おとこが作った甘い匂いのお粥
おやおや、またお出でかい、新米の編集者さん。この時間じゃ、本当に東京を始発で出られたんだねぇ。どこと目当てもない田舎町のこんなジジイの話し相手にまた来るなんて、あんたも酔狂なお人だね。
ほらほら、あんたらの言葉でナントカ・・・・都市伝説っていったかねぇ。この間の昔話なんぞ、「何の世迷いごと」ってデスクは鼻も引っかけんかったろう。あれからあんたのところの週刊誌、一日遅れに順番に覗いてみたけど、どこにも載っとりゃせん・・・・そんな下を向かんでもええよ、何もイケズするつもりはないんやから。さぁー、あがって、けさ封を切ったばかりの祁門紅茶きーむんこうちゃの特級だ、甘露が昇ること間違いなしさ。久しぶりに遠縁の孫が遊びに来て、年寄の世迷い言を聞いてくれる、それで、いいかな。
さて、私があんたと同様の駆け出しだった頃の話だ。もう、その時分の空気を吸った者も数えるしか生きちゃおらんだろう。豪商、大地主がお大尽なんて呼ばれて、そこの石畳を闊歩してた残り香が未だまだ漂ってた。午ひる下りになれば、お天道さんが傾くのとは逆に通りばかりか路地まで花街の色香が、ジトッと湧いてきたもんさ。そこの欄干から顔だして階下を覗いてごらん。今じゃ煮切り醤油しか匂ってきやしないが、ひと昔前は女の首筋から立ち昇ってくるもんがプーンと辺り一面占めてきてねぇ、仕込みの匂いと音に混じったそいつが漂い出すと、もういけない。堀と通りを挟んだ向かいの色艶もないビルヂングに巣食ってる痩せた給料取りたちまでが、ムズムズはじめるんだ・・・・あたしかい、そうさねぇ、あと二度ほど逢って酒瓶でも挟んだら話したくなるかもしれないねぇ。
おやおや、またお出でかい、新米の編集者さん。この時間じゃ、本当に東京を始発で出られたんだねぇ。どこと目当てもない田舎町のこんなジジイの話し相手にまた来るなんて、あんたも酔狂なお人だね。
ほらほら、あんたらの言葉でナントカ・・・・都市伝説っていったかねぇ。この間の昔話なんぞ、「何の世迷いごと」ってデスクは鼻も引っかけんかったろう。あれからあんたのところの週刊誌、一日遅れに順番に覗いてみたけど、どこにも載っとりゃせん・・・・そんな下を向かんでもええよ、何もイケズするつもりはないんやから。さぁー、あがって、けさ封を切ったばかりの祁門紅茶の特級だ、甘露が昇ること間違いなしさ。久しぶりに遠縁の孫が遊びに来て、年寄の世迷い言を聞いてくれる、それで、いいかな。
さて、私があんたと同様の駆け出しだった頃の話だ。もう、その時分の空気を吸った者も数えるしか生きちゃおらんだろう。豪商、大地主がお大尽なんて呼ばれて、そこの石畳を闊歩してた残り香が未だまだ漂ってた。午下りになれば、お天道さんが傾くのとは逆に通りばかりか路地まで花街の色香が、ジトッと湧いてきたもんさ。そこの欄干から顔だして階下を覗いてごらん。今じゃ煮切り醤油しか匂ってきやしないが、ひと昔前は女の首筋から立ち昇ってくるもんがプーンと辺り一面占めてきてねぇ、仕込みの匂いと音に混じったそいつが漂い出すと、もういけない。堀と通りを挟んだ向かいの色艶もないビルヂングに巣食ってる痩せた給料取りたちまでが、ムズムズはじめるんだ・・・・あたしかい、そうさねぇ、あと二度ほど逢って酒瓶でも挟んだら話したくなるかもしれないねぇ。
世間じゃ〇〇景気なんて祭り上げていたが、一人ひとりの胸の中は大きな穴で乾いてた、そうゆう時代だった。
給料の二割、三割、多いやつなんて半分も此処に入れあげていた。一間間口のカウンターにカチューシャ仕立ての女の子数人おいた、そんな流行りに乗った店も出来てはいたが、まだまだ名入りの半纏姿の若い衆に急かされながら革靴脱いで上がる店が多かった。四畳半、下手すりゃ三畳の仕切り部屋で目当てのが来るのをじっと待つ。そんな手合の客に愛想と身体で媚びを売るんだから、女の穴の方がもっと大きく深く乾いていた。消えたり死んだりの話が巷の挨拶で途絶えることはなかったねぇ。
そんな時分かなぁ、あの男の話が挨拶ばなしに交じるようになったのは。初めて耳にしたときは、どこぞアタマの温ったかくなった女の拵えばなしだとみんな思ったさ、それが地に足のない幽霊みたいにここいら一体を廻り廻って、聞き伝えの話から「あたしのはなし」と言い出す女まで出始めて、あたしも当の本人だという女ふたりから聞いたよ・・・・・ところが、不思議なんだなぁ、この手の話しには珍しく尾ひれはヒレが付いてこない、みんながみんな一言一句おんなじ話なんだ。一度飲み込んだのをそっくりそのままの吐き出すみたいに、聞いてて時間が戻ってくるような妙な感じがしたねぇ。あんたにも同じ気分になってもらえるかどうか。まぁー、その時分のあたしに戻ったようなつもりで聞いておくれ。
「なにを探していたのか忘れたころ、ひょっこり出てくることってあるじゃない」って、まず云うんだな、「見つかるんだ」って。宴会終わりの酔客の塊から、すーと餅がひねり出てくるみたいに湧いて、目の前に現れているんだそうだ。それが、他人じゃない意識まで上って、正面向くと、急にまた反射するみたいにそこだけ穴が空いたように居なくなってる。そんなこんなが続いて、今のなんだったんだろうなーって気になり始めた晩、帰り支度したあと電柱の明かりを避けるように柱に持たれて待っててくれた。「あらっ」て、目の先で手を振ると、明かりが届かない路地に一旦は消える。そのまま家路へと歩き出すと、気配だけが二間と離れずに付いてくる。虫食いの明かりばかりの闇夜の道で、振り返らなくてもおとこの履き古して抜けた白いズボンから形の良いお尻が小気味よく左右に揺れているのは、わかっている。
やっとタコ部屋から抜け出て、一人前の、人並みの生活を手にした頃だ。六畳一間に流しがついて、好きなときに寝て好きなときに好きなだけ食べてもそれをとやかく云う奴が周りに一人としていやしない、聞かれる相手がいないのに何度も同じセリフばかり繰り返してると、今度はスースー安物アパートのすきま風ばかりが返事を返してくる、そんな毎日を気づき始めていた。そんなとき、白いやせっぽっちのおとこが長い立膝なんか抱えて座ってくれたら、すきま風の入り込む壁のちょうどいい按配になってくれる・・・・・・・眠りは浅いのに翌朝おとこが自分より先に布団から抜け出たのは気づかないらしい。昨夜の逢瀬がまずは身体を朗らかにしてくれて、いつもより少し遅い朝を迎える。柔かなまどろみは続いているのか、自然と指先はぬくもりの先を求めていく。そこは裳抜けになっていて、夢と現が断ち切られた反動で女は目を覚ます。はっ、としたあとで、今度は朝日の影しか差さない部屋の隅で来たばかりのときと同じ立膝でいる姿をみつけ、鏡には決して写せないほど手放しで震えてる顔を見せないようにと、背中向けて布団にもう一度寝直した。
すると、すぐに、そいつが鼻腔を擽ったんだ。「お粥たいたから、食べようか」
鍋の蓋を開けると、開けるまでじっと中に潜んでいた蜂蜜の匂いが白い湯気と一緒になって四角い部屋の天井までを一気に包み込む。既におとこが用意してくれた茶碗と汁椀それぞれが湯気で綿帽子かぶったみたいになってちゃぶ台に並んでいた。熱いだろうからと、持ちやすいほうの汁椀を渡され、箸を入れる間髪もいらぬまま汁をすするように粥は腹に落ちていく。一息でなく、ゆっくり長い時間がかかっているのに、息をつかぬ長いときが挟まっても苦しくなることはない。水の生き物が故郷の海に戻った安堵感に抱かれた静かさのまま、経っていく。こんなにも鼻腔は蜂蜜の匂いで蓋をされているのに、お椀の中には白い米粒より見当たるものはない。
「米と小鍋、勝手に使ったよ」
三口で先に啜り終えたおとこを見て、よくもこんなに熱いお粥を三口で啜れるものね、と思った。なにか言わなきゃと思ったが、一番に気になることに話が及ぶのが怖くて、二番目に気になることを聞いた。
「何が入ってるの、なんでこんな特別な味がするの」
おとこはそれには答えず、女が食べ終わるまで待って鍋と二つの椀を洗い始める。
「いずれ分かるさ」水の音に紛れていたが、振り返らずにそう言った。
「ご飯茶碗と汁椀、今夜までに買い足してくるね」そうして手荷物一つ持たないおとこはそこに居付いてしまう。
「それを、食べちゃったのよ・・・・・食べない人には、決してわからないでしょうけど」
当の本人だといった女は、しばらく黙り込み、粥の味を手繰り寄せて言った。それでもう胸も腹も一杯になったんだろう、そこから先からは店の酒にも料理にも口をつけることはなかった。そのとき思ったね、あー、この女にとってこの話は本物なんだって。
老人は確かめるように祁門紅茶を飲んだ。私も飲んだが老人のような温かさが蘇ることはなかった。
「まぁ一言で片づければ、いつも上手に身の置き所をみつけるヒモなんだろうね」
霞のできた私のあたまを古い蜘蛛の巣でも払いのけるように、老人は一旦は乾いた声を挟み込んだ。
「あの時分の、あーゆー女達にとっては金や食いもんと一緒で、つっかえ棒みたいな、なくてはならない物があった。誰もがおとこってわけではないし、おとこなら誰でもってわけでもない。こどもや親といった己れを引き渡しても守らなきゃって重いものじゃない。かみさま。そうそう、みんなのそれぞれをかみさまで括ったら、あの娘らも頷いてくれるやろ」
みんな それぞれの かみさまが、おまじないのように伝わってきて、私の冷えた祁門紅茶にも温かさが蘇ってきた。
「まぁ、いい男だったんだろうねぇ。むやみの金をせびるでもなし、悪い病気や癖を移すでもない。夜はササクレだった心と身体を抱いてくれて、朝はその特別な甘い匂いしたお粥を作ってくれる。これじゃ、女の方からの切れる道理は見つからんだろう、あたしなんぞより女のあんたの方がその辺の重さが分かるんじゃないかな」
無意識なのだろうが、老人が過去から必要以上に近づいてくるように感じた。つい今まで親しかった身内が急にその異性を意識し疎ましく感じるように。「何者だったんでしょうか、その男・・・どういった素性の・・・・」
「当時だって、そんな女たちが廻していく噂ばなし、誰もそれ以上の深堀りしたりはしないよ。もちろん、今となってはなおのこと。あの時分は、ヤマ師だのサギ師だのって呼ばれる食い詰めた連中が伝手もなく流れてきていたからね。いっときの話の口には上っても、それから後はプッツンさ。だいたいこんな小さな街で、上がりこんだ女以外に姿を見た者が一人もいないっていうのが、あんた達のいう・・・・」
「まさに、都市伝説ですね。で、どれくらい過ごしていたんでしょう、その、女の人たちと」
「3ヶ月から半年って云ってたけど、ホントのところは1月程度だったんだろう」半年もあれば、こんなおとぎ話でも少しは生活感の凸凹がくっついてくる。はなしの山がひとつなのが、その証拠だよ。
皆んなそのおとこに変なこと頼まれたって言ってたよ。起きて毎朝同じお粥を食べるのが習慣になった時分に、頼むんだってさ。ひとつとして依頼ごとなんかしなかったおとこが、そればっかりは有無を言わせないほど正面から顔を近づけて言うんだって。「4号の植木鉢を3つ、買ってきてくれ。窓の縁に載っけられる一番小さなやつを3っつ。それから此処の階段下の土でいいんで、鉢の7分目まで土をかぶせて窓に並べてくれ」って。聞き返しの「ねぇ、何それ」って声を跳ね返すように、家のドアからスぃーと出ていったそうだ。日中は、立ちあがるのさえ珍しいほど膝抱えてじっとしてるおとこの早い動きに面食らって、急いで荒物屋いくと植木鉢3っつ買い求め、嫌で嫌でしょうがない土いじりを始めるんだとさ。これが嫌で、田舎を出てきたっていうのにとブツクサいいながら慣れた手付きで、階段下の土をほじくり返し、鉢に盛る。計量したみたいどれも綺麗に7分目に収めてね。
「何を植えたんですか、それに」
「これだよ、これ」と、老人は手真似でお粥をすする真似をした。
火を止めて10分経った。鍋の蓋を取ろうとした女の掌を制してから、おとこは胸ポケットに綺麗に四つに畳んでしまってる茶封筒を取り出す。カサカサ鳴る音を確かめてから丁度20粒、小さな黒くて丸い種を左手に受けて、先ほど女が開けようとした鍋の中に、全体が均等に散らばるようにひとつひとつ丁寧に落としていく。
「これで丁度、茶碗2膳分だ」
いったん閉めた蓋を再び開けると、女が待ち望んでいる朝の甘い香りが部屋の中を満たしていく。そんなとき、未だ行ったことも行くこともない遠い異国の朝もやと石畳の地面から蒸気が噴き出す光景がありありと近づいてくるのだ。女の見つめている白日夢を横目で満足そうにして、白粥二膳を並べた朝がしつらえていく。おとこの顔は幸せだ。隣の女には、そう見えた。
そして、おとこのの唯一の持ち物の茶封筒の中身も少しずつ痩せていく。だから、おとこは種を蒔く。女のしつらえた植木鉢ひとつに七粒ずつ。その朝は、毎朝のしつらえよりも一粒多く茶封筒から出ていった。
三日後に紫の小さな双葉が出て、ひとつとして外れずに出てきた一本の苗は鉢の2倍の高さまで成長すると、白い蕾は双葉と同じ紫色の花を咲かせた、花びら五片の小さな花は、それでも鉢いっぱいを丸くするほどたくさん咲いて、女が初めての晩にうっとり浸ってから花の名を聞こうとしても、もうおとこの方はすっかり姿を消していた。
花は蕾の頃のさやに戻って、ひとつのさやに七粒の種をつける。女は乾いた順にさやを剥き、おとこの残した茶封筒に少しずつ種を増やしていく。
サラサラ さらさら 振って
咲くのはあれほど一斉なのに、種に戻るのはどの鉢も毎日一房だけ。21粒を茶封筒に入れて、20粒を使っていく毎日。おとこが出ていったあとも女の朝は変わらない。同じ量のお粥を炊いて、甘い香りの朝をしつらえる。いずれ陰膳の習慣はなくなり、おんなは毎朝二膳のお粥を食べるようになる。鏡の中に少し太った姿を見つけるようになったころ、鉢は枯れて、茶封筒に少しばかりの種だけが残った。
「陽気な女が、あたしにはもう用がないからあげるって、小さな黒くて丸い種をちょうど21粒もらったよ。すぐに荒物屋で4号鉢を3つ買って蒔いてみたんだが」と、噺家のように顔の向きを変えながらの稽古の痕が見え隠れする話も下げが近づいたらしい。生の老人の顔にもどって、おとぎ話を終える段になった。「紫の双葉どころか芽なんて一つとして生えてはこなかったよ」
そっけない幕切れで、昔語りは打ち止めになった。それでも帰りがけ、「茶封筒は底が抜けそうなんで変えてしまったけど、あの時の種は7粒まだ入ってるよ」と、両手のふさがった私のポケットにねじ込んだ。窓の開かない電車の窓から両手を振ってくれる老人の姿はだんだん小さくなっていった。日が十分傾いた茜色に向かって茶封筒をかざしてみる。老人の言う通りきっちり7粒入っているのが分かった。サラサラさらさら振っても7つと分かった。
駅につくと、デスクには直帰したい旨告げた。公衆電話の向こうでは、何か違和感が横たわっているような感じを受けていたから、いつものような倍の直球返しはなく、ただ黙って「分かった」と告げられた。両手はふさがっているのに、家路の途中に荒物屋で四号鉢3つを買った。店を出るとき、こんなのが売れるなんて珍しい、と客の去らぬ間にひとり言を云う女あるじの癖が聞こえた。アパートに着いたとき、園芸用スコップも買ってくるんだったと後悔したら、外階段の日陰の中に茜色を受けて光っているのが目に入った。新品ではなかったが、使ったまま放ったらかしになったものではなく、丁寧に横に置かれていた。部屋に入り、茶封筒を同じ茜色に照らし、種の在り処を確認してから、私は封を切った。
帰りがけ、「茶封筒は底が抜けそうなんで変えてしまったけど、あの時の種は7粒まだ入ってるよ」と、両手のふさがった私のポケットにねじ込んだ。窓の開かない電車の窓から両手を振ってくれる老人の姿はだんだん小さくなっていった。日が十分傾いた茜色に向かって茶封筒をかざしてみる。老人の言う通りきっちり7粒入っているのが分かった。サラサラさらさら振っても7つと分かった。
駅につくと、デスクには直帰したい旨告げた。公衆電話の向こうでは、何か違和感が横たわっているような感じを受けていたから、いつものような倍の直球返しはなく、ただ黙って「分かった」と告げられた。両手はふさがっているのに、家路の途中に荒物屋で四号鉢3つを買った。店を出るとき、こんなのが売れるなんて珍しい、と客の去らぬ間にひとり言を云う女あるじの癖が聞こえた。アパートに着いたとき、園芸用スコップも買ってくるんだったと後悔したら、外階段の日陰の中に茜色を受けて光っているのが目に入った。新品ではなかったが、使ったまま放ったらかしになったものではなく、丁寧に横に置かれていた。部屋に入り、茶封筒を同じ茜色に照らし、種の在り処を確認してから、私は封を切った。