第1011話 神々の抱擁
ピキリ
マリスティーヌの言葉は地獄の底で凍てついたアネレイトスの心にヒビを入れる。そして、それと同時にかつて天界にいた頃の記憶をアネレイトスの胸の奥底に呼び起こした。
しかし、気が遠くなるような地獄での日々が、再びアネレイトスの心を凍てつかせ始める。
「しん…られ…い…」
アネレイトスは俯きながらポツリと呟く。
「しん…られない…」
再び呟く。
「信じられないわ!!」
アネレイトスは顔を上げ絶叫する。神の拳を自身の怒りの拳のようにマリスティーヌに叩きつける。だが、今までと同じようにマリスティーヌは涼しい顔で受け流す。
「信じる信じないではなく、現に神々はフィリアさんのことを心配して下さっているから、こうして、私が降神できているんです」
「じゃあ何!? 私が人類に絶望して地獄の底に堕ちたことが間違いだというの!! 私が一人でいじけていただけだというの!!」
パシンッ!!
マリスティーヌはアネレイトスの神の拳を受け流すのではなく神の掌で受け止めて握り締める。
「いいえ、間違いではありませんし、私はいじけたっていいと思います」
マリスティーヌはアネレイトスの神の拳を全て受け止め握り締めた。
「だって、フィリアさんがこんなに深く絶望するほど…こんなに長く地獄の底で一人悩んでいたのは…」
神の拳を全て受け止められ、唖然とするアネレイトスをマリスティーヌは直視する。そして、言葉を続ける。
「フィリアさんが、真面目に…そして、真摯に…人々のことを思っていたからでしょ? どうでもいい人のことで、そんなに落ち込んだりいじけたりしませんよ」
そう言ってマリスティーヌは微笑み掛けた。
だが、アネレイトスは狂ったような叫び声を上げ始める。
「だったら…だったら! どうして!苦しんでいる私を誰も助けに来てくれなかったのよ! どうして! 誰も地獄に迎えに来てくれなかったのよ! どうして!どうして!!」
アネレイトスは白い長髪を振り乱し、駄々をこねる子供のように取り乱す。
「誰にでも一人にしてもらいたい時はありますし、一人にした方がよいと考える時もあります」
「そんなの言い訳よ!! 私はこんなに苦しんだのよっ!!!」
アネレイトスは金切り声を上げる。
「はい、その辺りは神々もフィリアさんを一人にし過ぎた、様子を見過ぎた、もっと早くに声を掛けるべきだったと…反省しておられます」
マリスティーヌは苦笑して答える。
「そんなの嘘よ! 口から出まかせよ!! みんな!みんな!! 私のことだって…どうでもよかったのよ! どうせ…今だって…あなたを使って私を倒しに来たのでしょ… 神々の恥さらしとして…」
アネレイトスは振りかざした髪の毛の奥から覗き込むようにマリスティーヌを見る。
「…フィリアさん、本当に、そう思いますか?」
マリスティーヌは真顔になってアネレイトスを見る。
「…えぇ…そう思うわ…」
アネレイトスは自嘲気味に答える。
「では、その身で確かめてください」
その言葉と同時に、マリスティーヌの両横に巨大な神の掌が現れる。それは今までのものよりも大きく重厚なものであった。
「えぇ…やってみればいいわ…私はもうどうでもいいから…」
今のアネレイトスはもう投げやりに、自暴自棄になっていた。アネレイトスは持てる全ての力を使ってマリスティーヌを攻撃した。しかし、全ての攻撃を受け止め、握り締められて、マリスティーヌが新たに出した神の掌に、もはや対抗する術を持たなかったのだ。
それと同時に、このままマリスティーヌに討たれて消えてしまえば、長く永遠に続くかと思われた苦しみから解放されるのではないかと考えたのだ。
そして、マリスティーヌの二つの巨大な神の手がアネレイトスを挟み込むように振り下ろされる。
アネレイトスは瞳を閉じて、自身が圧殺されるのを待った。膨大な神々の力で自身が擦りつぶされ形も残らないものだと考えていた。
だが、違った。
アネレイトスを包み込んだのは、無慈悲な圧力ではなく、まるで頬を撫でる春風のように…疲れた体を癒してくれる柔らかいベッドのように…か弱い幼子を愛しむような母親の腕の中のような… 温かく優しい抱擁であった。
ピキ
そして、その抱擁を通して、懐かしく愛おしい声がアネレイトスの中に響き始める。
「ごめんなさい」
「もうひとりにはしない」
「ゆるせ」
「おねがい、もどってきて」
「みんな、まってるから」
それは天界の神々の声だった。しかも、誰も彼も、アネレイトスを怒り、叱り、叱責するのではなく、今までアネレイトスを一人にしてしまった謝罪の言葉であった。
ピキ…ピキピキ…
「どうです? フィリアさん、これが『神々の抱擁』です。皆さんの声は届きましたか? 神々を許してあげることができますか? 自分自身を許してあげられますか?」
マリスティーヌはアネレイトスに歩み寄る。
「そして…自分自身にも慈悲の心を向けてあげてもいいんですよ」
マリスティーヌはまるで母親のような笑みをアネレイトスに送る。
パキィーーーン!
甲高い音と共に、長い年月アネレイトスの心を凍てつかせていた氷がガラスのように砕け散り、優しくて慈愛に満ちていた頃の心が蘇る。
それと共に、長い冬に積もった雪が雪解け水になったかのように涙が瞳から溢れ出る。
そして、アネレイトスは小さな幼子のように泣きじゃくり始める。
「うわぁぁぁん! 苦しかった! 辛かった! 一人で寂しかった! でも、もうひとりでいたくない! 一人はもういや! もう一人にしないで!!」
アネレイトスはわんわんと泣き続ける。マリスティーヌはそんなアネレイトスに歩み寄り、優しく…母のように抱擁する。
「そうですよね…一人は苦しいし、辛いし、寂しいですよね…アネレイトスさんと全く一緒とは言えませんが、私も一人でいた時は、苦しいし、辛いし、寂しかったです…」
マリスティーヌは師匠レヴェナントに先立たれ、イチローに出会う前の間の、一人寂しい日々を思い返す。
「だから、一人寂しく傷ついた心を、天界の神々と一緒に癒してください…みんなと一緒にいることは、楽しくて、愉快で、安心できますよ」
マリスティーヌはイチロー達との日々を思い返しながらアネレイトスを抱きしめる。
アネレイトスもマリスティーヌを抱き返しながら、ようやく母を見つけた幼子のように泣き続けた。
そうして、一頻り泣いた後、アネレイトスはマリスティーヌの顔を見上げる。
「ありがとう…マリスティーヌ…」
アネレイトスは涙で濡れた顔で笑顔を作る。そして…
「あなたに…後は任せるわ…」
そう言い残すと、アネレイトスは光の粒子となって、風に吹かれて天に舞い上がっていったのであった。




