1 異世界召喚は便器と共に
あの日……。
俺は、原平 勇気は今まで生きていた中でも最大級のピンチと人生の転機を同時に迎えたんだ――
「ふぐぅぅぅぅ……ッ! あああああ……ッ!」
始まりは入社2年目を迎えた会社の帰り道、家までの道のりを歩いている途中だった。
怪我を負ったり、トラックに撥ねられたり、コンビニ強盗が店から出て来た瞬間に立ち会ってそのまま刃物で刺されたり……そんなちゃちい事じゃない。
「あああッ! も、もう少しッ!!」
じゃあ何かって?
クソが漏れそうだったんだ。
なんだそれ、と軽く思っているヤツは考え直した方がいい。
現在の時刻は18:20。
都内の夕方で、定時退社のサラリーマンやOL、買い物帰りの奥様や学生が溢れる道のど真ん中だ。
そんな中で水気の多いクソを漏らしでもしたら、悲鳴と共に写真を取られてSNSで拡散待ったなし。
社会的抹殺コースになるのは火を見るより明らかだ。
カバンの中に忍ばせている常備薬は既に無く、1秒たりとも気を抜けば俺のケツはクソのスタンピードを起こしてその場で暴れまわるだろう。
なら、途中にある店のトイレ行けって?
この近辺にあるコンビニや店は買い物せずにトイレ使用禁止か従業員専用という俺にとっての地獄エリアだ。
俺は昔から胃腸が弱い。ストレスや緊張が許容量を超えればすぐに腹へダメージが来る。だから俺は引越しや初めて行く土地ではトイレを把握する事から始めていた。
既に5年住んでいるこの街のトイレ事情は既に把握済みだ。故に、俺は家まで我慢しなければならない。
言い訳がましいが、今日は平和な1日になるはずだった。珍しく定時退社も出来て、仕事の途中に腹痛でトイレに駆け込む事も無かったのに。
いつもなら予兆を察知してすぐさまトイレに駆け込むのに。
「ああ……ああ……」
「ママ。あの人変だよ」
「見ちゃいけません!」
無邪気で無慈悲な子供に指を差されながらも、社会的抹殺コースに入らないようケツに力を入れ、脂汗びっしょりで内股になりながら悶え苦しみ歩いているとクスクスと笑い声が周囲から聞こえる。
もう既に社会的に終わりそうな匂いはするが、まだシャッター音は聞こえない。セーフ!
1人暮らしをしているアパートまで残り500m。
俺のケツの中では、
門番「お前はなんだ!?」
クソ「屁です」
門番「嘘をつくな! 下がれ!」
と、門を固く閉じてクソのスタンピードを防いでくれている優秀な門番がしっかり仕事をしてくれていた。
ありがとう。ありがとう俺の括約筋……。お前だけは俺を裏切らない。
そんな門番の想いに応えるべく、俺は残り200mになった位置で目を血走らせながらカバンから鍵を取り出す。
玄関ドアの前でもたつく事は許されない……!
内股でケツに力を入れながら部屋の前に(ケツの)命からがら到達した俺は、流れるように鍵を開けて今までのペースを乱さず靴を脱ぐ。
この間、実に2秒の出来事。10年以上も強制的に訓練されてきた俺の行動は澱みない。
だが、家の中に辿り着いたからといって慌ててはいけない。
ここで安心して気が緩めば玄関はグラウンド・ゼロとなってしまうだろう。
俺は素人とは違う。勤める会社では若輩で、営業成績も並みだが、これに関してはスペシャリストだ。
そして、カバンを放り投げながらもついに辿り着く。そう、俺はついにヴァルハラに辿り着いたのだ。
ゆっくりとスーツのズボンを下げ、ケツに力を入れながらゆっくりと座る。
さぁ、開放せよ――
「うおおおッ!! ふゥッ~!!」
ケツを死守していた門番が「開門ッ!! 開門ッ!!!」と激しく銅鑼を鳴らしながら俺の中のスタンピードを解放するッ!
「ん?」
だがその瞬間、グラグラっと小さな地震を感じた俺はキュッとケツを一瞬だけ閉門してしまった。
ああ、地震か~、なんて地震大国日本から出た事が無い俺はいつもの如く危機感を持たずに便器に座りっぱなし。
だが、アパートの揺れは次第に激しさを増し、バキバキと何かが壊れるような音も聞こえてきた。
「うわっ! やべえ!?」
俺は想像以上に大きい揺れを起こす地震に思わず声を上げてしまう。
座っている便器は地震の揺れに反応し、俺の尻を乗せたままグラグラと激しく揺れる。
壁に手をついて揺れに耐えながら地震をやり過ごそうとしている俺の耳に、頭上からミシミシと鳴る音が聞こえ始めた。
相変わらずケツに力を入れたままだった俺が、頭上で鳴る音を確かめるべく天井を見上げると――
崩れたトイレの天井が、今まさに俺の頭目掛けて落ちて来るところだった。
「うわあああああ!(プリリ)」
あまりの出来事にケツの力を緩めてしまい、下半身で天国を味わいつつも上からやってくる死の恐怖に目を固く閉じる。
反射的に頭を腕で隠して、頭上から落ちて来る崩落した家の天井に備えた瞬間。
五月蝿かった家が揺れる音や、何かが壊れるような音。さらには地震の揺れさえも感じなくなってしまった。
俺がいるのは真っ暗で無音な世界。
真っ暗なのは目を瞑っているからだが。無音なのは確かだ。怖いくらいに音がしない。
しかも天井が崩れてきていたのにも拘らず、痛みすらも感じない。
(ああ、俺は死んだのか)
だってそうだろう。さっきまで天井が崩れて来るところだったんだ。
きっと押し潰され、頭はグロテスクな状態になりながら、ケツ丸出しで俺は死んでしまったんだろう。
即死したらこんな感じに、痛覚すらも感じずに終わるのか。これが死後の世界なのだろうか。
そう考えていた次の瞬間。
『やべっ! 設定ミスった!』
若い女性の酷く慌てた声が脳内に響く。
何の!?
聞こえた声にツッコミを入れると――視界が強烈な光によって真っ白に染まった。
「成功だ!」
無音の世界は終わりを告げ、先ほどの若い女性の声ではなく、別の老人の男性と思われる声が俺の耳に届けられる。
声の主を確認するべく瞼を何度も瞬きして、ようやく目が慣れてくると……俺の目の前には白いローブを着用した聖職者っぽい爺さんが立っていた。
でもこの爺さん、聖職者っぽい身なりをしているのに髪は白髪混じりの青色である。
爺さんを見た後に周りを見渡せば、俺を囲むように白いローブを着た老若男女達が喜ぶようにガッツポーズを決めていた。
「誰だお前ら!?」
俺は酷く混乱した表情を浮かべていたと思う。
家のトイレにいたにも拘らず、目の前の景色はトイレの個室じゃないし、知らないファンキー爺さんは立っているしで大パニックだ。
だが困惑する俺を余所に、爺さんは俺の顔を見ながらニコリと笑って言い放つ。
「異世界の英雄よ! よくぞ我らの召喚にクセェッ!!」
もうお分かりだろう。俺の人生最大のピンチと人生の転機とは――異世界召喚されてしまった事だ。
便器と共に。