第978話 逃れ得ぬ代償
プリニオの脳裏は大いに揺れ動き、猛獣に追われる草食動物のように、心は恐怖に支配されつつも、心臓はドラムロールでも奏でるように絶え間なく鼓動を打ち鳴らす。
(こ…これも…ヴラスタさんの為…私の真の目的の為…)
恐ろしくて足が竦みそうな自分にそう言い聞かせて、心を振るい立たせる。
(もはや、幾つかの欠けはあるが、全体の作戦は最終段階に入ったんだ…もはや、魔族の勝利は揺るがないであろう… そんなところでソーマを手渡すぐらい…大したことではない筈だ…)
今から行おうとする自分の行為に対して、免罪符のようにそんなことを考える。しかし、そう考えたとしても、作戦の最終段階での裏切り行為、部下に対しては温情的であるが、敵に対しては苛烈なムレキシドからソーマを盗み出す行為…その行為が見つかった時には――想像するだけで足がすくみ、冷たい汗が首筋に伝う。
それでもプリニオは足を踏み出す。魔王城は増築され、巨大な魔族が歩いても崩れぬよう補強されているが、それでも足を踏み出すごとに、世界が崩れ落ちるような感覚に襲われる。
その感覚に耐える為に、プリニオの呼吸は浅く、喉に言い知れぬ渇きを感じる。
(大丈夫…大丈夫だ… 寄生魔の研究室にムレキシド様がいなければ…私がソーマを盗むことがバレなければ… 取引が成立すれば… ヴラスタさんが無事に帰ってくれば… 全てが上手くいくはずだ!)
プリニオは自分自身に言い聞かせるように、信じ込ませるように、その言葉を何度も何度も、神の教えのように頭の中で繰り返す。
そうしなければ、今から自分が行おうとする、魔族に対しての大罪の重さに耐えきれず、逃げ出してしまいそうになるからだ。
いつもの冷静沈着なプリニオであれば、自分自身がどの様な心理状態なのか、また、人の目には自身の仕草や表情がどの様に見えているかを気に掛けて行動できる人物であった。しかし、今現在はそんな基本的な事に気をかけられないほど、混乱しており動揺していた。自身の表情や仕草が尋常ではない事に一切、気が回らなかったのである。
そんな状態のプリニオが、魔王城の中を歩き続けて、城の魔族が増築した部分、ムレキシドが管理する寄生魔の研究室へと辿り着く。
研究室への入口である扉…それは物理的には廊下と部屋とを区切る出入り口でしかない。しかし、今のプリニオにとってはその扉の向こう側は引き返すことの出来ない、心理的な境界線であった。
扉の前に立ち尽くしたプリニオは、自身の喉が非常に乾き、ヒリついていることに気が付き、ゴクリと唾を飲み込む。そして、ドアノブに伸ばそうとした掌が、汗ばんでいた事にも気が付き、普段ならハンカチで拭う所を、着ていたベストで汗を拭う。
(大丈夫…大丈夫だ…イチローの言う通りソーマが寄生魔の解除に使う物であれば、魔族側がソーマを使うようなことは殆どない筈だ…だから、私が盗んだとしても誰もソーマが無くなっている事など気が付かない…だから、絶対に成功する! そして、勇気をもってこの扉の向こうに踏み出せば、ヴラスタさんが戻ってくるんだ!)
プリニオは自分にそう言い聞かせて覚悟と決意を決めて、ドアノブに手を掛けて回す。すると、プリニオの覚悟と決意の重さに反して、ドアノブはあまりにも軽くカチャリと回り、その扉が開かれる。
別に研究室の中は水中でもなければ真空でもない、しかし、プリニオはぐっと息を止めて踏み込む。
そして、無事に研究室内に入れたことを確認するとふぅーっと止めていた息を吐きだし、深呼吸をする。深呼吸を終えた後、プリニオは研究室の奥へと進み、周囲を慎重に見渡す。
(ソーマはどこだ…どこにあるんだ? 研究員でもいれば聞いてみるのもありか?)
そう考えた時、プリニオの後ろから不意に声が掛かる。
「どうした、プリニオよ」
プリニオは声がかけられたことよりも、その声色に心臓が口から飛び出そうなほど驚くが、自身の持てる精神力を総動員して、平静を保とうとする。
その声の主は…
プリニオはゆっくりと声の主に振り返る。すると、部屋の隅、研究室の入り口からは死角となる場所に、見慣れた漆喰のような白いきめ細やかな肌を持つ筋肉質の人物が、椅子に腰を下ろして佇んでいた。
その人物は、プリニオが振り返ったことにより、おもむろに立ち上がり、ゆっくりとプリニオに近づいて見下ろしてくる。
「ム、ムレキシド…様…」
自身を見下ろす肉体に圧倒されながらも、プリニオはその人物の名前を口にする。そう、プリニオに背後から声を掛けたのは、プリニオが一番出会いたくなかった人物、ムレキシド、その人なのである。
指一本でも自分を殺すことが出来る圧倒的な肉体を持つムレキシドを目の前に、プリニオは必死に冷静さを保ちながら、持てる頭脳を全力に回転させて対処方法を考える。
(なぜ、ムレキシド様がここに…いや!そんなことよりも、この場をどう切り抜け、そして、ヴラスタさんを取り戻す為に、どうやってソーマを手に入れるかだ!)
普段であれば、すらすらと容易く、盤面をひっくり返すアイデアがいくつも思いつくプリニオであったが、今の現状では、その頭脳はさび付いたのか、それとも摩耗しているのか、鈍く空周りをして、これぞというアイデアが思いつかない。
それでも、なんとしてもヴラスタを取り戻す為に思いついた言葉を、絞り出すようにムレキシドに告げてみる。
「い、いや…ムレキシド様… ムレキシド様がアシヤ・イチローの仲間を…篭絡なさったそうなので…私も…同様な手段を用いて…そのアシヤ・イチローの戦力を…削ぐことは出来ないかと…」
無表情・無感情の仏頂面で自身を見下ろすムレキシドに、プリニオは自分でも痛々しく感じる程の、しどろもどろの口調で説明した。だが、理屈は通っているとプリニオは考えていた。
(これならいけるはず…これならムレキシド様は納得して下さるはずだ! そして、話の流れでソーマのことを切り出せば…)
プリニオはそう自分を信じ込ませて、ムレキシドを見上げる。
すると、ムレキシドはしばし無言でプリニオを見つめた後、諦めるように目を閉じて、ゆっくりと嘆息する。そして、割り切れない思いを嘆息で吐き出した後、目を開いて落胆の瞳でプリニオを見る。
「残念だ…残念だよ…プリニオ…」
プリニオはムレキシドから発せられた予想外の言葉の意味を理解することは出来なかった。
「…は? な…なんのことですか…? ムレキシド…様…」
プリニオは湧き上がる不吉な予感に、震える唇で、必死に冷静さを保ちながら聞き返す。すると、ムレキシドはまるで説法をする僧侶のような口調で語り始める。
「人類だけに限らず、知性ある存在は皆、良からぬことを考えるのはよくある事だ…それらを胸の内に押しとどめているだけでは、それは罪にはならぬ…」
まるで自分の現状を言い当てている言葉に、プリニオは心臓が皮膚と服を突き破りそうな程驚き、首筋に限らず、冷たい汗が身体の至る所から流れ始め、先程唾を飲み込んだばかりなのに、ヒリつくように喉が渇き始める。
「なっ! 何の…ことを…おっしゃっているのですか!? ムレキシド様!?」
プリニオは裏返りそうな声をあげる。するとムレキシドは悲哀にもにた失望の瞳で口を開く。
「お前のことを言っているのだ、プリニオよ」
ゆっくりと…しかし確実に告げるムレキシドの言葉に、驚愕のあまりプリニオが装っていた冷静さは吹き飛び、自分でも分かるほど心臓がドキリと弾み、表情と身体が一瞬で石化したように強張る。
「そのプリニオの姿として、お前をこの世に押しとどめているのは、私の技術と寄生魔であることを忘れたか? そして、私は寄生魔を通して、その物が見たこと、触れたこと、そして感じたことも、全て把握できる… プリニオ、お前がソーマを欲していることは全てお見通しだったのだよ… そして、お前は考えるだけではなく…こうして実行してしまった…」
「あぁ………」
ムレキシドのその言葉にプリニオは全てを察した… ムレキシドがこの研究所に居合わせていたのは、偶然ではなく必然であり、その必然とは、プリニオ自身が本当にソーマを盗みにくるのか確かめる為だったのだ。
そして、察したのは自身の考えが見抜かれていた事だけではなかった。もはや、打つ手が残されていない事も悟っていた。
プリニオは緊張の糸が切れ、身体全身の力が抜けていき、だらりと床に力なく座り込む。
「プリニオ…お前とは大切な部下を失ったもの同士、分かり合えると思ったが、やはり、最後に分かり合えなかったか…本当に残念だ… 本来であれば、裏切り者はすぐにでも処すべきだが…お前は私と同じ魔王様の幹部…私が処罰を下す訳には行かぬ… よって、魔王様のお沙汰があるまでは拘束させてもらう… ヴェルトラウム!」
ムレキシドが名を呼ぶと、すぐさまムレキシドの腹心である高位のリッチが姿を現す。
「はは! ムレキシド様…ここに…」
「この裏切り者のプリニオを拘束して魔王様の沙汰が下るまでの間、幽閉するように」
「分かりました、ムレキシド様…」
ヴェルトラウムが答えると同時に、プリニオが魔法の力で拘束される。
「ヴェルトラウムよ、他にもこのプリニオを唆したネズミが、この魔王様の城内に侵入しておる! 直ちに捕えよ! 決して逃がすでないぞ!」
「分かりました、ムレキシド様、直ちに警報を鳴らし、そのネズミを直ちに捕らえましょう」
ヴェルトラウムは準備していたのか、手下の者に合図を送ると、城内全域に警報が鳴り響き、そしてアナウンスが流れる。
「城内に人間の侵入者が紛れ込んだ! 直ちに捕えよ! 繰り返す! 城内に侵入者が紛れ込んだ!」
そのアナウンスが響く中、ヴェルトラウムは屍のようにだらりと力が抜けたプリニオを引きずっていったのであった。




