【コミカライズ】それでもいい、貴方と共にあるのなら
頑張っているお姉さんが報われるお話を書いているうちに、短編なのに長くなってしまいました。
お読みいただけると嬉しいです。
⭐︎思いがけず多くの方から感想や評価を頂きました。本当にありがとうございます!
わたしには婚約者がいる。
12歳の時から6年間、ふたつ年上のトーマス・ラザフォード伯爵令息と婚約を続けている。
貴族子女が通う学院を卒業したわたしは、卒業後すぐにトーマスと結婚する予定だった。
我がアディントン伯爵家には娘がふたり、つまり姉であるわたしと妹しか子どもがいない為、長女の夫となるトーマスをアディントン家の後継として迎える事になっていた。
彼は伯爵家の次男で跡取りではない為、お互いにとって好都合なのだ。
しかし、トーマスの兄の結婚が急に決まり、その相手が格上の侯爵家のご令嬢だったので、そちらを優先させることになり、わたし達の結婚は延期になった。
ちょうど良かった。その間に色々と準備が出来る。
「お姉様!お帰りなさい。トーマス様がお待ちかねよ」
仕事先から帰宅したわたしに妹が声を掛けてきた。屋敷の応接間に入ると婚約者のトーマスが立ち上がった。
「やあ、フィリシアお帰り」
柔らかな笑顔で迎えてくれる婚約者は、わたしの手を取ると、ソファへと導く。
「王都で流行りの菓子を手に入れたのでね。お土産に持ってきた。先にサスティナといただいたよ」
「お姉様、このお菓子本当に美味しくてよ!トーマス様の優しさに感謝だわ。さあ、お姉様も召し上がって?」
妹のサスティナは、そのお菓子がまるで自分への贈り物で、わたしにお裾分けしてあげるかのように嬉しそうに言う。
「そうね。でもわたしはご遠慮させてもらうわ。トーマス様はサスティナの為にお持ちくださったのでしょう?申し訳ないもの。
それよりサスティナ、レディはそんな大きな声を出さないものよ」
にっこり笑って妹のマナーを窘めると、妹ではなくトーマスが、え?と驚いた表情でわたしを見返した。
「僕は君たち二人に食べてほしくて持ってきたのだよ」
(わたしの為だけに、ではないのですものね)
「わたくし、仕事場でおやつを沢山いただきましたの。ほら、これ以上食べるといけませんでしょう?」と言って笑って言葉を濁す。
そう、わたしは太っている。
太っていると言っても、平民に混じればさほど問題のなく多少肉付きが良い程度だが、腰や手足の細さが美徳とされる貴族令嬢の中にあっては、否が応でも目立ってしまう。本人も気にして食事に気をつけていたり、菓子類を控えているのに、わたしの婚約者はいつも甘いお菓子を手土産に持って来るのだ。
そして、細くて折れそうな腰と透き通る肌を持ち、儚げで夢見る風情の妹が、婚約者の持参した土産のお菓子を大喜びで受け取ると、お姉様も早く食べて!美味しいのだから!と無邪気に勧めるのである。
(お菓子ではなくてせめて花束にしてくだされば良いのに)
わたしは少しだけ引き攣った笑顔でトーマスに礼を述べる。
若干、胸が痛むが、それも今日で終わる。
わたしと同じく王城内で仕事をしているお父様から、万事うまく進めたと連絡が来たのだ。
もっとも、「それで本当に良いのか?後悔しても知らんぞ」とお小言付きだったけれど。
わたしとトーマスの婚約は解消された。
父がラザフォード伯爵と話をつけた上で、貴族の婚約に関する決まりで、国王陛下のお許しもいただいたのである。
(これから、妹と婚約者は二人きりで堂々と逢えるようになるわ)
そんな事を考えていると
「フィリシア、庭のバラが綺麗だよ。散歩でもしないか?」
と、トーマスに誘われた。
ちょうど良い。婚約解消の話を告げるのにもってこいだ。
*
「結婚式が伸びてしまい申し訳なかった。僕はすぐにでも君と結ばれて、一緒にこのアディントン伯爵家を支え守っていきたいと思っている」
トーマスは申し訳なさそうに謝るが、今更である。それに、すぐにでも結ばれたい相手は妹だろう。
傍目にもふたりはお似合いの美男美女で、お互いが惹かれあっていることにわたしは気がついている。
わたしは妹と比べると美しくないだの平凡だのと、周囲から悪意を持って揶揄われて過ごしているうちに、他人の感情といったものに敏感になっていた。彼らの目配せや会話といったものから、本音を読み解くことに長けているのだ。
トーマスはわたしを嫌っているわけではないし、それなりの好意もあるとわかっているが、それはあくまで婚約者として最低限の好意であって愛情とは言えない。
わたしの見た目は全く大したことがない。平凡な栗色の髪に平凡な榛色の瞳をした太めの女なので、トーマスが連れて歩くには恥ずかしいレベルかもしれない。トーマスはとにかく見た目が良いのだ。金髪に緑の目で王子様のような外見に、穏やかで優しくて、可もなく不可もない性格の持ち主なのだ。
そのおかげで、デビュタントでもその後の夜会でも散々陰口を叩かれたものだ。そのような陰口に心を痛めるほど弱くはないが、女の嫉妬ほど厄介なものはない。
彼女たちの悪意は、わたしの生命力をガリガリと削りとるのだから。
ただ、わたしには自慢出来ることがひとつだけある。
相手の感情の機微、とりわけ好き嫌いの感情を一眼で見抜く力がある。
好意の種類、つまり恋愛感情か否かを判別する場合は、それまでのやり取りや状況から推測する部分もあるが、悪意というものは実にわかりやすい。全ての悪意が真っ黒いモヤで、顔がわからなくなる程覆い尽くしてしまうのですぐにわかる。
そしてわたしはその能力を活かして、現在王城で仕事をしている。
「バラ、お好きなのですね。わたしはあまり好きではないのですよ」
「何故?こんなに美しいのに?」
「棘がありますもの。美しくて香り高く、ついつい近付いて触れたくなりますけれど、迂闊に触れればその棘が指を刺しますわ」
「バラを贈る時は棘は全て取るものだよ」
「ええ、頂けるのでしたらね。わたくし、今までバラの花束を頂いたことがございませんから」
「僕は先日、花束を贈ったのだけど?」
「妹が受け取って花瓶にいけてましたわね。あの子、トーマス様に頂戴したと自慢して、とても喜んでいましたわ」
「あの花束は君への贈り物だったのだけどね」
「サスティナは、貴方から頂いたものは全て、わたくし達姉妹ふたりへの贈り物だと思っているのですよ。
ですので、お菓子だってわたくしより先に箱から出してしまうのでしょうね」
「サスティナ嬢へは何度も注意したのだが、君が許可したから良いのだと」
「トーマス様。もう良いのです、ご無理なさらなくても。
太って平凡なわたくしより、美しい妹を選ばれるのは殿方として当然ですわ」
トーマスがハッと息を呑んだ。
わたしはその表情をしっかりと目に焼き付ける。
「お父様からお許しをいただきました。わたくしフィリシア・アディントンは本日をもって、トーマス・ラザフォード様との婚約を解消いたします。
既にラザフォード伯爵様もお許しくださいましたし、陛下の許可もいただいております。
でもご安心くださいな。トーマス様とは、妹が改めて婚約者となりますから我が家とラザフォード家の関係は何ら変わりませんわ。ただ、婚約相手が代わるだけですから」
「フィリシア!君は、それで良いのか?僕は君を手放すつもりはないよ。僕たちは六年間も穏やかに愛を育んできた、そうではないのか?
愛し愛されていると思っていたのは僕だけなのか?」
わたしは、トーマスの発言に少し驚いたが、きっと彼は芝居かがった科白が好きなのだろう。その証拠に彼の本音は色味が薄くもやもやしており、恋愛感情をあらわす桃色ではない。わたし達の間に愛があるとすれば、それは単なる友愛に過ぎない。
「トーマス様、言葉にしなければ伝わらないことはありますが、言葉にしなくてもわかることだってあるのです。
妹を見つめるトーマス様のお顔、わたくしに向けるお顔と全く違います。もう偽らなくても大丈夫です。サスティナを大事にしてあげてくださいな」
トーマスは言葉を発する事なく傷ついた表情でわたしを見ている。
「トーマス・ラザフォード様、今までありがとうございました。こんな不器量な娘と六年間も婚約してくださって感謝しております。わたくしなりに貴方様を、ええ、お慕いしておりましたわ」
わたしは微笑んでお辞儀をした。そして一度も振り向かず屋敷内の自室に戻った。侍女がお茶をお持ちしますと言ったけど、ひとりにしておいて欲しいと告げて、ベッドに潜り込むとほんの少しだけ泣いた。
泣けるほどにはトーマスの事を好きだったのだと思う。六年間も側にいたのだ。ただ、その感情は恋愛といったものではなく、気の合う親しい男友達というものであったけど。
だからこそ、涙の理由は、妹に取られたことがただ情けなかったのだろうと思う。
しかし、彼が愛したのはわたしではなく、妹だったのだから仕方ない。
妹が彼を心底愛しているかどうかは、わたしには良くわからない。なにしろ身内や自分の感情は若干読みにくい。知らず知らずのうちに、心に制御をかけているのかもしれない。
*
翌日仕事場へ向かうわたしに、妹が突っかかってきた。
「お姉様!婚約者をほったらかしてお部屋に篭ってしまうってどういう事なの?せっかく持ってきて下さったお菓子も食べなくて、本当に失礼よ!
あの後トーマス様は青いお顔ですぐに帰られてしまわれたのよ。優しいトーマス様と喧嘩でもしたというの?」
「サスティナ、わたし達はそもそも喧嘩するような間柄ではないのよ。喧嘩できるのは相手を対等に見做しているからなの。
それより貴女に朗報があるわ。わたくしとトーマス様の婚約は解消されたの。これからは貴女があの方の婚約者になるのよ。詳しいことは、今晩お父様からお話があるはず。
良かったわね。ようやく好きな方と結ばれるのよ」
「何ですって!どういう事なの?」
心なしか、妹の顔が青ざめているようだ。
「言葉通りよ。あの方は貴女のことがお好きなの。貴女だってわかっているのでしょう?」
妹は言葉もなく立ち尽くしている。
こんな時でも妹は美しい。わたしは父親似だが妹は美しかった亡き母にそっくりで、ピンクブロンドに輝く髪と青い瞳をしている。知らない人が見たらわたし達は姉妹には見えない。
妹にはまだ婚約者がいないのだが、父はきっと、一番高値で売りつけられる相手、つまり高位貴族や或いは王族を相手に考えていたようだ。しかし残念なことに容姿しか取り柄のない妹にはあまり良い縁談は来なかった。
おまけに妹は小さい頃は身体が弱かったので、心配した父が家庭教師を付け、貴族学院へは通わなかった。それゆえ仲の良い女友達もいない。
妹の世界は狭く、その登場人物は父と使用人を除けば、わたしとトーマスしか居ない。
あの子が身近な異性のトーマスに恋をしても不思議ではない。
そして二人が並んでいる姿はうっとりするほど綺麗でお似合いだと、メイド達がこそこそ噂していても、全く不思議ではない。
*
そんな事は認めないわと騒ぐ五月蝿い妹を置いて、わたしは職場である王城へ向かった。
顔馴染みの侍従に案内され、磨き抜かれた扉の奥へ入ると、わたしの上司がすでに待ち構えていた。
「おはよう、フィリシア。良い朝だね。おや、その顔はどうしたのかい?まるで失恋して一晩中泣き明かしたかのような疲れ切った顔じゃないか」
「おはようございます、殿下。わたくしの顔の事などどうでも良いのです。
それで本日のご面会はどなたでいらっしゃいますの?」
「ラザフォード伯爵の次男との婚約を解消したのだな。それはおめでとうと言って良いのかな?」
目の前の上司はこの国の第二王子であるエリオット殿下である。
わたしと殿下は貴族学院の同級生だ。ちょっとした経緯があり直属の部下として働いている。人使いは荒いが部下への思いやりに溢れる男前な上司である、と言いたいところだが、なかなかどうして食えない人である。
本来婿を取って伯爵家を継ぐ身であるので、わたしは仕事をする必要はない。むしろ婚約者とともに領地経営の勉強を始めるべきなのだが、殿下のたっての望みで、結婚するまでという約束で仕事を引き受けてから、かれこれ2年ほど殿下の部下となっている。
その仕事内容が、わたしの持つ特殊スキルであることは、殿下と彼の側近しか知らない。
そのため一部の令嬢がたからは、身の程知らずにも殿下に媚を売る勘違い女として嫌な噂を流されているが、婚約者がいることでその噂も今までは多少は抑えられて来た。
もっとも、婚約者と釣り合わないという陰口も叩かれていたので、どうあってもわたしは貶される運命なのだと思う。
そして今後は、妹に婚約者を奪われたという新たな噂がそこに付け加えられ、さらにわたしへの風当たりが厳しくなるのだろう。
「そういう事になりますでしょうか。トーマス・ラザフォード様は、妹の婚約者になりますの。ですのでラザフォード家と我が家の関係は何も変わりませんし、わたくしにとっては、歳上の義弟が出来るという事ですわね。確かにめでたい事です」
殿下は満足げに頷くと、今日お会いになる方の名前をそっと告げた。
そう、殿下の見合いに立ち会って、相手の女性の真意を見定めるのがわたしの主な仕事である。
今まで十人ほどのご令嬢との面会に立ち会った。その時はメイド服を着て、護衛騎士とともにひっそりと部屋の片隅に佇む。相手のご令嬢は、わたしのことをただのメイドとしか認識していないので、その時の態度もわたしの審査の中に入っている。
貴族学院時代に、この能力をうっかり殿下に知られてしまい、半ば脅されるように在学中から彼の部下となった。
それは密かに殿下を狙う人間の悪意を見極めて、それを殿下に伝えるという簡単な仕事ではあったが。学院卒業後は、殿下の婚約者候補のご令嬢の真意を見るという仕事が加わった。
他人の好意だけではなく悪意を受け取りすぎると、生きるための気力を吸い取られるのか体調が悪くなり、無性にお腹が空いてくる。
体調を崩した時に殿下は、城下で流行りの菓子や王城のパティシエに作らせた貴重な菓子をわたしに与えてきた。
食欲と自制心の狭間で葛藤するわたしに、「美味しいよ?」と、その整った顔であざとく勧める殿下の誘惑を断ることは、困難だった。
それはまあ、いわば餌付けのようなものである。
しかし、不調に一番効果があるのは甘いものであるのは確かなので、それらを美味しく頂いているうちに、わたしの体重はどんどん増加して、自他共に認める太めの令嬢になってしまった。
その結果、六年間続いた婚約の相手は、ほっそりと美しい妹へ心を移してしまったのだから、殿下には是非責任を取ってもらい、新たな婚約者を世話していただきたいと思う。
その言葉を告げるつもりは一切無かったが、心の中で思うくらいは良いと思うのだ。
「何もかもエリオット殿下のせいよ!」
そう言えれば少しでも溜飲が下がるだろうか。
*
さて、今日もまたご令嬢の見極めの後のお茶の時間に、テーブルの上に並べられたのは、色とりどりの丸い焼き菓子である。
なんでもマカロンとかいう流行りの菓子らしい。
わたしはそれを無言で見つめる。美味しそうではあるし、帰宅するまでの体調を考えれば、すぐにでも口の中に放り込みたい。
「あれ、どうしたの?食べないの?ほら」
殿下はピンク色のマカロンを摘んで、わたしの口元へ運んだ。
「あーん?」
「おやめくださいませ。わたくし本日はこれでお暇させていただいてよろしいでしょうか?」
「フィリシア、君の為に用意したのだが」
「有難いお言葉ですが、わたくしに甘い物を与えすぎですわ。
それでなくても醜い体をしているのです。これ以上太らせないでくださいませ」
「フィリシア、僕はね、女性の美しさは健康的で伸びやかな心と身体だと思っているんだ。痩せすぎの女性は心まで尖っていて、突き刺されそうになるんだよ。女性は、そうだな、君くらい肉付きの良いほうが、僕の好みなんだ。なんなら「申し訳ございません!」
わたしは慌てて殿下の言葉を遮る。
「それは殿下のお好みであって、世間一般の考えではございませんわ。わたくしのような太った女は貴族社会では自制心の足りない食欲に負けた自堕落な女と見做されます。
わたくしも新たな婚約者を探さないといけません。どれだけ魅力的なマカロンであっても、断固拒否いたします」
わたしはにっこり微笑みお辞儀をすると、踵を返した。
伯爵家へ帰ったらやらねばならない事が山積なのだから。
*
「お姉様!聞いてらっしゃるの?婚約の話、どういう事ですの?わたくしとトーマス様が婚約者になるって本当ですの?」
「あら、サスティナはトーマス様の事、嫌いなの?
違うわよね。だって貴女は、彼の事を熱のこもる目で見ているものね」
妹を虐めるつもりはないが、ついつい辛辣な言葉になってしまう。
「いえ、そんな事は、、、。わたくし、お姉様達のお邪魔をするつもりは一切無かったのよ」
「お父様もラザフォード伯爵様も了承済みよ。新しい婚約は既に国王陛下に提出され受理されたわ。貴女は安心してトーマス様と一緒にこの家を継いでくれれば良いのよ」
「でも、そうしたら、お姉様はどうなるの?まさか修道院へでも?」
妹の瞳の中に浮かぶ優越感という名の悪意に、わたしは苦笑いをする。なんてわかりやすい子なのだろう。
「心配してくれるのね。ありがとう。でも大丈夫よ。わたし、仕事を辞められないの。上司がなかなか離してくれないからね」
というのは嘘だ。
今日のご令嬢、モーリス公爵令嬢がエリオット殿下に向ける気持ちは本物だった。念のためにご令嬢のお父上の公爵閣下にも隣室に待機頂いたので、閣下のお気持ちもわかっている。あの父娘は殿下を利用するつもりはない。
殿下は第二王子であり、ゆくゆくは臣下に降る予定であるのだから、そもそも権力欲の強い人間は寄っては来ないが、なかには殿下を唆して、王位簒奪を目論む輩もいるのは否めない。
しかし、今回は大当たりだったようだ。人形のように大層美しく、華奢なご令嬢に、殿下もまた好意を持たれたのだから。
これで解放される、いや解雇されるのだとわたしは察した。
*
その夜、久しぶりに王城から帰宅したお父様にお願いして、退職後の身の振り方を相談した。
「殿下から呼び出されたよ。お前のことでな」
「それは申し訳ございませんでした。しかしながら、漸くエリオット殿下のお眼鏡に適う方が見つかりましたの。わたくし肩の荷が降りました」
「そうか。それでフィリシアの気持ちは変わらないのだな。
留学の件、本気だと?」
「はい。殿下の見合い相手の吟味、それに後継問題と妹の嫁ぎ先が一気に解消されるのです。これでわたくしは自由ですわ」
「その自由とやらがいつまで続くだろうか……」とつぶやいた父の言葉は、わたしの耳に届く事はなかった。
*
妹とトーマスの婚約が急遽整い、彼らは半年後に結婚式を挙げる事となった。
さすがにわたしの為に準備されたドレスは使い回せない。完全に無駄になってしまった。まあ、元よりサイズが合わないのだが。
わたしはリメイクして、妹達の結婚式に着る事を考えたが、それも無理かもしれない。
というのは、殿下の元を辞し、殿下が選んだとっておきのお菓子を食べなくなると、何故かわたしは痩せてきたのだ。
あの日の翌日、父を通じてわたしは退職届を出した。
部下になった時も正式な辞令など無かったので、そんなもの必要なかったのだが、これはわたしなりのけじめである。
殿下と最後に顔を合わせてからふた月、何の連絡もない。
わたしは殿下の役に立っていたのだろうか? せめて、今までよくやってくれたと、労いの一言でもあれば救われるのに。
今では、鏡に映る自分が見知らぬ他人のようで、毎日驚いてしまう。わたしは随分と痩せてしまった。
殿下があの公爵令嬢と婚約したかどうかはわからない。
父から何も知らされていないし、わたしは世間の噂話に疎い。
体重の減少が落ち着いたら、留学先を決めねばと思っていた矢先、殿下の側近である侯爵子息がわたしを訪ねてきた。特に断る理由もないし、二人きりで会うわけではないので、応接室へ通して用件を聞くことにした。
「フィリシア嬢は随分と外見が変わられた。余りの美しさに見惚れてしまったよ」
「はっきり仰って結構ですわよ。痩せたね!と」
わたし達は顔を見合わせて笑った。
「いやあ、本当に驚いた。フィリシア嬢の美しさにね。殿下はそれがわかっていたのだろうなあ。毎日毎日、貴女のことを褒めていたからね」
「まあ、お上手ですわね。それで、殿下のご婚約は決まりましたの?あれ以来お会いしておりませんので、お祝いも伝えられずにおりますわ」
「婚約はまだなんだ。殿下はモーリス公爵令嬢にも心が靡かなかったらしい」
「まあ!なんと勿体ないこと。あのご令嬢は今までお会いした方達の中で一番ですのよ。殿下をお慕いしているお気持ちに偽りなく、ただひたすら殿下の事を思ってらっしゃいました」
「そういう君はどうなんだ?殿下の気持ちはわかっているのだろう?」
*
バラの季節は終わり既に季節は夏。
わたしは今、我が家自慢の庭園の中にいる。
大輪のひまわりの向こうには、背の高い殿下の姿がある。こちらを気にしているが敢えて見ないようにと背を向けている。
それならばと、わたしも殿下に背を向けトーマスと向き合う。
「トーマス様。わたくし達の間には確かに嫌悪はありませんでした。だからといって愛情があるわけではなかったわ。
貴方は太っていくわたしを見て、ある時ため息をついて仰った。昔は細くて美しかったのにね、と」
「フィリシア!僕はそんな事は……」
「言った覚えはない?わたくしに直接仰ったわけではないの。貴方の隣には妹がいましたから。あの子が教えてくれたのです」
「それが僕の本心だと思っているのかい?サスティナが嘘をついたとは思わないのかい?」
「トーマス様がお優しいことは知っています。世間知らずな妹から頼られ甘えられて、嬉しく思ってらしたのでしょう。あの子は美しいし、何より無邪気ですもの。
でも無邪気だからと言って、悪意がないとは限らないわ。
嘘だとしたら尚更、妹にはわたしへの悪意があったのでしょう」
どうしても二人きりで話がしたい、謝罪させて欲しいと願うトーマスを断り続けていたが、全て話してすっきりしておいでと背中を押してくれたのは、殿下だった。
元の職場の仲間の侯爵子息は、殿下からの親書を携えていて、そこには殿下からの渾身の求婚の言葉が書き連ねてあった。
『毎日のお菓子を、この手で直接君に与えたいのだ。』と。
不覚にも、わたしは笑いながら泣いていた。可笑しくて嬉しくて。
その殿下の後押しもあって、今、わたしは元婚約者と対峙しているのだった。
わたしは気がついていた。
可憐で無邪気を装う妹が、わざとわたしとトーマスが二人きりにならないように立ち回っている事を。
彼からの贈り物を姉妹二人の為のものだと勘違いしているように見せかけて、勝手に開封していることを知っていた。
自分が先に受け取ることも、無邪気で悪気がないと見せかければバレることはないとそう思っていたのだろう。
妹はわたしの能力を知らないので、自分が胸に秘める悪意をうまく隠しているつもりだったのだろうけど。
姉から婚約者を奪うつもりはなかったのだろう。何しろトーマスと婚約、結婚すればこの伯爵家を継ぐ事になり、領地を任されることになる。
病弱で学院へも通えなかった妹は煌びやかな王都が好きで、何より絵姿で見る王族が好きなのだ。いつか王子様と偶然巡り合って結ばれることを夢見ていても不思議ではない。
妹はわたしが第二王子の元で手伝いをしていることを知らず、令嬢のくせに王城で仕事をするような魅力のない女だと思っていたようだ。
姉より上位に立ちたくてチヤホヤされたくて、トーマスに近づいただけなのに、その姉が婚約解消して三ヶ月後に第二王子が我が家を訪れて姉に婚約を申し込むなど、夢にも思っていなかったのだろう。
なんと浅はかで哀れなことだろうか。
美しいだけでは貴族令嬢はやってられないのよ、そう言って窘める事が出来れば良かったのだけど。
*
「トーマス様の幸せを願っておりますわ。これからは親族になるのですもの。妹をどうぞよろしくお願いいたします」
わたしは足をひいて腰を落とした淑女の礼をする。
「君は、いやフィリシア嬢は、やはりその、殿下と?」
「ふふ。さあ?」
そう言うと、ひまわりの向こうに立つ殿下が慌てて振り返った気配がした。殿下はとても耳が良いので、わたしたちの会話も聴こえているのだろう。
「わたしが辛かった時間に、殿下はいつも甘いお菓子を与えて、心身共に甘やかしてくださいました。
それは部下だからという理由であったとしても、わたしが殿下に救われたのは事実なのです。
ですから、殿下がお望みになるのなら、わたしはあの方の元で、一生部下としてお支えするつもりなのです」
足音が近づく。
目の前の元婚約者の目が見開かれ、慌てて頭を下げた。
振り向かなくてもわかる。わたしの背後に立つ人がどんな表情で立っているのか、学院で出会ってからの数年間ずっとこの人を見てきたのだから。
背中から抱きしめられたわたしは、人前ですよ?と軽く抗議をしてみた。
「一生の部下ではないぞ。一生の伴侶だ」
お腹に回された殿下の腕に力が込められた。それは温かく優しくて、何より愛おしくて。殿下の全身から感じられる深い愛情に足がふらつくほどで。
*
一年後、わたしはエリオット殿下と結婚した。
父は結婚式で男泣きに泣いた。
妹は、お姉様、おめでとうございます、と言いながらも、少しだけ悪意の籠った目でわたし達をみていた。その妹のお腹は少し膨らみが目立っている。
元婚約者のトーマスは妹の隣で眩しそうにわたしを見てから
「義姉上、どうかお幸せに。エリオット殿下、義姉をよろしくお願いします」と頭を下げた。
殿下は鷹揚に頷いた。
すっかり痩せたわたしは、殿下にひょいと抱き抱えられて、
式の参列者が投げる花びらのフラワーシャワーの中を進む。
「フィリシア、ありがとう。愛している」
礼を言うのはわたしの方だ。
変な能力を持った小太りの女を愛してくれて。わたしはエリオットの首に回した腕に力をこめて、顔を持ち上げた。
エリオットの頬にそっとキスをひとつ。
実はマカロンを食べずに王城を逃げてきてから、あの能力は失われつつある。
今はエリオットからわたしへの愛情以外は見ることは出来ないくらいだ。
わたしはそれでもいいと思っている。
これから先もずっと、貴方と共にあるのなら。
お読みいただきありがとうございます。