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五月十七日⑤


 大学の授業が全て終わったのは、夜の帳が降り切る手前だった。

 天気予報は半分が当たっていて、半分は外れた。夕方から晴れたのだ。現在は、西の空はぼんやりと橙色の陽を保っているが、もうあと数十分で、全て夜の暗幕の内に隠れるだろう。東南からの風は未だ冷たい。

 道を行く人々は、肩を縮こまらせながら、帰り道を急いでいる。それらの姿を憐れむように、数羽の烏が、鳴きながら飛んで行った。

 帰宅の途を、詩歌(しいか)は独りで歩いていた。雨上がりの後の水たまりを避けながら、歩を進める。彼女の周りには、ほとんど(、、、、)誰もいなかった。

 シュンは何とかというオカルトの研究サークルに行ってしまった。みかは下宿先が詩歌と反対方向なので、大学を出てからすぐに別れている。マナは家が遠い。授業が終わったらさっさと帰ってしまう。そして弟の宏輝(こうき)は――姉のちょうど五歩後ろを歩いていた。それは姉弟であるというより、どちらかというと、上司と部下、親分と子分、のような関係に見えた。

 二人が一緒に歩いているのには、不自然なことはない。帰る家は同じなのだ。それに、同じ時間に授業が終わって、大学に何ら用事もなかったとしたら、詩歌と宏輝とが二人きりになるのは、奇妙なことではなかった。

 様子がおかしいのは彼女らの距離感だった。見れば、大学を出てどこからか、いつの間にか、五歩分の間を開けて歩いている。近付いたり遠ざかったりはしない。そしてどちらも、歩み寄ったり、立ち止まったりしない。話し掛けたりもしない。仲の良い姉弟にしては遠過ぎて、赤の他人とするには近過ぎる。そんな奇妙な距離を、二人は保っていた。


「――――」


 誰もが首を傾げそうな二人の距離は、不意に均衡を破られた。家をすぐ近くに控えた手前の曲がり角。電柱の下に、詩歌がある姿を認めて立ち止った。宏輝は立ち止まらなかった。

 猫だった。詩歌の視線の先には、以前よりも行儀よく座り込んだ猫の姿がある。そいつは目前に来たのが詩歌だと判ると、目線を上に向けて、にゃあ、と言った。一昨日、昨日と会った。今日で三日連続だ。すでに軽い顔なじみの(てい)である。

 詩歌はリュックサックを下ろしてその場にしゃがみこんだ。中から昨日のキャットフードを取り出す。それを見た猫は、いよいよとばかりに腰を軽く上げて、食事を待っていた。


「――ねこ?」


 しゃがみ込む詩歌の頭上から声が聞かれた。宏輝である。彼は昨日も姉のこの行為を目にしたはずだが、それはシュンの後ろからだったし、猫がすぐに逃亡したこともあって、よくは見て取れていなかった。だから、今目の前で、姉が猫のエサやりをしているという珍しい場面を、目を丸くして見ていた。

 対して詩歌は全く弟を気にする様子もなく、残りのキャットフードを開封する。それから右手でぱらぱらと地面にキャットフードをばら撒いて、左手で猫の身体に触れた。この三日間で、詩歌は猫の扱い方が、だいぶ手慣れたものになっている。


「姉さんて、猫好きだった?」

「別に」


 宏輝の問いに返事は素気ない。そして短いその内容は、表情こそ変わっていないが、キャットフードを食べる姿を見ながら、身体を撫で回しているところを見ると、説得力はなかった。最初は驚いた風だった宏輝も、姉の戯れる光景を、じっと見守っていた。


「あれ……手が」


 ふと詩歌が何かに気付いて小声を漏らす。それから猫の右前脚をそっと掴み上げた。猫は急に脚を引っ張られたのがやや気に障ったか、非難気にひとつ鳴き声を出した。ただ詩歌が、簡単に手を離すつもりはないと理解したか、無理に引き剥がそうとしなかった。代わりに、右前脚を持ち上げられながら、身体を捻って、器用にエサを食べることにしていた。


「どうしたの、姉さん?」


 どこかいつもと様子が違う。しゃがみ込んだ後ろ姿に違和感を覚えたのか。宏輝は詩歌の隣りに同じく腰を下ろす。常に無感動を保っていたはずの横顔は、明らかに動揺を隠しきれずにいた。


「指がなくなってる……」


 普段の眠そうな目つきも、このときばかりは(みひら)かれた。細い肩は微かに戦慄(わなな)いている。

 視線の先の猫の右前脚は、すべての指を失っていた。肉球だけが、何故か脚の先端についている状態だった。ただよくよく見ても、少しの怪我もない。出血はないし、縫合されたような跡もない。まるで生来より畸形(きけい)であり、そもそも初めから指爪などないまま生まれたと言わんばかりである。昨日まで指があったはずの場所は、そんな風で、白い体毛で覆われていた。


「この子、元々こうなんじゃないの?」


 宏輝は姉と猫とを交互に見てから言う。勿論、姉の唯事ならざる様子は、彼の発言を真っ向から否定するものだ。とはいえ、昨日は猫の細部までを見たわけではない宏輝の発言に、罪はない。

 詩歌は掴み上げていた手を放し、立ち上がった。左手で、右手の甲を抑えながら。それは一昨日、確かに、猫の爪でわずかばかりの怪我をしたところだった。今はほとんど痛くないし、目立たない。それもそのはず、元々大した怪我ではなかったので、絆創膏を付けずとも、すぐに元通りとなった。しかしながら詩歌は、得体の知れない感覚を抱いていた。


「あ、姉さん」


 そして顔を伏せるように、再び歩き出す。宏輝は何事かとこちらを見上げてくる猫に対し、曖昧な笑顔をして、手を振ってから、詩歌の後を追った。五歩以上あった二人の距離は、あっという間に縮まった。

 宏輝が何か慰めのような言葉を吐く。詩歌は無視する。もう一度、何かを言う。また無視する。

 喜怒哀楽の起伏に乏しいひとは、いまこの場で、自分を(さいな)む感情の正体を知らない。唯一傍にいる弟の宏輝をしても、それに名前を付けることはできないし、慰安の言葉など正確に掛けようはずもない。ただただ七五三野姉弟は、二人して、家までの間に、生産性のない時間を過ごさねばならなかった。


 ――詩歌を呼ぶ声が、背後から、にゃあ、と聞こえた。

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