マンチカン
短編の続きはここからです。
202x年12月某日
雪の舞い散る東京湾にて。
消波ブロックに人の腕が引っかかっているのを、喫煙場所を求めてやって来た倉庫管理の従業員が発見した。
通報を受け、警察が出動。
検視の結果、生活反応が無く、死んでから粗い刃物により切断された腕であることが判明した。
さらに、DNA鑑定結果から該当する人物が見付かる。
5年前、都内で起きたストーカー事件の加害者、白崎徹也のものであった。
---事件の一月前。
ここは東北地方の都市郊外に位置する閑静な住宅街。
その住宅街の一角に、一見すると店であるのか分からないような、看板のない喫茶店がある。
その喫茶店の名は、猫屋という。
その店の駐車場に、大型バイクが停まった。
その者は、ネックウォーマーに上着にパンツ、手袋に靴と隙間が一つも見当たらないくらいに、キッチリ着込んでいる。
大きな国道を走るにも、風がとても冷たく厳しい季節であるのだ。
ライダーが赤いバイクから降り、黒いヘルメットを外す。
現れた顔は、バイクを乗るとは思えないような風貌であった。
薄毛で頬がこけ、目が小さくショボい印象の男だ。
男は、スマホを取り出すと、画面を操作して地図アプリを見る。
周りを見回し、もう一度店に目をやると、確信したのか頷き、店の入り口へと近づいて行った。
ドアノブの横に掛かっている営業中という板を確認すると、男は勢いよくノブを回した。
シャランシャランと軽やかな音色が店内に響く。
ドアベルの音に反応して、店の奥から年若き青年が姿を現した。
ニヤニヤと笑う青年が男に向かって近づき、話し掛ける。
「いらっしゃいませ。ご利用は初めてですね。どうぞ、こちらの席にお座りください。」
少し奥にある木に埋もれたテーブルへと案内される。
男は座るとネックウォーマーと手袋を外し、上着を脱いだ。
手足がとても長く、ほっそりとした体形が露わになる。
あの大型バイクに乗っているイメージが、さらに遠のいた。
男は落ち着きなく、小さな目を見開いて店内をキョロキョロと見回している。
自分の領地でくつろぐ三毛猫を捉えると、ボーっと眺め始めた。
そこへ先程の若い店員がお水を持ってくる。
「いらっしゃいませ。こちらメニューとなっております。注文が決まりましたら、お呼びください。」
そう言って去ろうとした店員の腕を掴み、男が言った。
「シ、シロウに会いに来ました。店長に取次をお願いします。」
その言葉に、店員が目をギョッとさせ、驚きの表情を見せる。
そして、男の方へゆっくりと向き直った。
「お客様、猫をご希望ですか?」
店員が真顔で、少しずつ顔を近づけて問う。
「はい…ですので、店主を呼んでください。」
バイクの男は寒さ対策で下着を重ねて着込んでいるのだが、それだけではない汗が脇の下から一気に噴き出した。
一瞬の沈黙の後、店員が言った。
「店主は私です。猫田と言います。頼りなく見られますが、私がこの店の店主をしております。」
言い終えると、エプロンの飾りで隠れていた小さなネームプレートを指で突っつき、男へ見せた。
喫茶猫屋 店主 猫田 と書かれていた。
「随分若い奴だなとお考えでしょう?実は、私、こう見えて、年は結構取っているのですよ。」
ニヤニヤとした表情で、店主が自分を語るので、少しばかり気味が悪い。
「す、すみません…疑い深い性格なもので。」
今度は背筋をひやりとさせながら、男が謝る。
「いいえ、気にしておりません。それより、お客様、話をお聞きする間、お飲み物など如何でしょうか?本日のデザート、マーマレードのパウンドケーキもオススメです。」
店主が、あの表情のまま勧めてくるので、男は急いでメニューを見て、注文した。
「じゃあ、紅茶と本日のデザートを。」
「かしこまりました。」
店主が柔らかく微笑み、メニューを受け取るとカウンター奥へと消えて行く。
三毛猫は相変わらず、横たわって寝たまま動きもしない。
またそれを、男は店主が来るまでボーっと眺めるのであった。
「お待たせしました。こちら当店のオリジナルブレンドティーと、本日のデザートになります。」
テーブルに、湯気の立つ鮮やかな紅茶と、生クリームの添えられたパウンドケーキが置かれる。
「それでは始めましょう。」
店主がテーブルの向かいに座り、体勢を整えた。
店主が質問し、男が答える。
「お名前は?」
「白崎徹也です。」
「ご職業は?」
「○△でプログラマーを、先々週までしていました。今は無職です。」
「こちらには、どなたのご紹介ですか?」
「あ…警察庁の神原さんです。」
「カピバラか…」
「カピ、バラ?」
「あだ名ですよ。ほら、顔がよく似ているから。」
「ああ、確かに。そっくりですね。」
「でしょう。」
こんな時に緊張感のない話を挟むなんて、終始ニヤニヤして顔が緩んでいるし、この男は大丈夫なのだろうかと、白崎は心配になる。
「大丈夫です、安心してください。では、次に、白崎さんは、なぜ猫になりたいのですか?」
本題だな!?と、白崎に緊張が走る。
そして、猫になる決心をした経緯を、店主へ語り出した。
5年前、後藤紗理奈さんのストーカー行為および紗理奈さんの友人であった増山修吾さんへの傷害事件で、白崎は逮捕された。
被害者の増山さんの証言はこうだ。
当時、紗理奈さんがストーカー被害にあっていた。
彼女からその相談を受けており、事件のあった日、その事で紗理奈さんのマンションへ向かう途中であったという。
セキュリティは、まあまあしっかりしている8階建てのマンション。
その正面入り口から入ろうとしたところ、後ろから呼びとめられ、振り返ったら加害者の男が立っていて、鞄からカッターを取り出し、紗理奈には近づくなと脅してきたという。
その後、ストーカー行為をやめるよう加害者に言うと、加害者が逆上し刺してきたと証言している。
ほんとうに小さな記事だが、地方紙に載った事件だ。
だが、事実は違った。
結果から言えば、白崎はストーカーではない。
後藤紗理奈さんを守ろうとした勇気ある幼馴染だ。
事件の前から、2人は近所に住んでいた。
同郷、幼少からの幼馴染という他の男とは違う気心の許せる白崎に、紗理奈はよく悩みを相談していた。
ストーカーの事も、もちろん話していた。
そして、この事件のストーカーの正体を、彼女を守ろうと懸命に調べ、白崎は突き止めた。
犯人は、友人のフリをしている男、増山であった。
背も高く、端麗な容姿にも関わらず、性格が歪んでいる男。
そして、あの男は、人に言えない性癖の持ち主であった。
彼は、綺麗な女性の歪む顔に性的興奮を覚えるらしい。
紗理奈を精神的に追いつめることで、快楽を得ていたのだ。
これ以上は危険だ。
決定的な証拠を入手した白崎は、あの日に増山が紗理奈の家を訪れることを知り、急いで助けに向かった。
そして、正面入り口にての攻防が始まったのだ。
白崎は入り口で声を掛け、それ以上はマンションの奥へと進ませないために呼び止めた。
そして、増山に近づき、幼馴染に近づかないよう説得する。
背負ったバッグ内の携帯が震えているのも全く気が付かないほど、この男を近づけさせまいと強い気持ちをぶつけていた。
そして、増山がいつまでも真相をはぐらかそうとするので、ストーカーであると言う証拠を見せるために斜めにずらしたバックから携帯電話を取りだした。
証拠の写真を見せようとしたのだ。
その瞬間、増山が自らの腹にカッターを突き立てた。
白崎は、ショックを受けたが、兎に角、増山を助けなければと、駆け寄ってしまう。
すると、増山は携帯を奪い取り、大きく後ろへと大袈裟に倒れたのだった。
その光景を、少し離れた位置から紗理奈が目撃する。
監視カメラにも…。
全ての犯行は、増山を背にして巧妙に計算され行われていた。
刺した肝心な小細部は彼の腕や背中が被り、映っていないにもかかわらず、犯行映像として監視カメラの映像は扱われた。
それと同時に紗理奈が証言者となり、ストーカー事件のスピード解決へと、どんどん話が進んでいってしまった。
状況証拠で追い込まれる。
増山は、以前からストーカーの犯人は白崎であると、巧妙な話術で紗理奈に意識を植え付けていたようだ。
そして、白崎は逮捕された。
増山は、紗理奈への接近禁止を条件に白崎を告訴しないと言い出し、白崎は処罰を免れたが、紗理奈への信頼を失い、心に深い傷を負った。
増山は周囲への心証が良く、イケメンで実家が金持ちだ。
一方の白崎は物静かな性格で口下手、人付き合いが苦手である。
白崎の味方はゼロに等しかった。
人よりも大きな声を上げるのは、彼には難しい。
勇気も気力も無く、全て流されるままにしてしまう。
結果、白崎は後藤紗理奈への接近禁止命令を受け、職と住まいを失った。
半年後、白崎は上野にオフィスのある会社に運よく再就職が決まり、働き始めた。
3年過ぎると仕事も軌道に乗り、平穏な日々が続くようになる。
1つの仕事が片付けた日、ふと飲みたくなり、仕事帰りにコンビニで酎ハイを買い、公園のベンチで夜空を見上げ、チビチビ啜っていた時である。
男に声を掛けられた。
Tシャツを肩までめくりあげた筋肉隆々な日焼けした胸毛もモリモリな毛深い男であった。
彼は名前をきちんとは名乗らず、毛深く多毛だから、タモさんと呼んでくれと言った。
白崎も本名は名乗らず、自分はシロだと答えた。
それからよく2人で会うようになり、公園の近所の店で食事をする仲にまでなる。
その際にタモさんの連れとして紹介されたのが、神原さんだ。
その頃の白崎は、事件の事を忘れ人生をやり直そうと考えていた。
彼らとの出会いはとても心地よかった。
だが、1年後に思いがけない話を知り合いから聞かされたのだ。
その知り合いは、大学時代に唯一仲良くしていた同級生で、ツーリングもよく一緒に出掛けていた友人だった。
事件が起きた時も、白崎は紗理奈に対して、そんなことをする奴じゃないと、白崎が諦めるまで、警察に力強く訴えてくれていた熱い男でもあった。
その友人がどこからか白崎の連絡先を入手し、久々に連絡してきた。
そして、会って直接話したいと言うので日時を決めて会うことになる。
そこで、あの事件後に、紗理奈と増山が付き合い始め、子供が出来て結婚したのだと教えられた。
そして、先月、彼ら家族が偶然にも友人の住んでいるマンションに越してきたとのこと。
自分は中下層住みだが、彼らは上層階に住んでいるようで、その周辺で噂の的になっているという。
その噂は、奥さんと子供が虐待を受けているのではないかという話だとか。
旦那さんが帰宅をすると、風呂場に閉じ込められているのか子供の泣き声がダクトから響いてくる。
何かを落とす様な、叩きつける様なドスン、ガシャンなど音が聞こえる。
奥さんが常に肌を出さないような服を着ており、ある日、奥さんがロングスカートを履いていた時に、風で揺れる裾のから見えた肌には、うっ血した跡が見えたと証言する者もいたとか。
ストーカーは、DV夫虐待夫となっていた。
心配になって見に行ったのだけれど、遠目で白崎を確認した紗理奈が警察に通報してしまい、その翌日には、白崎は職場にも過去の出来事が知られ、仕事を辞めさせられたという。
自分には何もできなかった。
そこで、警察の神原に相談すると、思わぬ回答がきた。
“猫になってみないかい?“
そう言われ、ここを紹介されたらしい。
「お願いします。僕を猫にしてください。金は使い道も無く貯め込んできたので、そこそこあります。全部差し上げます。だから、僕を猫にして、僕の死体を偽装してください。増山が犯人であるかの様に、あいつが疑われるようにすれば、神原さんが動いてくれるんです。そう、約束してくれました。」
深々と、頭を下げる。
「なるほど、あなたはその後藤紗理奈さんの為に猫になるということですか…しかし、おかしいですね?あなたは彼女に一度裏切られているでしょう?あなたをストーカー扱いし、信じなかった。その報いを受けているのだとは、思わないのですか?」
店主が表情なく話す。
「信じてくれなかったときは、そりゃあ腹が立ちました。でも、それでも彼女は僕の幼馴染で、昔から優しい人なんだ…彼女は騙されていて…それを僕が一番良く知っている。騙されて結婚し、今は酷いDVを受けて…それに子供もいる…あの子を守らないと。」
まるで自分を説得しているかのようなセリフを吐き、白崎が苦しそうに返した。
「分かりました。では、次の満月の日の夕暮れに、もう一度こちらへいらして下さい。カピ…神原さんに確認してから、もう一度話を聞きたいので。」
店主がそう言うので、白崎は頷く。
約束を取り付けた白崎はデザートを平らげて店を後にした。
「ねえ、ニヒ。あれ、どう思いますか?」
白崎が帰った後、店主が寝転んでいる三毛猫に話し掛ける。
「あいつらが白崎を気に入ったのであれば、あいつは悪いやつではない、嘘をついていないだろう。疑うならば直接確認すればよかったものを。」
三毛猫が顔を上げて答える。
「いえ、そっちは疑っていないのですよ。問題はカピパラが何を考えているのかです。猫になった後は、カピパラに任せていると言っていたでしょう?彼、悪い事させられるんじゃないかって…それだと、後味悪いじゃないですか。」
頭を掻きながら、店主が真顔で話す。
「俺は金さえもらえればいい。だがお前は、人間が好きだからな。まあ、あいつに悪い事させるのならば、わざわざ猫屋に寄こして来ないだろう。」
「それもそうですね。うちに頼むのだから、目的は他の所にあるのでしょう。」
「おそらくな。」
傍から見たら、三毛猫が飼い主にニャーニャー鳴いてアピールしている可愛らしい一場面だ。
まさか、猫とヒトがこんな会話をしているなんて、思いもよらないだろう。
***
満月の日。
シャランシャラン。
ドアベルの音が店内に響く。
「あれ?コレ付けたんだ?」
少年が、店に入ってくる。
「やあ、瑞樹君。こんにちは。そうそう、最近、瑞樹君の宣伝のお陰で、お客様がチラホラと来てくれるようになったから、お客が来るのが分かるようにドアベルを付けたんだよ。」
「へぇ~、俺はそんなに宣伝してないよ。それより、コレ。父ちゃんがテンチョーに持っていけって。テレビが取材にくる有名なおはぎだって。いつも迷惑かけているから渡せってさ。いつもくれるお菓子のお礼だと思う…ありがとうございます。」
「ははっ、竜さんも気を使わなくていいのに。」
おはぎの入った透明パックを舌なめずりをしそうな目で眺め、嬉しそうに店主が話す。
「じゃあ、渡したから。」
瑞樹は背を向けて、入り口の方へと歩き出す。
「もう行くの?ちょっと待って。今、お菓子を用意するから。」
「いいよ。今日は人数が多いんだ。」
既に入り口近くまで来ていた瑞樹に追いつき、店主が紙袋を手渡しする。
「じゃあ、これを。お花型のボーロ。沢山あるからみんなで分けて食べて。」
中身を確認するのに袋を覗き込んだ瞬間、鼻の孔いっぱいに砂糖の甘くて香ばしい匂いが舞い込んだ。
瑞樹が唾を飲み込む。
「テンチョーサンキュー。」
瑞樹は元気よくお礼を言うと、急いでいるようで勢いよく店を出て行った。
瑞樹が店を出ると、赤い大きなバイクが駐車場へと入ってきた。
嬉しそうな顔の瑞樹がその横を通り過ぎていく。
バイクから降りると、ライダーは店内へと向かった。
***
シャランシャラン。
「いらっしゃいませ、白崎様。どうぞ、こちらの席へ。」
三毛猫の寝転ぶ場所のすぐ近くのテーブルへと案内される。
三毛猫は居ないようだ。
店主が水を運んできて、机に置く。
「濃いコーヒーを貰えないか?寝不足なんだ。」
白崎が目を指で押さえて、注文する。
「砂糖とミルクはどうなさいますか?」
「砂糖だけ欲しい。」
「かしこまりました。」
店主がカウンター奥へ向かう。
シャラン。
ほんの小さなドアベルの音が鳴る。
肘をついて床をボーっと眺めていた白崎の視野の中に、三毛猫が入ってきた。
さっきのドアベルの音…猫がドアを開けたとでもいうのだろうか?
驚きで、眠気が覚める。
「お待たせしました。」
店主がコーヒーを白崎の前へ差し出す。
「これは、サービスです。」
可愛いらしい器に花の形のボーロが入っていた。
「では、始めましょう。」
白崎の向かいに店主が腰を下ろす。
「あの後、神原さんと連絡を取りまして、白崎さんの今後について確認いたしました。詳しい話は聞いていますか?」
店主が難しい顔をして白崎に尋ねる。
「いいえ、僕が猫になった後、紗理奈を保護してくれるということと、僕の事を信頼できる飼い主へと引き渡してくれるという事だけは聞いています。それから、猫になってから、少し仕事の手伝いを頼むかもしれないとも言っていました。でも僕はそれでいいと思っています。神原さんに全てお任せしたので。」
「そうですか。それで、白崎様が納得しているのであれば、私どもには何も問題ありません。今夜決行となります。このまま進めてもよろしいでしょうか?」
店主はいつものようにニヤニヤしている。
笑う場面では全くないのに、不気味に笑う彼を見ていると一周廻って可笑しさを覚えてきていて、なんだか気が緩んでしまう。
口角を下げて、白崎は優しく答える。
「はい、お願いします。」
白崎は、店を離れ、最後のツーリングを楽しむことにした。
***
月が猫屋の屋根の真上に位置するころ、白崎は再び店を訪れた。
辺りは真っ暗である。
外灯の明かりを頼りに、入り口のドアノブを見つける。
そして、ドアノブ下の鍵穴に、出掛けに手渡されたチェーンの付いた鍵を差し込む。
カチャリ。
鍵の嵌った音がした。
キィー。
あのドアベルの音はしない。
扉をゆっくり押すと、光が漏れた。
覗いてもると中は白く輝きを放っていた。
輝きを放つというよりも、全てが真っ白いので、目がそう感じてしまっているのだろう。
恐る恐る身体を部屋の中へと進ませる。
全身が扉内に入ると、いつの間にか扉は閉まり、扉の境界線が白い壁へと一体化し、跡形も無く消えていった。
何もない白い部屋。
どこを見ても、白一色である。
遠くを見ていると、何かが蠢くような感覚がする。
その方角へと目を凝らし近付いて行くと、何かがあるのが分かる。
そして、黒いテーブルと椅子のセットが置かれているのだと、分かるようになった距離で、一度歩みを止めた。
あそこが会場と言う事なのだろうかと考え、ひと呼吸吐く。
すると、背後から声がした。
「白崎様、お待ちしておりました。」
振り返ると、いつもの野暮ったいTシャツにエプロンという格好でない、いつもとは全く違う身なりの清潔感のある店主がそこに立っていた。
扉も何も無いのに、この人も何処から現れたのか?と白崎が考えていると、足元でニャーと猫の泣き声が聞こえる。
三毛猫が足元をS字に通り抜け、目の前のテーブルへとサッサと歩いていく。
テーブルの手前まで来ると、三毛猫がこちらを振り返り、ニャーと一度鳴いて見せた。
こちらへ早く来いと言う事なのだろうと、白崎は足早に猫のもとへ向かった。
「どうぞ、そちらの椅子へ。」
店主がそう言うので、白崎は腰かける。
三毛猫が机の上へと軽くジャンプをして上ってくる。
「では始めるぞ。手を出せ。」
その声は後ろからではなく、目の前から聞こえた。
声の主は、目の前に居る三毛猫であった。
「え、ええ!?猫が喋った!!」
白崎はこれまでにない大きな声を出す。
「うるさい!猫が喋って何が悪い。」
三毛猫が逆ギレをする。
激しくキレている三毛猫の様子を見ていて、白崎は自身もかなり動揺していたと我に返り、心を落ち着かせ、平常心を取り戻した。
「あの…なぜ、猫なのに喋れるのでしょうか?あ…いや、そもそも猫なのでしょうか?宇宙人?いや、宇宙猫?」
白崎は冷静を取り戻しては居なかったようだ。
猫が突然喋り出したのだから、混乱するのは当たり前である。
「その先の答えを知りたいのであれば、あなたが猫にならなければ、お話しすることが出来ません。そういう決まりとなっております。」
いつものへらへら顔をした店主が、隣へ立ち、そう言った。
本当に大丈夫なのだろうか?
この男も相当怪しいのに、信用できるのか?
でも、こんな俺に親切にしてくれる神原さんやタモさんが大丈夫だって言っていたし…信じたい。
誰かを信じてみたいんだ。
「ええい、もうここまで来たんだ。男に二言はない!!君達を信じて、俺は猫になる。一思いにやっちゃってくれー!!」
白崎が男気を出して、叫んだ。
「おい、お前。俺様にやってくれだと!?“お願いします、どうか猫にしてください”の間違いだろうが!」
三毛猫がした顎を突き出したような角度で、近づきながら、凄んだ。
どんなに威圧的に凄んでも、猫なので愛らしいが勝っている…とは言えない。
「あ、はい…オネガイシマス、ドウカ猫ニシテクダサイ。」
声は小さくなったが、オウム返しをした。
「うむ、まあいい。では始めるぞ。」
「はい、よろしくお願いします。」
白崎が猫に頭を深々と下げる。
三毛猫の前足が、白崎の右手の手の甲の上へ乗せられた。
猫が口を大きく開く。
すると、口の奥の方からサラサラと白い光が漏れ出てきた。
白崎は目を丸くする。
漏れ出る光の量は多く、あっという間に三毛猫の倍の大きさになる。
迫る光に、白崎は目をギョロギョロさせて唾を飲み込み、強く目を瞑った。
次第に一点に集まるように丸い小さな光の玉の形を作って行き、瞬く間に大きくなると、白崎と三毛猫を包み、姿を覆い隠してしまった。
数分後、三毛猫だけが光から出てきた。
そして、光が小さくなり始める。
元々の白崎の大きさの光の大きさになっても、姿はない。
さらに光りはどんどんと小さくなっているのに、白崎の姿はまだ見えてこない。
光りがマンホールくらいのサイズになった頃、光が蠢き何かがいることが確認できるようになる。
さらに光が小さくなると、グレーと黒が混じる長い毛の束が揺れるのが見られた。
そして、その姿が短い脚から順々に現れ始める。
マンチカンだ。
先程まで白崎が座っていた椅子の上に、ちょこんとマンチカンが居る。
「よし、成功したようだな。」
ドヤ顔で、三毛猫は言い切った。
眩しさから解放されたマンチカンは、信じられないと言った様子で、しきりに周囲を見回し、それと同じくらい自分の身体を確認する。
暫くした後、マンチカンが言った。
「僕…本当に猫になったんだ…」
自分の足元の毛を見て、呟く。
「ええ、もう白崎様の見た目は猫ですよ。とても可愛らしいマンチカンです。お気に召されないのでしょうか?その場合は、ニケの説得となりますが。」
店主がそう答えると、
「何だと!?気に入らないだと!!」
と、三毛猫が毛を逆なでた。
「いいえ、違います。気に入らないなど滅相もございません。そうですか、僕はマンチカンなのですね。嬉しいです。ただ、まだ猫になった実感がわかず、気持ちがフワフワしている状態なのですが、嬉しいです。」
白崎が必死に弁解した。
「実感だと!?手っ取り早く分かる方法を教えてやろう。」
三毛猫が不敵に笑う。
次の瞬間、三毛猫がこう言い放った。
「伏せ。」
そう三毛猫が言った瞬間、マンチカンは自分の意志なく、体が動かされ、耳を倒して姿勢を低くされていた。
何が起こっているのか??
声も出せず、自分で動かした気が無いのにも関わらず、体は勝手に動く。
「どうだ?この俺様が、お前を動かしたんだ。この猫の王、ケーニヒ様がな!!これからお前は、猫の王の命令に背くことは出来ない。ニャーハッハーッハッハーーー。」
猫語では、ニャ~ニャ~としか聞こえないこの会話…ぜひ、副音声をお勧めしたい。
その言葉を聞いたマンチカンは、驚きで瞳孔を大きくし固まった。
「ど、どういう事でしょうか?」
マンチカンは言葉を絞り出した。
「だ・か・ら、俺様は猫の王。お前を猫に出来るのは、猫の王だからなんだ。そして、お前は猫になったから、猫の王には逆らえなくなった。それだけだ。」
三毛猫が面倒臭そうに言った。
「そ、そうなのですか??」
不安そうな白崎の声に、店主が横から答えた。
「よろしかったら、私が代わりに質問に答えましょうか?ニヒは、もうすでに飽きてしまっているようなので。ただし、私の話せる範囲だけですが、どうしますか?」
三毛猫に目をやると、舌をしきりに動かし、体を舐めて毛繕いを始めている。
「よろしくお願いします。では、その、ケーニヒ様がいう猫の王とは何なのでしょうか?」
それを聞かれ、いつものように、遺伝子実験の話をして店主は答えた。
終始驚いた様子の白崎には気を止めることなく、店主はニコニコと話し続け、人間から猫へとなったけれど、本来の猫とは異なる事も説明し、一通りの説明を終えた。
「とまあ、こんな所でよろしいでしょうか?」
店主が確認すると、
「はい…大丈夫…です。」
と、白崎が返答する。
「では、一度、店へ戻りましょう。」
店主がそう言うと、しゃがみ込んで床をなぞると、扉を引っ張り出した。
預けた白崎が着ていた服から鍵を抜き取り、鍵穴に差し込む。
ドアを開くと、白い靄と光が立ち込める空間が広がり、その空間へと一目散に三毛猫が乗り込んでいった。
それに続くように、店主が光の中へと吸い込まれ、消えて行く。
白崎も体は恐ろしく震えてはいたが、勇気を出し、光の中へと入っていった。
光りが目の前から消えた時には、見覚えのある空間に居た。
電気は付いておらず暗闇の中であるが、ここは、あの喫茶店内であると認識できたのだった。
カシャンという鎖の音がした。
扉がいつの間にかどこかへと消え、辺りは暗闇に包まれた。
マンチカンは張っていた気が一気に抜けて、床へ倒れ込んだ。
手が伸びてきて、お腹をすくわれ、テーブルの上へと店主に乗せられる。
温かいような冷たいような不思議な手。
「白崎様、これからあなたを世話してくれる方がもうすぐ猫屋へ参ります。お待ちする間、飲み物を用意いたします。ミルクと水、どちらがよろしいでしょうか?」
店主がそう聞く。
「み、水を…」
と、白崎は何とか返す。
店主が店の奥へと引っ込むと、店内に灯りがともる。
三毛猫は自分の寝床へと行くと、素早く丸まった。
その頃、白崎の動揺はすさまじかった。
全てにおいて、想像力が足りていなかった。
ミルクを皿から飲んでいる自分、先日まで座っていた椅子にはもう座れない自分、目の高さはまるで違い、移動するにも立って歩くことはない自分。
違和感しかない世界だ。
自分は特に猫が好きであったわけでも、猫になりたかったわけではない。
本当に猫になってしまったのだと言う戸惑いのせいで、今は何も考えられず、受け答えも曖昧だ。
先程の注文も、猫の飲んでいるイメージが強いミルクではない“水”と思わず答えてしまった。
恐怖心から来る地味な拒否反応。
まだ心が総てを受け入れられていないのだ。
この先、自分はどうなるのであろうか…怖い。
神原からは何も知らされていない白崎は不安に駆られ、後悔の念を抱き始めていた。
濡れ衣を着せられた惨めなあの時と同じことが起こるのだろうか…僕は皆に嘘をつかれて同じ失敗を繰り返すのか。
そう考えていた時に、店のドアが開き、ドアベルの音が鳴る。
シャランシャラン。
入って来たのは、黒のジャケットを着た白崎の唯一の友人、本田であった。
驚く白崎。
マンチカンの前まで来ると、本田はじっと見つめた。
「白崎か?」
「にゃあ。」
「そうか。」
会話が成立した。
「いらしていたのですね、本田さん。」
トレイに水皿を乗せた店主が背後まで来ていて、本田に声を掛けた。
「お、お久しぶりです、天主様。お元気そうで何よりです。」
「ハハッ、そのようにかしこまらないで。それよりも、ああ、もうお会いましたね。こちらのマンチカンが白崎さんです。」
テーブルに、水皿を置きながら、店主が言った。
「どういう事なんだ?店主と本田は知り合いなのか?」
白崎が聞くと、
「ああ、そうだ。昔からの知り合いなんだ。」
本田が普通に返事をした。
驚くことに本田は、猫語が分かるようだ。
「本田さん、そんなにナチュラルに猫になった白崎さんに話し掛けては、彼が本当の人間と会った時に問題が生じますよ。本来、猫と人間は、会話ができないのですから。気を付けてください。」
店主が苦言を投じる。
「ああ、そうか、うっかりしていました。」
媚へつらう手下の如く、店主に接する本田に白崎は違和感を抱く。
「白崎さん、本田さんを警戒しないでください。きちんと、説明しますから。」
店主が白崎の気持ちに感づいたようで、気持ちを落ち着かせる。
席に着くよう店主が促し、皆が腰を下ろした。
「白崎さんは、本田さんをよくご存知ですよね。これからは、彼があなたの飼い主となります。」
そう白崎は、店主から告げられた。
そして、その後にもっと驚きの事実を知らされることとなる。
「実は、本田さんは、もと猫だったのです。本田家で飼われていたブチ猫のたまちゃんでした。」
店主の言葉を聞いた途端に白崎が本田の方を勢いよく見る。
それに気が付いた本田が首を大きく縦に振った。
「彼は一人暮らしの飼い主がご高齢であったため、足腰が衰え始め、動けなくなることを不安に思い、人になり手助けをしたいと私達を尋ねてきました。そして、人となり元の飼い主に受け入れられ、本田環となりました。数年ほど飼い主と暮らし、御霊を見送ったのです。20年も前の話です。その後は、人間界で暮らし、今に至ります。」
「黙っていたのは、お前ももう分かるだろう?色々と秘密だったんだ。今まで言えなくてすまん。俺はお前とは逆なんだ。」
騙していたような罪悪感があったようだで、本田は白崎に謝罪した。
「謝らなくてもいいよ、理由は十分に分かっているから。これからよろしくな、飼い主殿。」
マンチカンは本田が飼い主で、かなり安心したのだった。
「それにしても、お前、マンチカンなんだな。意外だったよ。」
本田は白崎の猫姿を見た瞬間から、実は驚いていたのだと話した。
「何でだ?僕がマンチカンだと変なのか?」
マンチカンが不服そうに返答する。
「マンチカンの一般的な性格が、人懐こく好奇心旺盛であると、言われているからではないでしょうか?私も、今のあなたには、これは当てはまらないなと感じてしました。」
店主が口を挟み淡々と話した。
「ああ、そうだな…僕は、見た目で人を不快にしてしまうようで、昔からよく気持ちが悪いと煙たがられた。それが嫌だから、もう何年も人と関りを出来るだけ避けてきたんだ。一人の方がラクだと考えてしまった。だから大学でも誰とも関わらずに過ごそうと思っていたのだけれど、本田が仲良くしてくれた。実はあの時期は凄く楽しく過ごせたんだ。お前のお陰だ。ありがとう。」
マンチカンが見上げて話す。
可愛い。
「俺は、お前がイイやつだって知ってから、凄く仲良くなりたかった。だから、そうなっただけだ。」
はにかみながら本田が答える。
「いい奴だなんて…そう言えば、僕は君と別の学部だし、一切接点が無かったのに、何で僕の事を君は知っていたんだ?」
マンチカンは首を傾げる。
とても可愛い。
「猫が教えてくれたんだ。お前、キャンパス裏に捨てられていた猫を拾っただろう。俺のアパートはペット禁止だから食料だけ届けていたのだけど、突然猫が居なくなってしまって、探したんだ。そうしたら、君が保護をして里親を探しているということを知った。普段、周りと話さない君が、猫の為に積極的に行動しているのを見て、感動したんだ。絶対に仲良くなろうってその時に決めたのさ。」
「ハハッ、あの豪華なダンボールハウスにいた猫か。僕と君との絆はあの猫が繋いでくれたんだな。あの猫君に感謝だね。」
マンチカンの尻尾が大きく揺れる。
本気で可愛い。
「それにしても、お前、猫になったらメチャクチャ可愛いな~思わず抱きしめたくなるぜ。」
本田が抱きしめたい手を我慢して、押さえている。
「や、やめろよ。」
マンチカンが後ずさりをして拒絶する。
「そうですね、白崎様はとても可愛らしいマンチカンへと生まれ変わりました。どうでしょうか、今までの卑屈な精神をお捨てになり、本来のあなたを取り戻して生活してみては。」
店主がニヤニヤと話す。
もうこの笑顔は気味が悪いようで、なぜだか温かい気がしてくる。
「俺も、素のお前の方が好きだぞ。」
本田が続く。
「ははっ、愛の告白かよ。ありがとうな。」
マンチカンが首を垂れ、丁寧にお辞儀をした。
天使の様に激カワだ。
それからしばらく話したのち1人と一匹は店を後にした。
***
その2日後、東京湾にて、白崎徹也の腕が発見される。
検死の結果、彼はすでに死亡していると判定され、殺人事件として捜査が始まった。
容疑者は、増山修吾。
遺体の爪の間に彼の皮膚片が検出されたのだそうだ。
増山の左脹脛には引っかかれたような傷跡があったが、猫に引っかかれたものだと主張し、犯行も否認しているという。
シャランシャラン。
店のドアが開く。
ロングコートでマフラーを巻いたカジュアルな服装の本田が店に入ってきた。
上着を脱ぎ、カウンターへと腰を下ろす。
カウンター奥から店主が姿を現し、微笑む。
「いらっしゃい。ミルクティーでいいかな?」
「はい。」
店主が飲み物を用意する。
お湯を注ぐ心安らぐ音が、店内へと行きわたる。
「はい、どうぞ。」
店主に言われて、本田は目の前に差し出されたカップに口を着けて、飲みだす。
少し温めにしてくれているので、熱いものが苦手な本田の舌でいきなり飲んでも大丈夫なようになっていた。
「今日、白崎さんは?」
店主が切り出す。
「テツは、今日は神原さんの所です。検査と説明だそうで、夜まで掛かるみたい。俺はこっちで取材があるので。」
本田がカップを皿の上に置くと、既に飲みほしていた。
「そうですか。白崎さんは、今日、例の話をされるのですね。」
「ええ、おそらくは…。」
本田が暗い顔をする。
「どうかしましたか?」
店主が尋ねると、本田が静かに話し始めた。
白崎の死体の一部が見つかり増山が容疑者として警察へ連行された後に、マンチカンを連れて紗理奈さんの元を訪ねたという。
リビングへ通され、1歳過ぎたくらいの子供が玩具で遊ぶ横に彼女は腰を下ろし、本田はテーブルを挟んだ位置にあるソファーへと座らされ、話が始まった。
白崎が懸命に集めていた増山からの彼女への暴力や子へのDVの証拠品と、パソコンに保存しておいた彼がストーカーであった証拠を渡したそうだ。
本田が事前に聞いていた白崎の行動と気持ちを説明して、増山から離れたいならばこれを使うようにと預かったと、言葉を添えて差し出した。
その時に、彼女は震えながら受け取っていたそうだ。
受け取り、中身を少し確認した後、紗理奈が泣きながら語り出した。
「私は、あんなに優しかった幼馴染を信じなかった。それどころか、陥れてしまった。あんな男を信じて、本当に愚かだった。それなのに、こんな私なんかの為に、てっちゃんは動いてくれて…なんでもっと彼を…ううぅ。結婚してからの夫は酷かった。地獄だった。逃げられなかった。夫が捕まったのも、てっちゃんが助けてくれたからだ。死んでからも、助けてくれるなんて…死んでしまうなんて…もう謝ることが出来ないよ。ありがとうも言えないよぉ~うううううぅ。」
テーブルの上へと突っ伏した。
本田のリュックの中に隠れていたマンチカンが這い出てきて、テーブルの上へと飛び乗る。
そして、彼女の目の前に来ると、優しく一声鳴いた。
「ニャー。」
それに反応した紗理奈が顔を上げて、マンチカンに手を伸ばし、頭を撫でた。
「こいつ、テツって言います。白崎の代わりに、あなたを慰めているんだと思います。」
本田が強くそう言うと、紗理奈が泣きながら猫を見て、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、てっちゃん。ありがとう。ごめんなさい。」
マンチカンがどういたしまして、いいんだよと言うかのように、一声鳴いた。
「とまあ、そんなことがあったから、テツが猫になるのを止めるべきだったんじゃないかなって思えて…ねえ、天主様、俺はどうしたらよかったのでしょうか。」
本田は、白崎にとって、もっと良い方法があったのではないかと、今さらながら悩んでいるらしい。
「そんなの悩んでも仕方がないよ。本人が決めたことでしょう。」
「でも、もしかしたら、あの幼馴染とまたいい関係に戻れたかもしれないのに…色々知っていた俺が猫になるのを止めていたら、違っていたはずなんだ。」
本田の目に見えての落ち込みに、どうしたものかと店主が悩む。
店主が一つ息を吐く。
「あのね、今さらどうこう言っても仕方がないでしょ。未来は誰も分からないのだから。もしダメだったら、猫をやめてしまえばいいのです。まあ、後悔するのが趣味ならば、後悔してもいいけれどさ。一緒に反省はした方がよいですよ。今後、同じ過ちを繰り返さないように、反省して心に刻まないとね。それが終わったら、自分に出来る事を考える。人への強制は決してしてはいけない。彼が助けてって言ったら手助けをしてやる。それでいいんじゃないかな。」
本田が顔を上げて店主を見る。
やっぱり、彼はニヤニヤしている。
店主が続ける。
「本田さんはブチ猫の時と何も変わらないですね。いい事だと思います。でも、もっと人間らしくなりなさい。相手のことばかりにならなくていいのですよ。これからは1人で幸せになるよりも2人で幸せになった方が楽しいと思いますよ。きっとテツさんもそう思っているはずです。」
店主がそう言うと、本田はテーブルを見つめて黙った。
そして、暫くしてから、
「うん…やってみます。」
と、納得できたようで、小さく呟いた。
落ち着いてから本田が椅子から立ち上がり、上着を羽織っていた時に、声を上げた。
「あっ、天主様、知っていますか?とうとうあの人が日本に帰ってくるらしいです。やっと今春で任務が終わるのだと聞きました。それにしても長かったですね、10年でしたか?」
その本田の言葉に、店主が珍しく真顔になる。
「チッ、帰ってくるのか…あいつ。」
声は足元から聞こえた。
三毛猫だった。
猫はスタスタと早歩きで自分の寝床へと戻り、丸くなる。
猫の悪態はスルーして、
「そうですか、それはとても楽しみですね。」
と、店主がカップを布でキュッキュと磨きながら、あのニヤニヤした笑顔で言った。
話を終えて、店を出た本田の肩に、粉雪がひとつ乗り、瞬時に消える。
寒さに凍える足を動かし、おお振りにならないうちにと、速足でバス停へと向かっていった。
その日は数年に1度ある記録的な大雪となったそうだ。
ストックが全く無いので、ゆっくりになりますが、
1話ずつでも更新していけたらと思っています。
気長にオマチクダサイ。