涙を浮かべはしたものの、歪んだ笑顔がしっかりとその面に貼り付いて剥がれなかった。
なんという女だ――玄陽は絶句しながら彼女を抱き上げる。死体のように冷たい身体だった。
「……おまえは今、死んだ。ゆえに見窄らしい零彩の名なぞは捨てよ。これからは麗花と名乗れ」
その宣告は呪詛である。
額を赤黒い血に染め、彼女は頷いた。白皙に鮮血が映えて、この凄惨な景色の中でさえ、麗花はぞっとするほど美しかった。
今なお思う。
あの予言がなければ。それに憤った父王が零彩の処分を命じなければ、麗花は牢に囚われることもなかった。
彼女に出逢わなければ――愛する女の角を、この手で圧し折ることもなかった。
あれから数十年が経つ。今日まで何度抱いたかわからないが、一度も麗花は玄陽の愛に応えなかった。命じれば大人しく身体を開き、甘い声で媚態を演じても、女の意思はどこにもなかった。
今は褥も冷え切っている。夜伽をしていないのは、彼女がしばらく前に姿を消したからだ。
あれは初めから空虚の女。もとより生娘ですらなかった。あの美貌を看守たちが放っておかなかったのであろうことは、想像に難くない。
出逢った時点ですでに魂が死んでいたようなもの。もはや亡者と同じ、居ても去っても、何の痕跡も残りはしない……。
――否。
懐から小さな布包を取り出す。中身は漆塗りの小箱、蓋を開けば、先が二股に分かれた生成色の角がひとつ納まっている。
玄陽が自ら手折った、麗花の命の半分。
これがある限り彼女は玄陽から逃れられない。どこに居ようとも見つけ出せる。
赤黒い指先で角の表面をぞろりとなぞる。
あの女の身体にするように。
二股の谷間を、舌の先でぬろりと舐る。
あの女の身体にするように。
「首でも刎ねて飾ろうか。その眼前で犯してやろうか、おまえが涙を流すまで」
いいや。それすらまだ生温い。
賤しい白鬼の妾風情が帝を拒んで逃げた罪、如何に贖わせてくれようぞ。
――麗しい花よ。おまえは永久に、予のもの。
・** 黒玫瑰啜飲涙雨 **・
邪黒の帝は天を仰ぎて
雨中の花をば踏み躙り
猜疑渦巻く玉座に独り
絶えた白露の涙に渇く
*




