モネラの王
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店のドアに施錠を施した後、先に駆け出し懸命に走っていた瑞樹へと直ぐに追いつき、話し掛ける。
「瑞樹君、瑞樹君、ちょっと待って。」
店主が瑞樹の肩に手を置き、焦らないようにと落ち着かせようとする。
走る速度を緩め、小走りにさせながら声を掛けた。
「それで、お母さんの様子は?」
「分かんない。父さんが、母さんが危ないから猫屋のテンチョーを呼んでくるようにって、そう言うから急いで呼んでこなきゃって、だからそれしか。」
「そうか…うん。瑞樹君、君のお母さんは大丈夫だから。絶対に死なないから、泣かなくていいんだ。」
瑞樹は涙を流さんと食いしばり、必死に足を動かしていた。
サッカーを習っているだけあって、足がとても速い。
力を抜いて走る癖のある店主は、後れを取ってしまう程だ。
瑞樹が自宅の門まで来ると慣れた手つきで開錠し門を大きく開き、店主を振り返り目で訴えて急がせる。
家に着くと、玄関まで掛け抜け、靴を脱ぎ、リビングまでの廊下を滑り込む。
「テンチョー、こっちこっち、リビングだよ。」
瑞樹がリビングの扉の前まで来てドアノブに手を掛けた時に、店主が声を発した。
「瑞樹君、待って!!開けないで。君は、ここに居て。」
どうしてそんなことを言うのかといった表情で、店主を見つめる瑞樹。
その時、リビングの扉が開く。
中から顔を出した瑞樹の父親に、腕を引っ張られて店主は中に引き込まれた。
「瑞樹、お前は二階に居ろ。母さんは大丈夫だから…大人しく二階で待っていてくれ。」
父親に必死に頼まれたら、ダダはこねられない。
分かったと返事をして、しぶしぶ二階へと上がった。
***
「いいのですか?あんな言い方で…。」
店主が引き込まれた際に尻もちをついて倒れたので、起き上がりながら発する。
「そうだけど、そうなんだけど、彼女がこんな状態なのを、瑞樹には見せられないよ。」
匠の目線の先には、瑞樹の母親が倒れている。
ソファーに横たわり、仰向けに手足をダランと伸ばした状態である。
目は白目をむき、口や耳から体液や脳みそが流れ出ていた。
確かに、こんな状態の母親を10歳にも満たない子供に見せるのは酷である。
「ですね。」
店主もそう答えるよりない。
「うわっ、めっちゃ怒ってるな…前回から五年は経ちましたか?今回は、かなり保った方ですかね?」
店主が流れ出た脳へとスポイトを挿しながら、匠に質問する。
スポイトの中身を空のシャーレへと移し、匠が蓋をする。
「ああそうだな。今回は五年持った。やはりあの試薬は彼女の細胞分裂の抑制にかなり効き目があったと検証できるだろう。毒素分泌量を抑えるのはまだまだのようだ。もっと改良せねば。」
そうブツブツと顎に手を当てて、匠が唸っている。
「まあ、とりあえず運びましょう。ドアを借りますね。」
店主はそう言うと、勝手口のドアに何処からか取り出した鍵を差し込む。
すると、ドアが一瞬光を放つ。
ドアノブを回し開くと、そこはほの暗い廊下であった。
足元に転々とする電灯が等間隔に見える。
「では、行きましょう。五稜郭へ。」
***
阿部さんを担架に乗せ、部屋の掃除を簡単に終えると、匠は二階にいる瑞樹の元へと向かった。
「出かけてくる。母さんの事は心配するな。大丈夫。夜には戻る。瑞樹、10分したら下りてきていいぞ。お前は何も心配することはないからな。」
そう泣きそうな瑞樹の頭をポンポンし、話し終えると二階から降りてきた。
店主と匠は担架を押し、勝手口のドアを開けると暗闇へと入っていく。
そこはどこかの施設の暗い廊下のようで、無言で押し進む。
担架が施設の廊下へと移せたら店主は扉を閉め、鍵を掛けた。
またドアが光を放つ。
そして光は消え、また仄暗い廊下へと戻った。
その空間は、非常口の光が存在を主張していた。
ガラガラとタイヤの擦れる音と共に2人の男が担架を押して進んでいく。
「そういえば、匠さん、阿部さんはどこですか?」
店主が問うと、匠は背負ったリュックを指さして、
「清子はここだ。」
と返した。
「え、リュックの中!?また漏れ出たりしていませんよね?」
店主が言うと、
「今回は大丈夫。何重にもシャーレにテープを巻きましたから。」
と、自信満々の顔で言い切った。
いくつもある扉を通り越して、一つの扉の前に来ると店主が手を伸ばした。
その扉には、ドアノブも、引手もなく、のっぺりとした板が枠にはめ込まれていた。
店主が手を伸ばした先に、何もない板からレバーハンドルが浮き出てきた。
「いつ見ても不思議な光景だな。」
ポツリと匠が零す。
「生体反応と登録した指紋に反応して浮き出るようになっている。まだ世間には出回っていない技術だからね。防犯にはとてもいいから、流行るとよいのだけど。」
店主がニヤニヤして話す。
扉を開けると、クリーンベンチ、薬剤、薬品や実験器具が棚に並べられ、作業机と椅子が置かれていた。
薄い埃が被っているので、普段はあまり使われてない様子である。
机と棚の間を通り、奥の扉へと進む。
扉をあけると、そこには手術台が置かれていた。
担架から手術台に彼女を移す。
「どうする?細胞は強化する?」
店主が匠に聞く。
「いいや、前と同じままにしておいてくれ。まだ試していない試薬があるから。」
「了解。」
店主はそう言うと、頭部を切り開いた。
「そこの冷蔵庫に入っているNo.326の検体を持ってきてくれる?」
脳以外の壊死した器官を丁寧に確認している。
「うん、これくらいならば大丈夫みたい。そこに置いて蓋を開けて。」
台にケースを置くと、蓋を開けた。
中には綺麗な脳みそが収納されている。
店主は両掌ですくうように持ち上げると、手術台に横たわる女性の頭に慎重に入れる。
それから暫く、頭をいじくった後、
「はい、元通り。」
と店主が宣言した。
店主が終えると、匠は鞄からシャーレを取り出す。
「ハハッ、これまた、えらく不機嫌だ。モネラの王が罵倒の嵐だよ。」
店主がシャーレを見てそう言う。
すると、匠は
「テンシュ様は清子の声が聞けて、いいですよね。」
と羨ましそうに話す。
そして、
「清子、ほら、治ったから戻って。」
と匠がシャーレに向かい話し掛ける。
シャーレの蓋を開け、中の液体をスポイトで救うと、鼻の奥へとそれを送り込む。
15分後、清子と呼ばれた女性の体に異変が生じる。
目をカッと見開き眼球が動く、それが治まると体が痙攣を始める。
瞬時に強い電流を浴びたかのように、体が跳ねあがるなど暫く続いた。
静かになると、匠が動く。
「到達したようだ。しばらくは俺のラボで様子見だな。」
「五稜郭じゃなくていいのですか?」
店主が聞くと。
「五稜郭は、緊急バックアップの為の日本先端技術を集めた施設。セキュリティは素晴らしい。とは言えそれは、外部からのものだけだ。中にいる以上、完璧に安全だとは到底言えない。そうだろう?寄生動物研究所に連れて行って療養させるよ。その方がまだ安心できる。」
匠が壁をチラチラ見ながら話す。
「まあ、五稜郭は、変人が集まる国家の機密施設ですからね。暴くことがお遊びの奴もおりますし、まあ、詮索されるくらいは、仕方がありません。」
細かいことは気にしないと言った様子で、店主は返答した。
「そうか…では、チャッチャと移動しましょう。」
匠が行うと、
「匠さん、知っていましたか?私は便利道具使いではありませんよ。」
と若干へそを曲げた店主がしぶしぶ従う。
店主と匠は来た道を引き返し最初のドアに辿り着く。
ドアノブに鍵を指し回す。
足を踏み入れると、そこは、日の光が溢れる別の施設の廊下であった。
***
ガチャ。
鍵を開け、室内へと入ると、そこは猫屋であった。
いつものスペース横たわるニヒが物音に反応し、顔を上げる。
「遅かったな。差しさわりなく終えたのか?」
珍しく質問してくる。
「ええ、いつもの発作でした…たった今、匠さんを家まで送ってきたところです。匠さんが阿部さんの無事を伝えると、瑞樹君も笑顔を取り戻していましたよ。彼を心配していたのでしょう?良かったですね。それとも、王同士だから少しは心配でしたか?一週間くらいでまた動けるようになるそうですよ。」
そう店主が話すと、
「ふんっ。」
と三毛猫は鼻を鳴らし顔を背け、また伏せて寝始めた。
どちらも心配であったようだ。
「ああそうです。瑞樹君の為にも、ラボと家を毎日行き来できないかと匠さんに相談されたので、例の扉の鍵を貸し出しました。という訳で、猫屋をしばらく休業します。芸能事務所の件も遅らせてもらうように連絡しておかないと。」
店主がそう言うと、
「鍵を寄生虫オタクへ貸したって言うのか!?お前の命を狙ってくる奴と結婚した変人だぞ、大丈夫なのか?」
と、ニケが心配そうな声で言った。
「そうですが、まあ大丈夫でしょう。それに阿部さんも毎回、本気で狙ってきてはいません。毒を含んだ食べ物を渡される程度ですから、解毒できれば何も問題ないですし、味は抜群に美味いですよ。まあ、もし私に何かあったら、入れ物を安易に直せる優しき者がいなくなりますからね。己を消せる者を毛嫌いする気持ちは十分に理解できますが、私がいないと彼女は今のままの生活を保っていけませんから、本気は出せませんよ。彼女は、瑞樹君を愛していますからね。よって、心配するようなことはないでしょう。」
***
翌日、元気を取り戻した瑞樹君が時間を潰しに喫茶店へとやってきていた。
昨日とは打って変わって嬉しそうにおしゃべりである。
その時、喫茶店のドアが開いた。
春の匂いが店内へと駆け巡る。
一気に押し開けたので、ドアベルが仕事をし過ぎていた。
音が鳴り止む。
そこに目をやると、入り口に人が立っていた。
大きなサングラスを掛け派手なシャツにジーンズ、サンダルというスタイルの陽気そうな男、大きなロゴシールをペタペタと貼った真っ赤なキャリーバックを後ろ手に引いていた。
「よお、帰ったぞ!ゼクス。」
その派手な男は片手を上げて、とびきりの白い歯を見せつけて、挨拶をした。
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