五月十七日③
授業が始まってすぐ。
今日使用されるプリント用紙が配布されているときに、誰かが小さく歯軋りした。それは誰にも見咎められず、また歯軋りの音も、誰にも拾われなかった。
一時限目の授業は何事もなく終わった。特筆すると、三分ほど開始が遅れた分、終了もきっちり三分遅く終了した。
詩歌は三人と別れ、次なる講義室へと向かう。その途中でマナと会った。
「おっす、詩歌」
彼女は何やら上機嫌に歯を見せて笑っている。右側だけ自己主張する八重歯は、高野マナの健康さと快活さをアピールしているようだ。そんなマナを見ながら、詩歌も軽く手を挙げて挨拶する。二人は、次の授業は一緒だった。
「ごきげんね、マナ」
何か良いことでもあったのか。歩きながら視線で訪う。対するマナはやはりご機嫌で、得意顔だった。
「村田さんの噂、聞いた?」
詩歌はその質問に対して、ほんの僅かに眉を顰める。在学者数三千を抱えるこのキャンパスで、こんなに同一の噂が一挙に広がるものなのか。つい昨日までは、全く、村田のむの字でさえ出てこなかったのに。加えて詩歌にとり、先ほどのシュンの話から、村田に対して良い思いはしていない。不審感と不快感とが、詩歌の胸中に去来するのは当然であった。
「怪我して入院してるって話?」
「そうそう。それでね、変な怪我で――」
「それは聞いた」
ぴしゃり、と詩歌は言い放つ。そもそもその噂自体、聞いて気色の良いものではない。個人的な嫌悪感はともかく、一日に何度も耳にしては、気分は害される一方だ。
しかしマナは、さらに得意げに話を続ける。なんでも、村田の連絡先を知っているというのだ。
高野マナはラクロスのサークルに所属している。女子ばかりのサークルだ。会員数十二名。女好きと悪名高いサークルの会長が、そういう団体に声を掛けていないわけがない。ラクロスの他の会員はともかく、マナは社交性が高く、明るい性格だ。絶世の美女、という形容詞には全く届かないが、特別悪い顔でもない。件の村田が、個人的に連絡先を交換しようとするのは当然と言えた。
「マナが、村田さんの彼女?」
「まさか! あんまりしつこかったから、番号とアドレス交換しただけ。ああいうのはね、田舎から出てきたばかりの女の子を騙して、食っちゃおうて手合いなのよ」
そんなのに引っ掛かったりしない、と怒りで顔を歪ませながら、マナは強く首を横に振った。『村田の彼女』というのは、彼女にとっての侮辱に当たるらしい。ただ村田に対する嫌悪感と、事件に対する好奇心とを天秤にかけたとき、どうやら後者が勝ったようだ。
マナは噂を聞いた直後にメールをした。『友だちを連れて見舞いに行く。食べたいものがあったら言って』と、概ねそのような内容だった。最近の病院は、携帯電話の使用はご法度でないらしい。一時間ほどで返信があった。
「都医大付属にいる。見舞いに来るなら、ミスドのフレンチクルーラーを希望する」
次の授業の教室に入り、二人は席に着く。座りながらマナは携帯電話を開き、昨日届いたらしい村田からのメールを読み上げた。
都医大付属とは、正式には私立東京医療大学付属病院という。東京医科大学病院と比べ紛らわしいが、それなりに歴史を持つ、別々の大学に付属する病院である。
「なんか……普通?」
詩歌は聞きながら、授業の準備をする。リュックサックから教科書と筆記用具を取り出して、既に机に広げていた。
「んー。そうなんだよね。噂が本当なら、滅多に他人と会おうと思わないよね」
得意気だった顔を曇らせてから、マナは不満そうに言った。確かにメールの内容だけを聞くと、重大さは感じられない。大学にいるときに、誤って階段から落ちて右手右足を骨折した。という話に尾ひれがついて、噂として大げさに広がったのではないか。周りから聞かれる奇奇怪怪とした話を信じるよりは、その方がよほど信憑性がある。
そう考えれば、新聞や地元テレビ局などマスコミが騒がないのも当然だし、警察だって調査には来るはずがない。右手右足の怪我は、大学構内で負うには大したものかもしれないが、可能性として考えるなら、充分に有り得るはずだ。
加えてマナの言う通り、右手と右足を逆にくっつけたまま、ミスタードーナツのフレンチクルーラーを食べる姿を、他人に見られたいものだろうか?
「でもまあ、行くって言っちゃたし……行くつもりでは、あるんだけど……」
マナの言葉尻は段々と小さくなる。まだ授業は始っていないが、シャープペンシルを取り出し、くるくると回す。回しながらちらちらと、隣に座るひとの顔色を窺っていた。
「――ねえ詩歌。今週の土日、ひま?」
「バイト」
意を決したか。マナは勢いよく詩歌の横顔に迫った。つまるところ、彼女は独りで見舞いに行きたくないのである。万が一にも噂が真実だとしたら、それはそれは大変に奇妙で恐ろしい光景を目の当たりにするに違いない。目の前で、右足で挨拶されたり、ドーナツを食べたりでもされたら、想像だけでもぞっとしないだろう。
それにも増して、高野マナとしては、ほとんど異性的な関心のない相手のところには、単独で行きたくないのだ。
マナは当然、友人である詩歌が、週末にアルバイトをしているのは知っている。自分の質問に対し、ほとんど反射的に断じられるのも、ある程度は理解していた。
「本屋さんだったっけ。何時から何時?」
「十一時から五時」
「――お願い! 詩歌、付き合って!」
「いやだ」
マナの願いは、詩歌をして予想できたものだった。両手を合わせ、拝むような仕草で、マナは言う。それは即座に、ぴしゃりと封じられた。詩歌にとり村田は、ほとんど面識がなく興味もない、赤の他人である。だから詩歌は、この上なくきっぱりと断じた。それでもマナは両手を合わせたまま「詩歌様、そこをどうか。なにとぞ! なにとぞ!」と大声で頼み込んできた。
二人のいる教室は一時限目と違い、狭い場所だ。全部で四〇人ほどしか入れない。そこに現在でも、二〇人に満たない人数しかいなかったから、何も知らない周囲の人たちが、不思議そうに視線を投げ掛けるのも無理はない。マナと違い、内向的な性質の強い詩歌である。普段周囲の視線を気にしていない風ではあるが、無用に注目を集めるのは望むべきものでなかった。
「分かった。うるさい、マナ」
結局、折れてしまった。答えた途端に、見計らったように講師が教室に入ってきて、授業の開始である。
「ありがとう」
明らかに気分を害した様子の詩歌であるが、その隣では、そう言って舌を出しながらにこやかに笑う姿があった。生来の人間性ゆえに、七五三野詩歌は、マナのような友人を持ったことがない。
高野マナと友人となったきっかけは、弟の宏輝だった。彼がいなければ、ほとんど交わることのなかったはずの二人なのだが、詩歌としては、ほとんど嫌がる風でもなく、どこか場合によっては、楽しんでいる様子だった。
「モスバーガーのオニオンリング」
小声で詩歌は告げる。隣人は頭に疑問符を浮かべながら、横に視線を向けた。発言者は正面を見据えたままだった。
数瞬後、マナは合点がいく。詩歌は、付き合ってやるから奢れというのだ。ちゃっかりしている、と内心でぼやきながら、マナは同じく小声で「了解」と言った。授業は何事もなく進んでいった。




