スコティッシュフォールド
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新緑が色味を濃くする季節、日差しの強い日々が増え、汗ばむことが増えてきた。
東北地方にある喫茶店も季節に合わせた涼をとるための新メニューがカウンター内の壁にかかる黒板へと記されていた。
シャランシャラン。
ドアベルの音が店内へと軽やかに鳴り響く。
「いらっしゃいませ。」
出迎えるのはニヤニヤとした表情の猫屋店主、猫田剣だ。
入店してきたのは細身の中年男性であった。
そこそこ有名店の自国産スーツを身にまとっているが、何日も着ているのか、ワイシャツは寄れて、スーツのズボンと背中は皺だらけである。
「こちらの席へどうぞ。」
と、店主が案内をすると背筋を伸ばして歩き、引かれた椅子にストンと腰を下ろした。
店主はカウンター内へ戻り、レモン入りの水とメニューを手際よく運んでくる。
先程の席へと来ると、それらを置き、
「お決まりになりましたらお声がけください。ごゆっくりどうぞ。」
と、言い残し、カウンターへと戻って行く。
スーツの男は、去り行く店主に
「あっ。」
と、声を掛けようとするが思い直したのか、テーブルの上のグラスに手を伸ばし、水を掻っ込んだ。
勢いよく飲み干したため、口の端から少し零れる。
飲み終えたグラスを机の上へゴトンと降ろすと、口を腕の袖に近い手の甲で拭った。
目を瞑り、鼻から大きく息を吐く。
心を落ち着かせているようだ。
一先ず、メニュー表を手にして、中身を確認し、店主に向かって手を挙げた。
「す、すみません。注文お願いします。」
スーツの男がよく通る声を出す。
店主はいつもの胡散臭い笑顔を張りつけたまま、テーブルへと近寄っていった。
「ご注文は?」
店主が尋ねると、
「四郎を、し、四郎をお願いします。」
スーツの男は震える声でそう注文した。
「四郎でお間違いはございませんか?」
店主が聞き返すと、
「はい、ありません。四郎をお願いします。」
と、今度は力を入れてスーツの男は答えた。
スーツの男の名は、小室司と言い、国会議員の秘書を務めている。
そしてこの男は、現在、政争の渦中にいる人物であった。
小室の上司である国会議員は某省庁の大臣をしている。
総理とは名門小学校からの旧知の仲、派閥は違えど、入閣を許される信頼のおける優秀な同輩という人物だ。
いや、彼らはそれ以上の関係だ。
彼らの実家は裕福で先祖代々よきライバルでもあり、よいビジネスパートナーだ。
その関係は子にも受け継がれており、お互いに助け合い、不都合があれば隠し合う。
悪事をするのにも裏でコソコソ協力し合うそんな仲であった。
今、メディアで騒がれている事件は、週刊誌小ネタが発端のものであった。
ネットサイトでの身内からの内部告発により大きく拡散され大問題に発展した。
それは、知名度もある証券会社の汚職事件だったのだが、芋ずる式で次々と大物が引っ張り出されていくことになり、政界までも足を伸ばす黒い献金問題となったのだ。
連日国会で大臣とその秘書が追及を受けている。
今まで総理の座を引きずり降ろそうと藪を突いてきては蹴散らされてきた者達が、今度はそこから突破口を開こうと、躍起になっているのだ。
その為、この秘書がここへ来たのだろう。
今回の事案は、総理の裾を強く踏んずけてしまっているようだ。
店主は一つ溜息をつき、話を始めた。
「四郎をご希望という事は、猫になるお気持ちがあると言うことでよろしいですね。それは、あなたの意志ですか?それとも、どなたかからの強制なのでしょうか?後者であるならば、お受けできません。」
質問は、答える者に気づかい、優し過ぎず、きつ過ぎない音量、口調で語られた。
「誰かの為ですが…それは私の意志です…」
消え返りそうな声でそう発せられた瞬時、小室の膝の上で握られている拳に力が入る。
「そうですか…わかりました。」
その行動を見逃さなかった店主は、視線をそっと外す。
「なにか、お飲み物は如何ですか?」
メニューを開き、俯いていた小室に差し出した。
顔を上げた小室がキョトンとした表情で店主を見て、慌ててメニューを受け取る。
「お疲れのようですので、甘いものは如何ですか?自家製の季節限定ケーキやシャーベット、カキ氷が常連客に好評でして、あ、お腹が空いている様でしたら、お食事を。ボロネーゼはいかがでしょう?サンドウィッチやカレーライスなどの定番のものもありますよ。体調が優れないが、少しお腹に入れたいというならば、ポタージュもご用意できます。如何ですか?」
店主が小室の顔を覗き見しながら、言葉を掛けてくる。
風貌や言動から、酷く追い込まれていることを知り、気を使い食事を勧めてきたのだろう。
居場所がバレない為に、ずっと自宅に帰れず、上司の所有するマンションの1室に缶詰めの為、上司の遣いから差し入れられる粗末な食事しかしていない。
そう思うと、美味しい温かいものを食べたいと急に考える。
店主の気遣いに促されて、メニューへと視線を向ける。
「美味しそうだな…フッ」
小室は手書きのメニュー表の品目下に瑞樹くん評価と書かれた一行の感想文を見て、そう呟き、思わず笑った。
「じゃあ、この彼が星を三つつけているカルボナーラ、生パスタセットをください。」
「フフッ、かしこまりました。お飲み物はいかがなさいますか?」
「食後にホットコーヒーをお願いします。フフッ、ブラックコーヒーは苦いので要注意と書かれていますね。たっぷり砂糖とミルクを入れてください。」
「はい、たっぷりとお入れします。」
店主がカウンター奥へ引っ込むと、調理する音が聞こえてくる。
店内は静かで、BGMは流れていなかった。
日の光が大きな窓から店内に注ぎこみ、観葉植物に吸収されている。
のんびりとした穏やかな時間が、小室の心に安息を齎していた。
シャランシャランという、ドアベルの音が鳴る。
そちらへと小室は目を向けたが、誰かがドアを開け、入ってきた形跡がなく、首を傾げた。
ドアベルの音がしたのに、人が入ってきていないのだ。
不思議がっていると、足元をスッと何かがすり抜けた。
それが通った方向へ机より低い位置になるように体を傾けて覗き、目を凝らす。
三毛猫がクッションの詰まれた位置に寝そべるところが見えた。
「猫か。」
と呟き、姿勢を直すと、店主がトレイを持って、横に立っていた。
「お待たせいたしました。」
ニヤニヤとした表情で机にバケットに小さなパンが二切れと彩のよいサラダ、パルミジャーノチーズが山盛りにされたカルボナーラの皿を並べられていく。
「ごゆっくり。」
コップの水を継ぎ足して、店主はカウンターへと戻って行った。
小室は早速、サラダから食べ始めた。
健康診断の結果で高血圧気味だと結果が出てから、嫁さんに注意され、その習慣がついている。
ストレスを減らすのも、食生活を改善するのも今は全く出来ていない。
唯一、野菜を先に食べるだけを守っていた。
自分が突然いなくなったら、彼女はどんな顔をするだろうか…泣くのかな?
カルボナーラを口に入れる。
美味い…そういえば、あの子もカルボナーラが好物だと嫁さんが言っていたな…。
息子は今春、小学校へ上がったばかりだ。
まだ運動会も見ていない。
どうせ生きていても、仕事が忙しいからと行かせてもらえなかっただろう…。
彼の秘書になってから3年、仕事を理由に子供の行事への参加を断った事は幾度もある。
むしろ、参加出来た行事を数える方が早いだろう。
これからは、見ていきたいな…
美味しいカルボナーラを一緒に食べたいな…
そう考えが過り、小室は思い直した。
「あの、やっぱり、猫になるのをやめます。大臣ともう一度話してみます。」
そう言い残し、帰っていったのだが、彼は翌日にはまたここを訪れ、四郎をオーダーしたのであった。
***
「戻ってきてしまいましたか…」
店主がグラスを小室の目の前に置きながら言った。
「はい、そうなりました。」
申し訳なさそうに首を垂れ、小室が返事をする。
「いいのですか?」
「はい、決めましたので。」
正確には、“決められたので”なのだろう。
威圧的な説得と周囲から追い込まれている状況から、彼がそう言わざるを得なくしていることは分かっている。
彼はそれに自分でも気が付いているのだろうが、心が限界に達してしまっているから…考えるのを辞めて、従ってしまった。
「そうですか。分かりました。」
店主がそう言った時、ドアベルの音が鳴る。
蓮が学校から帰宅した。
「ただいま、お客さん?」
蓮がこちらに視線を向けて、黙って小室を見つめる。
「息子さん…ですか?」
まだ大学生でも通じるだろう見た目の店主に小学生くらいの子供がいるのかと、驚きを隠せず、小室はそう、店主に尋ねていた。
「いいえ、弟です。」
店主があの笑顔で答える。
それを見た小室は、何だか逆に怖い顔んだよな、あの顔と武者震いが起きた。
小室も蓮の方を確認するように振り返り、店主に視線を返し、テーブルへと視線を落とし、これはやってしまったと、しょっぱい顔になっている。
その様子を見ていた店主が、口を開く。
「フフッ、あなたはとても正直な人なのですね。そんなあなたがあの集中豪打を連日受けていたとは…大層頑張ったのですね。お疲れ様でございました。」
そう、店主が小室を労った。
小室は店主を見つめ、停止していた。
自分が労われたことが信じられなかったのだ。
連日、他者から投げかけられるのは、罵倒、侮蔑、悪意の籠った質問に責任追及、死への勧誘だ。
居心地の良い我が家へは帰れず、気の知れた者達とも会うことが叶わない。
疲れ果て、心が壊れかけていた。
そんな時に、店主の労いの優しい言葉は、どう反応してよいのかと困惑し、理解されたことへの沸き上がる高揚を連れてきた。
小室の頬に、涙が伝う。
自分が頑張ってきたことを他人が受け止めてくれた事実に、嬉しさが溢れ、止まらなかった。
気が付けば、涙と嗚咽があふれ出ていた。
「本当は死にたくない…家族と共に生きたい…そう思っていた。だが、もう遅かったんだ。大臣が言った。このまま長引けば、我々は悪者に成り果て、下手すると取り返しがつかなくなると。そうなれば、今の状況よりもさらに劣悪な状況に追い込まれ、家族にも影響が出てくると。家族…息子がいじめを受け、嫁が中傷されかねない…俺も、もう心が限界だ…だから、俺が墓まで持って行くことにしたんだ。そうすれば、嫁や息子は憐みの対象となる。大臣も俺の家族の面倒を見てくれると約束してくれた。だから、俺は猫になりに来たんだ。」
顔を上げられずに話す小室をジッと店主は見つめる。
「…分かりました。猫の件、お受けいたしましょう……小室様は猫になった後の預かり先を決めておられますか?」
店主が依頼を受けた後、今後の話を切り出した。
「あ、はい。大臣の家でお世話になることになっています。大臣の家にはすでに何匹か猫がいるので、一匹増えても構わないと、自分を支えてくれた大事な秘書であるから死ぬまで大事にすると言ってくださいましたので。」
そう言って優しく微笑んだ。
笑う事が暫くなかったせいか、笑顔がぎこちない。
「あの…私に、1つ提案があるのですが…」
そう店主が切り出した。
その後、今後の行き先を決めた小室は、前回と同じように猫屋の食事を堪能し、例の鍵を店主から預かるとタクシーに乗り去っていった。
満月の夜に会う約束をして。
***
初夏へと季節は移り変わり、日が沈んでも生温かな空気は地上に留まっている。
その日の満月は恋を叶えてくれる月と異名の赤い色をしたストロベリームーンであった。
一台のタクシーが猫屋の駐車場前で止まる。
タクシーから降りた背広の男が、疲れた様子で、首を回す。
小室である。
首を回している途中で、雲一つない空に浮かぶ赤い月を目にした。
珍しい色から、目に焼き付く。
思いがけない美しいものを目にして、感動に浸った。
ひと呼吸着くと、猫屋の入り口へと足を運ぶ。
鍵を取り出し、差し込んだ。
カチャリと音がして、ドアを押し、中に入った。
足を踏み入れると、そこは真っ白な空間である。
数歩踏み出し、完全に中に入ると辺りを見回した。
“白”だけが存在する空間。
身震いが起こり、不安が広がる。
先程、自分が入ってきたドアを確認する為、体を捻り、後方を確認する。
そこは、もうすでに周囲と同じ白だけの空間となっていた。
小室は酷い不安に襲われた。
その時、前方から声がする。
「お待ちしておりました、小室様。」
声がする前方へと急ぎ向き直る。
思ったより、近い位置に店主が立っていた。
顔が憑かず聞過ぎて、後ずさる。
「さあ、あちらへ。」
そんな、小室の挙動不審はお構いなしと、店主はニヤついた顔で小室を誘導し始めた。
後ろをついて歩かされ、どんどんと白い空間を歩き進んでいく。
ただひたすら歩く。
小室は少しばかり疲れを感じてきたので、前を歩く店主が振り返り、“着きましたと言ってくれないかな”と、心待ちにしていた。
だが、なかなかその時は訪れない。
気を揉んで、遂に小室から声を掛けた。
「あ、あの!!どこまで歩くのですか?」
そう言うと、前を歩いていた店主が足を止め、一気に回転し、向き合う形になる、
「着きました!ご苦労様でした…つい出来心が、楽しんでしまいました。」
ニヤニヤしたあの笑顔で、そう言った。
後半部分は早口なのと声が小さすぎて小室には聞こえていない。
一瞬、小室の心情は、こんなに歩かせてと、歩き疲れていたので腹が立っていた。
だが、着いたという言葉を思い出し、周囲を見回す。
両手を広げた店主の後ろに何かが見える。
首を動かすと、テーブルと椅子の1セットであると判った。
さらに彼が横にずれると、テーブルの上に三毛猫がちょこんと乗っているのが見えた。
「猫?」
キョトンとした顔で、猫を見つめて小室が口から零した。
「バカ面だな。」
目の前の猫からそう発せられる。
「えっ!?はぁ!!猫が喋っている…」
小室は目を見開き、猫を見て固まった。
そんな小室の事はお構いなしで、店主が背中を押してくる。
小室をテーブルの横に置かれた椅子へと無理矢理座らせると、店主は満足したように頷き、椅子とはテーブルを挟んだ反対方向へ移動し、喫茶店で客を迎え入れるカウンター内のように背筋を伸ばしエレガントに立った。
小室は混乱の中、彼の経験から何処か冷静な部分も持ち合わせていたので、座らされてすぐに切り替えできて、今の状況を把握しようと目で情報を集め出す。
とりあえず、目の前の猫を凝視した。
三毛猫である。
店内に居たあの猫だ。
毛並みの美しい猫である。
先程喋ったという珍事が嘘のように、目の前で猫が前足をグルーミングし、くつろいでいた。
「あ、ん?幻聴だったか?」
小室がそう呟くと、猫が舐めるのを辞めた。
猫が小室に視線を合わせてきて、言い放つ。
「幻聴ではない!」
違うようだと、小室は再認識し、考えを巡らせた。
一瞬でこの答えは出なそうだと判断し、考えるのを中断する。
猫に聞くことにした。
「あの、猫なのに、何故、人語が話せるのですか?」
「その答えは、猫になってからだ。聞きたいのならば、まずは猫になれ。」
三毛猫がそう言うので、困惑しながら店主の方へと目をやり、救いを求める。
気が付いた店主がニヤニヤしたあの顔で説明した。
「あなたの得たい情報は、彼にとっては秘密情報となりますので、あなたが猫になり、情報を漏らす心配がなくなってからでないとお教えすることは出来ないとのことです。」
なるほどと、小室は納得し、最初から猫になる事は決まっているので、とりあえず猫になることにした。
「猫にしてください。」
そう小室が言うと、目の前の三毛猫が、テーブルに手を乗せるよう命令する。
右手をゆっくり差し出すと、ぐずぐずするなと猫が乱暴に前足を乗せて来た。
次の瞬間、猫の口から大きく開かれ、光が漏れ始める。
呆気に取られている間に自身の体は飲み込まれていた。
どれくらいかかっただろうか、8分いや5分か?
前よりもスピードが格段に速くなっている。
光りは球体となり、その中から三毛猫がヒョイと抜き出てきた。
球体から出る際に三毛猫が
「一瞬は早すぎる。コントロールが難しい。」
と愚痴を零していた。
どうやら一瞬で行えるようになりたいらしい。
そうこうしているうちに、球体がしぼみ始め、何かが動いている影が現れる。
影から実物へとあっという間に変わった。
現れたのは、スコティッシュフォールドだった。
折れ耳で、まだ子猫である。
「おい、お前は子猫にしておいたぞ。息子が可愛がるのに丁度いいだろう。感謝しろよ。」
三毛猫が子猫にそう言うと、中身がおじさんなスコティッシュフォールドはまだ現実を理解していない様子で、ポーっとしていた。
性格は変わらないのでまたすぐさま冷静になり、自分の身体を観察する。
猫になっていることを確認し終えると、三毛猫に視線を向け、質問した。
「私はどうなっていますか?」
その問いには、店主が答えた。
「あなたは耳の折れたクリーム色のスコティッシュフォールドですよ。」
次々に小室は質問をした。
店主も三毛猫が猫の王であることなど答えられる範囲で、滑らかに答える。
受け答えがスムーズなので、猫になった者達がよく聞く質問であったのだろう。
「もうよいのですか?」
そう店主が聞くので、
「はい、もう聞きたいことは粗方聞けましたから。」
とうとう猫になってしまったのだと実感しているようで、小室は子猫に似合わず、陰りのある声で答えた。
「では、明日、飼い主の元へお連れしますので、今日はここでお休みください。」
店主が三毛猫の横に置かれたフカフカの寝床を指差し言う。
「はい、よろしくお願いします。」
これには嬉しそうな声色で返事をし、頭を下げた。
***
翌日、警視庁にて。
スコティッシュフォールドとなった小室は、彼の妻子の元へ引渡された。
小室をどう処理するかは、かなり揉めた。
失踪扱いにして、ほとぼりが冷めた頃に姿を戻してはどうかと言う話も出たのだが、世間の注目度の高い事件の為、失踪だと大掛かりに探さなければならなくなる。
よって、それは難しいと言う判断になった。
それに、本人がもう小室に戻る事は出来ないと断言しているのだ。
妻子を無責任な形で放棄してしまう結果となったことを悔やみ、残りの人生、罪を背負いながら生きて行くのだそうだ。
「あ、その猫ですか?」
妻子の元へ遺品を渡しに来た刑事の甘草が抱えているキャリーケースを目にし、小室の妻が興味を示す。
「はい、この子猫は、湊くんのパパ、司さんが湊くんの誕生日にプレゼントしようとしていた子猫だそうです。どうか、パパの分まで一緒に過ごしてあげてください。」
そう言葉を添えて、彼の息子の小さな両手の上にケースから出した猫をそっと乗せた。
奥さんは隣でその光景を、瞳を濡らし見つめていた。
息子は、無邪気に“わあ、猫だ!”と言葉を発しながら、手渡された子猫を慣れない手つきで持ちあげ、嬉しそうに眺めている。
「あの人が、死ぬ前に湊へと…名前を考えなくっちゃね。」
奥さんが涙袋をサッと拭い、そう言うと、
「あっ、宝!宝がイイ!」
湊が間髪入れずに答えた。
「どうして宝なの?」
母親が尋ねる。
「あのね、パパが僕の事をいつもそう言っていたの。僕はパパの宝だって。幼稚園の時に宝って何って聞いたの。その時に、大切で、大好きで、守らなければいけない者のことだって言っていた。だから、この子猫は僕の宝!大事にするんだ。」
満面の笑顔で、湊はそう言った。
母はその言葉を聞き、複雑な想いで顔を歪ませる。
我が子を護ると言った者は、もうこの世には居なくなってしまったのに…はらりと、涙が一滴落ちる。
子供に見られまいと顔を背けて、必死で堪えた。
子猫がひと鳴きする。
「にゃ~」
それが合図のように母親は笑顔を取り造り、湊に声を掛ける。
「そうね、大切に育てていきましょうね。」
湊の頭を優しく撫でる。
湊は頭を撫でられて、嬉しそうに母親を見つめて微笑んだ。
母親も笑みを返す。
***
その頃、猫屋では、瑞樹と共にサッカークラブに参加していた蓮が帰宅し、アイスティーを飲みながらカウンターで涼をとっていた。
グラスを磨く店主に話し掛ける。
「この間の、スコティッシュフォールドになった奴、アレはお前の知り合いなのか?何で深入りした?いつもならば、大臣の家へ有無も言わずに送り届けていただろう?」
あの時の話をぶり返した。
あの日、いつもの店主であるならば、小室が猫になると決めた時点で、行き先はいつもの大臣の家となるはずであった。
だが、そうならず、今回は小室に店主がワザワザ提案している。
「大臣の家には、現在、犬が3匹、猫が2匹います。今は。小室さん、実は、猫の他にも、犬の姿に変えれる者もいるのですよ。」
店主がそう言ったとたんに、行き先を大臣の家と考えていた小室は眉間に皺を寄せた。
「提案があります。あなたの妻子に飼い主になってもらうのはどうでしょうか?あちらに拒否されてしまったら、そこで終わりなのですがね。もしオッケーが出るならば、間地かで息子さんの成長を見守れますよ。ただ、いいことばかりではありません。あなたは猫になるのだから、言葉も通じないし、何かあった時に助けてやることもできない。それに、奥さまが再婚なさるかもしれない。それでもよいというならば、飼いネコとして見守ると言う選択があります。いかがでしょうか?」
小室は飼い猫になる選択をした。
妻子に受け入れられて、小室はとても喜んだ。
「なんで、提案なんてしたんだ?」
再び同じ質問を蓮が繰り返す。
「あ、いや、特別な理由はないんだよ。ただ、彼はあのメニュー表を見てくれて、私の作ったカルボナーラを美味いと褒めてくれたから…それだけ。」
店主がニヤついた笑顔で、ボソボソと答える。
「そっか、それならいい。ゼクス、もしお前の感情がそう言った行動をとらせたというならば、気をつけなければいけない。じゃないと、お前、消えるぞ。」
いつもの蓮とは違う圧迫感を漂わせ、注意を促す。
「ああ、分かっているよ。私は大丈夫。それよりも、君の方こそ、今の恰好が大層気に入っているようだね、君こそ、消えてしまうぞ!?」
店主は言い返す。
「ちゃんと分かっているさ、俺も肝に銘じないとだな。」
しばしの寂しさの滲む沈黙が流れた。
その後、アイスティーのお代わりを蓮が店主にお願いし、時は再び動きだした。
***
「あ、この前、うちに来ると思っていたA国の諜報員、あいつがC国に向けて出国する手続きを始めたって言うのは、テンシュ様に知らせないのですか?」
白崎が神原に向かい話し掛けた。
「まだいい。前回のこともあるから、彼らが出国してからでも遅くないと留め置いている。」
神原が答える。
現在、白崎は警察庁の情報システム課に所属し、神原へと報告を挙げている最中であった。
「分かりました。C国といえば、あの方が妙な動きをしています。先日、警察庁に来ていたとの報告も受けました。何か関係あるのでしょうか?」
白崎が心配そうに尋ねる。
「あの方は猫屋のお二人に比べてさらに奔放だからな、何を考えているのかサッパリ分からんのだ。ただ、この前、警察庁に来た理由は、菌の王へ会いに来ていたようだ。研究の助言を貰いに来ていたらしい。」
そう神原が答えると、白崎は、
「そうですか、それならば。」
と呟き、安心した顔をした。
少し前にエンゲルの命が脅かされた事件が起きていたとは嘘であったかのように、久方の穏やかな空気が、彼らの職場にも流れていた。
束の間の安らぎ